ハインツ=ハラルド・フレンツェン
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| ハインツ=ハラルド・フレンツェン | |
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ハインツ=ハラルド・フレンツェン(DTM ブランズハッチ/2006年)
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 同・メンヒェングラートバッハ |
| 生年月日 | 1967年5月18日(42歳) |
| F1での経歴 | |
| 所属チーム | '94-'96,'03 ザウバー '97-'98 ウィリアムズ '99-'01 ジョーダン '01 プロスト '02 アロウズ |
| 活動時期 | 1994-2003 |
| 出走回数 | 157 |
| 優勝回数 | 3 |
| 通算獲得ポイント | 174 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 18 |
| ポールポジション | 2 |
| ファステストラップ | 6 |
| F1デビュー戦 | 1994年ブラジルGP |
| 初勝利 | 1997年サンマリノGP |
| 最終勝利 | 1999年イタリアGP |
| 最終戦 | 2003年日本GP |
| タイトル | 0 |
ハインツ=ハラルド・フレンツェン(Heinz-Harald Frentzen, 1967年5月18日 - )は、ドイツ出身のレーシングドライバー。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] F1以前
1989年のドイツF3でカール・ヴェンドリンガー、ミハエル・シューマッハとチャンピオン争いを繰り広げた。彼ら3人はメルセデスより、ヨッヘン・マスのパートナーとして1990年のWSPCに持ち回りで参戦した。メルセデスからの英才教育を受け、将来F1へステップアップすることを期待された。
フレンツェンは1990年限りでジュニアチームを離脱し、F1への近道としてエディ・ジョーダンの国際F3000チームに加入するが、ジョーダンはF1進出を目前に控えていたこともありチーム体制が不安定であり、同僚2人が1991年にF1デビューを果たしたため、逆に遠回りな選択になってしまった。フレンツェンをサポートする筈だったキャメルのドイツ法人がジョーダンのスポンサーを下り、その資金をミハエル・シューマッハの所属するF1ベネトンチームに回すという皮肉な出来事もあり、またこの頃、フレンツェンはガールフレンドをシューマッハに奪われており、まさにどん底の時代を経験する。1992年、全日本F3000に参戦していた同郷のフォルカー・ヴァイドラーが突発性難聴で引退を余儀なくされたため、その後任としてノバエンジニアリングに加入、ミカ・サロやエディ・アーバインらと「F1予備軍」として競い合った。その走りに衝撃を受けた星野一義が自らピットに赴いて「お前はこんなところでくすぶっていないで早くF1に行け」[要出典]と激励したこともあった。
[編集] 全日本時代
全日本F3000時代は、監督の森脇基恭にその速さを「シューマッハより上」と賞賛されながらも、一方で「頭を使った走りができない」、「作戦や戦略というものがまるで頭に無い」とメディアに漏らすこともあり、英語が堪能で歯に衣着せぬ物言いの森脇には直接檄を飛ばされるなど相当にシゴかれたと言われる[要出典]。結局、速さは誰もが認めるところでありながら、全日本チャンピオンを獲得することはできなかったため、1993年の終盤、翌年のフレンツェン起用を決めていたペーター・ザウバーから、「彼は何が悪いのか?」、「彼の走りはどういう部分が問題なのか?」としきりに問われたと、森脇は1994年シーズン開幕直前のテレビ番組にて語っている。 しかし、結果森脇の指導の甲斐もあってか、「特殊」で知られ外国人ドライバーの誰もが苦労する全日本F3000の国産タイヤを見事に使いこなした。
[編集] ザウバー時代
