ネルウァ

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マルクス・コッケイウス・ネルウァ
Marcus Cocceius Nerva
ネルウァ胸像
在位 96年9月18日 - 98年1月27日
全名 マルクス・コッケイウス・ネルウァ
出生 35年11月8日
ナルニア(現:ナルニ
死去 98年1月27日(満62歳没)
ローマ
父親 マルクス・コッケイウス・ネルウァ
母親 セルギア・プラウティッラ
  

マルクス・コッケイウス・ネルウァ古典ラテン語Marcus Cocceius Nerva35年11月8日 - 98年1月27日)は第12代ローマ帝国皇帝(在位:96年9月18日 - 98年1月27日)。後世五賢帝と称される最初の1人であり、以降1世紀近く続いたパクス・ロマーナを維持し、ローマ帝国全盛時期の幕開けとなった。

目次

[編集] 生涯

[編集] 皇帝即位まで

ネルウァはローマから北にあるエトルリア地方のナルニア(現:ナルニ)の裕福な家庭に生まれた。曽祖父は紀元前36年に執政官、祖父は21年に補充執政官、父は40年に補充執政官を務め、名前はいずれも同名のマルクス・コッケイウス・ネルウァであった。母はセルギア・プラウティッラ、姉妹にコッケイアがおり、コッケイアは69年ローマ皇帝となったオトの兄弟に当るルキウス・サルウィウス・ティティアヌス・オト(en)と結婚した。

65年、30歳で補充執政官に選出され、その年に発覚したガイウス・カルプルニウス・ピソ(en)を皇帝に擁立する陰謀計画を潰したことによる論功で、皇帝ネロからガイウス・オフォニウス・ティゲッリヌスプブリウス・ペトロニウス・トゥルピリアヌスと共に凱旋の名誉を与えられ、更にネルウァは自身の胸像を広場に設置することも認められた[1]

68年からの内戦時期のネルウァの行動は明らかではないが、皇帝オトの義理の兄弟にあたる立場から、ウェスパシアヌスを始祖とするフラウィウス朝から重用されたと考えられる。事実、ウェスパシアヌス治世下の71年に執政官へ選出された。

その後暫くの動向は不明ながら、ドミティアヌス治世下の90年に再び執政官に選出された。その前年の89年に高地ゲルマニア総督ルキウス・アントニウス・サトゥルニヌス(Lucius Antonius Saturninus)が反乱を起こし僅か24日で鎮圧されているが、ネルウァを執政官へ唐突に選出した背景にはサトゥルニヌス反乱鎮圧に対する論功の可能性も考えられる[2]

[編集] 皇帝即位

96年、ドミティアヌスが暗殺され、一時的な無政府状態に陥った。元老院と激しく対立し、貨幣の改悪や増税、公私にわたる醜聞の絶えなかったドミティアヌスの後継として、元老院の総意によりネルウァが第12代ローマ皇帝に指名され、元老院の圧倒的な支持の下、自ら皇帝に就任した。

しかしながら、先帝ドミティアヌスは兵士への給料増額等の優遇策により軍からの人気が高く、信任も篤かったのに比べ、老齢で軍への影響力をほとんど持たない新皇帝ネルウァへの支持は消極的であった。このことは、ネルウァを取り巻く関連当事者のうち、元老院のみに支えられた脆弱な構図を露呈することになり、政権の安定性を欠いた危うい側面を持っていたといえる。加えてネルウァ自身に実子がなく、高齢であったことから、次期皇帝の後継者候補選びという難題にも直面していた。

ネルウァが描かれた硬貨

これらの難題に対して、ネルウァは当時高地ゲルマニア総督であったトラヤヌスを次期皇帝候補として自らの養子に指名した。トラヤヌスは当時ゲルマン人との最前線に立ち、軍からの信望は絶大であった。この皇帝人事により、ネルウァは後継者選びによる政局混乱の収拾と政権の安定に必要な元老院と軍双方への影響力保持という難題をうまく解決したといえる。なお、ネルウァ以降、五賢帝時代はマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝を除き後継男子に恵まれず、次期皇帝をすべて実子以外の養子から指名している。そして、このことが結果的に能力に優れた人材から皇帝が選出されるシステムを作り出し、以降1世紀近くもの間パクス・ロマーナとローマ帝国全盛期を支える原動力となっていった。

皇帝即位から1年4ヶ月後の98年1月に62歳で死去。後継者に指名されていたトラヤヌスは任地でネルウァの訃報とともに次期皇帝指名の知らせを受け、第13代ローマ皇帝に就任した。

在位期間は1年4ヶ月に過ぎず、皇帝在位中には目立った業績も無いが、トラヤヌスを次期皇帝に指名することにより、ドミティアヌス死後のローマ帝国における混乱を鎮めるワンポイント・リリーフとしての役割を果たした。ネルウァのトラヤヌス後継者指名により、結果として後のローマ帝国発展のきっかけとなったと言える。

[編集] その他

大変な詩才の持ち主であり、皇帝ネロの友人であった為、詩の代作者だと噂されたほどである。また先帝ドミティアヌス男色相手の一人であり、洒落者としても知られていた。

[編集] 脚注

  1. ^ タキトゥス「年代記」15.72
  2. ^ Murison (2003), p.150

[編集] 参考文献

  • クリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』(創元社、1998年)
  • 南川高志『ローマ五賢帝―「輝ける世紀」の虚像と実像』(講談社現代新書)
  • タキトゥス著 『年代記』下、国原吉之助訳、岩波文庫
  • Murison, Charles Leslie (2003). "M. Cocceius Nerva and the Flavians(英語版)


最終更新 2009年11月3日 (火) 01:34 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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