1994年、ジュニアチーム時代の監督ペーター・ザウバーが興したザウバーからF1デビューを果たした。デビュー戦のブラジルグランプリでは、初体験となるセミオートマチックトランスミッションを難なく使いこなして 予選5位を獲得した。参戦2年目のチーム、初めてのサーキットでのデビュー戦で、セナ、シューマッハ、アレジ、ヒルに次ぐポジションは周囲を驚かせた。その結果を聞かされたミハエル・シューマッハは「何だ5位か。もっと上に来ると思ったのに」と呟いたという[要出典](フレンツェンの実力を恐れていたシューマッハは、チームと契約を結ぶ際には、「フレンツェンをチームメイトにしないこと」という一項を必ず加えたと言われている)[要出典]。フレンツェンの走りは、あのアイルトン・セナをして「自分の後継者は彼がふさわしい」として、注目しておくことをフランク・ウイリアムズに進言せしめるほどであったという[要出典]。この為、セナがサンマリノGPで事故死した後、その代役としてウィリアムズチームからオファーを受けたが、折悪しく翌戦のモナコGPにてチームメイトのヴェンドリンガーが瀕死の重傷を負ったことから、せっかく自分をF1へステップアップさせてくれた恩義に背くわけにはいかないとして[要出典]、この時は断ることとなった。翌年ザウバーのエースとなり、非力なマシンでチームの初表彰台を獲得した。
[編集] ウィリアムズ時代
1997年、フレンツェンは前年1996年のワールドチャンピオンであるデイモン・ヒルに代わりウィリアムズに加入した。迎えた1997年にフレンツェンは第4戦サンマリノGPで初優勝、第5戦モナコGPで初のポールポジションを獲得し、終盤には5戦連続表彰台フィニッシュを果たす活躍を見せたが、ワールドチャンピオンを獲得したチームメイトのジャック・ヴィルヌーヴに比べると見劣りがしたのも事実であった。翌1998年はルノーエンジンを失ったこともありヴィルヌーヴ共々精彩を欠いたシーズンとなり、フレンツェンはわずか2シーズンでチームを去ることとなった。
[編集] ジョーダン~プロストへ
その点で、翌1999年に移籍したジョーダンはF3000時代の旧知のチームで、エースとして戦える環境が揃っていた。シーズン中優勝2回・ポールポジション1回を獲得し、終盤までチャンピオン争いに食い込む活躍を見せた。雨中の乱戦となったフランスGPでは、巧みな燃費走行とピット戦略でワールドチャンピオンのミカ・ハッキネンを破って勝利を挙げた。
しかし、この年をピークにジョーダンは低迷し、新加入のヤルノ・トゥルーリによりフレンツェンの立場も微妙になっていった。ついに2001年ドイツGP終了後に、シーズン途中にも関わらず突如チームから解雇されることとなり、ジャン・アレジと入れ替わる形でプロストへ移籍することになった。当時のプロストチームは資金が底をついていたため、フレンツェンは無給であったが、参戦チーム中唯一パワーステアリングを持たないAP04で奮戦し、ベルギーグランプリでは予選4位を獲得して周囲を驚かせる。
この移籍劇の裏についてははっきりとした報道はなされていない。一説として上がるのはフレンツェンが開発が進まないジョーダンのマシンに業を煮やし自費でパーツの改良を願い出てエディ・ジョーダンと揉めた[要出典]と言う説がある。また、ジョーダンが翌2002年からホンダエンジンを搭載するにあたり、「ホンダとの契約条項に、佐藤琢磨を乗せる事があったため、フレンツェンを解雇せざるをえなくなった」とエディ・ジョーダンが語った事もある。数年後にはフレンツェンがジョーダン時代の契約金未払いに関してジョーダンを相手に裁判を起こし、勝訴している。
[編集] アロウズ~ザウバー復帰
翌2002年にはアロウズへ移籍し、2度のポイント獲得など光る走りを見せるが、第12戦ドイツGP終了後にチームが撤退することとなり、またしてもシートを失うこととなる。第16戦アメリカGPでは、翌2003年からの復帰が発表されていたザウバーよりスポット参戦(危険走行によりフェリペ・マッサがペナルティを受けることとなっていた為その回避として起用されたもの)する場面も見られた。
2003年、7シーズンぶりに復帰を果たしたザウバーチームでは、第15戦のアメリカGPにて表彰台(3位)を獲得するなどの活躍を見せた。しかし、ついにこの年をもってF1グランプリの舞台から姿を消すこととなる。
[編集] F1引退後
F1引退後は、2004年よりオペルチームからドイツツーリングカー選手権(DTM)に参戦。苦戦が続いていたが、2005年第4戦ブルノで初の表彰台(3位)を獲得した。オペルのDTM撤退に伴い2006年はアウディに移籍したが、思うような結果は残せず「チームからのサポートが得られない」として同年限りでアウディからも離脱。移籍先は決まっておらず、このまま引退する可能性もあったが、公式ファンクラブのサイトで、2008年以降のレース復帰に向けて意欲を示すコメントを出している。2008年には同年にスタートしたスピードカー・シリーズにスポット参戦した。
[編集] 人物像
大変に人の良い性格で知られており、2003年の引退時にはペーター・ザウバーに対し、「ニック(・ハイドフェルド)は何とかしてチームに残してほしい」とお願いをする[要出典]など、最後まで「ナイスガイ」であり続けた。(結局その願いはかなうことなく、2004年のザウバーはジャンカルロ・フィジケラとフェリペ・マッサの布陣となった)
その人柄ゆえか、ウィリアムズで成功できなかった理由として、チームのドライな雰囲気に馴染めなかった事が挙げられる。ザウバーや(後に移籍する)ジョーダンのような家庭的チームには水にあったが、ドライバーを突き放すウィリアムズではパトリック・ヘッドの冷たい態度に悩み、ストレスで体調を崩したことさえあった。また1997年の序盤戦時、マシンのセッティングにおいてもチーム側はフレンツェンが希望するオーバーステア傾向のセッティングではなく、前任のデイモン・ヒルに合わせたアンダーステア傾向のセッティングで走らせていたと言う[要出典]。当時のウィリアムズは、ドライバーの能力よりも自らの技術力に偏重する傾向にあるチームと言われ、まして加入したばかりのドライバーでは、なかなか言う通りはセッティングを行なわない傾向にあると言われていた。(アイルトン・セナでさえ、1994年の移籍時に同様の話が聞かれた[要出典]) また、チームメイトのヴィルヌーヴはルノーのエンジニアと(フレンツェンには分からない)イタリア語であえて会話するなど、チーム内での神経戦がフレンツェンの足を引っ張った面は否めない。1998年のイギリスGPではレースでリタイアした後、ついに堪忍袋の緒が切れチームにシーズン限りでの別れを告げたが、来季の構想からはすでに外れており首脳陣からは引き止めもされなかった。しかし、フレンツェンはウィリアムズのメカニックからは絶大な人気を得ていたことだけは唯一の救いだった。
デイモン・ヒル側から見れば、ウィリアムズを追い出した、ジョーダンでは圧倒的な差を見せつけ、引退への引導を渡した形になってしまい2人の関係は険悪そうに思われがちである。が、実際は2000年のジョーダンの新車発表時においてフレンツェンは「(前チームメイトの)デイモンの分まで頑張りたい」と語り、デイモンも引退後「F1 Racing」誌の誌面上において、フレンツェンに和気藹々とした雰囲気でインタビューしたり、2001年のドイツGP後の解任劇に関してエディ・ジョーダンの姿勢を厳しく批判しているなど、お互い認め合っている仲だと言っても差し支えない。“ナイスガイ”と言われている2人らしいエピソードと言えるだろう。
(スペイン語が堪能な理由として「離婚してスペインに移住した母親の許をよく訪ねたから」と「F1グランプリ特集」に掲載されたインタビュー中で語るなど、非常に家族思いなところにも人柄の良さが顕れている。)
[編集] 経歴年表
- 1994年 F1参戦(チーム:ザウバー)(マシン:ザウバーC13 メルセデス) 最高位4位 シリーズ総合13位
- 1995年 F1(チーム:ザウバー)(マシン:ザウバーC14 フォード) 最高位3位 シリーズ総合9位
- 1996年 F1(チーム:ザウバー)(マシン:ザウバーC15 フォード) 最高位4位 シリーズ総合12位
- 1997年 F1(チーム:ウィリアムズ)(マシン:ウィリアムズFW19 ルノー) 優勝1回 PP1回 FL6回 シリーズ総合2位
- 1998年 F1(チーム:ウィリアムズ)(マシン:ウィリアムズFW20 メカクローム) 最高位3位 シリーズ総合7位
- 1999年 F1(チーム:ジョーダン)(マシン:ジョーダン199 無限) 優勝2回 PP1回 シリーズ総合3位
- 2000年 F1(チーム:ジョーダン)(マシン:ジョーダンEJ10 無限) 最高位3位 シリーズ総合9位
- 2001年 F1(チーム:ジョーダン & プロスト)(マシン:ジョーダンEJ11 ホンダ & プロストAP04 エイサー) 最高位4位 シリーズ総合13位
- 2002年 F1(チーム:アロウズ & ザウバー)(マシン:アロウズA23 コスワース & ザウバーC21 ペトロナス) 最高位6位 シリーズ総合18位
- 2003年 F1(チーム:ザウバー)(マシン:ザウバーC22 ペトロナス) 最高位3位 シリーズ総合11位
[編集] 関連項目
- 森脇基恭 全日本F3000時代にチーム監督としてレースを共に戦った
- モータースポーツ
- ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月17日 (火) 08:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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