ハンファ・イーグルス
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| ハンファ・イーグルス | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 한화 이글스 |
| 漢字: | 韓華 이글스 |
| 片仮名: (現地語読み仮名) |
ハヌァ=イグルス |
| 英語: | Hanwha Eagles |
| ハンファ・イーグルス | |
| 創設年度 | 1985年 |
|---|---|
| 所属リーグ | |
| 韓国野球委員会 | |
| 歴代チーム名 | |
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| 本拠地 | |
| 大田ハンバッ運動場野球場 | |
| 収容人員 | 13,242人 |
| 縁故地 | 大田広域市 |
| 永久欠番 | |
| 21|23|35 | |
| 獲得タイトル | |
| 韓国チャンピオン(1回) | |
| 1999 | |
| 成績(タイトル以外) | |
| 韓国シリーズ出場(6回)(太字は勝利した年) | |
| 1勝5敗 1988・1989・1991・1992・1999・2006 |
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| プレーオフ(7回)(太字は勝利した年) | |
| 4勝3敗 1988・1991・1994・1999・2005・2006・2007 |
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| 準プレーオフ(7回)(太字は勝利した年) | |
| 4勝3敗 1990・1994・1996・2001・2005・2006・2007 |
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| Aクラス(11回) | |
| 1988-1989・1991-1992・1994・1996・1999・2001・2005-2007 | |
| Bクラス(13回) | |
| 1986-1987・1990・1993・1995・1997-1998・2000・2002-2004・2008-2009 | |
| 球団組織 | |
| オーナー | 金升淵(キム・スンヨン、ハンファグループ会長) |
| 運営母体 | ハンファグループ |
| 監督 | 韓大化(ハン・デファ) |
ハンファ・イーグルス(Hanwha Eagles)は大韓民国のプロ野球チーム。縁故地(ホームタウン)は大田広域市。本拠地は同市内の大田ハンバッ運動場野球場。この他、忠清北道清州市にある清州総合運動場野球場でも主催試合を行っている。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 草創期(1985-1987)
韓国プロ野球草創期、大田(テジョン)市(当時は忠清南道管轄)を本拠地として申し出る球団がなかったため、本来ソウルを本拠地として希望していたOBベアーズが、1984年のシーズンが終わるまで大田をホームとする新球団を創設する条件で、3年間大田に本拠地を構えていた。その間、KBOは忠清南道天安市出身の金升淵会長が総帥でいる韓国火薬(現 ハンファ)グループに大田を本拠地とする新球団創設を打診。韓国火薬グループがこれを受諾して、1984年シーズンオフ、新球団を創設。球団の名前につける企業名は、一般人に怖い印象を与える親会社の韓国火薬の代わりに、ファンにもっと親密に近づけるように、グループ傘下の食品会社である「ビングレ(韓国語でスマイルの意味)」に決定。ニックネームは一般公募を通じて一番の得票を記録した「イーグルス」とし、新球団「ビングレ・イーグルス」の船出になった。
KBOと既存の6球団はビングレのリーグ参加を容易にするため、保有選手を供出することに加え、1984年と1985年のドラフトで、それぞれ10枚の特別指名権を与えた。これでビングレ・イーグルスは当時ロサンゼルス・オリンピック野球代表出身を含む、当時のドラフトの目玉になっていた大学出身の新人の多くを入団させて、チームを形を作ることまでは難なく進んでいた。そして、ビングレ・イーグルスは、新球団のリーグ参加による衝撃を緩和するため、1年間の準備期間を経て、1986年シーズンからリーグ戦に参入させることにした。
しかし、各チームの保有枠から外れた選手や新人主体のチームは当時最下位の代名詞であった青宝ピントゥスと最下位争い。結局、球団元年の1986年は最下位、1987年は青宝を抜いて7チーム中6位で2年を過ごした。
[編集] 飛躍と挫折(1988-1992)
2年間の最下位争いの後、ビングレは初代監督の裵聖瑞(ペ・ソンソ)との契約の終了に合わせて、OBベアーズと三星ライオンズでそれぞれチームを優勝に導いた金永徳(キム・ヨンドク)を優勝請負人として監督に招いた。金永徳が監督を務めた1988年シーズンからチームは、その前とは違う戦いぶりを披露。シーズン序盤から上位争いに食い込み、当時全盛期を謳歌していた首位のヘテ・タイガーズに0.5ゲーム差の2位で前期リーグを終了、世間を驚かせた。後期リーグは3位で終了して、プレイオフで後期リーグ2位の三星ライオンズと対決。そこまで2年連続韓国シリーズに進出して、ポスト・シーズンの経験の豊富な三星の優位との予想を覆し、3連勝で三星を一蹴。また波乱を起こしながら、公式戦参入3年目で韓国シリーズ進出を決めた。ヘテ・タイガースとの韓国シリーズでは3連敗で一気に王手をかけられたが、それから第4,5戦をものにして、シリーズを第6戦まで持ち込んだ。結局第6戦に敗れて、2勝4敗で敗退した。
翌年のシーズンは1シーズン体制に制度が変更。リーグ戦の1位チームに韓国シリーズ直行の権利が与えられる制度の下で、ビングレは当時「ダイナマイト打線」と呼ばれた豪快な打線をバックにシーズン序盤から首位を快走。2位のヘテに5.5ゲーム差をつけて首位でリーグ戦を終了。2年連続で韓国シリーズ進出に成功した。そして、プレイオフを勝ち越してシリーズにあがったヘテとのリターンマッチになったシリーズの第1戦で李康敦(イ・ガンドン)がヘテのエース、宣銅烈から1回裏先頭打者ホームランを打ったのを合図に打線の爆発で宣銅烈を打ち崩し、シリーズの緒戦をものにした。そこまでの韓国シリーズで緒戦を勝ったチームは全部優勝したが、1回裏に4点を挙げて勢いを保ったまま迎えた2回戦の2回表に当時2年目のショート、張鍾熏(チャン・ジョンフン)が決定的エラーを犯して逆転負けを喫し、そのまま4連敗。また、準優勝に甘んじた。
1990年は、シーズン中盤まで首位を走るも、2年間の準優勝の後遺症で故障者が続出。9月以降失速して3位で公式戦を終了。準プレイオフで4位の三星ライオンズに2連敗で敗退した。
故障者の復帰と年間ホームランと打点の新記録を樹立して韓国を代表する巨砲として成長を遂げた張鍾熏を中心とした打線の活躍で1991年は2位で公式戦を終了してプレイオフに直行した。ここで、ロッテを下して勝ち上がった三星を3勝1敗で退けて、韓国シリーズに進出。しかし、3度目の挑戦となった今度の相手もまたヘテ・タイガースであった。ヘテはこの年公式戦で2位以下に大きな差をつけながら、首位を独走して韓国シリーズに進出した。それで、誰もがヘテの圧倒的有利と予想した。シリーズが始まると、予想通りビングレは第2戦まで終始圧倒され2連敗で本拠地に帰ってきた。
本拠地に場を移して開かれた第3戦で先発の宋津宇(ソン・ジヌ)が8回2死まで一人の走者も許さない投球を演出しながら、1対0でリード。この試合はレギュラーシーズンでもなかった完全試合への期待で全国の野球ファンの視線を固定させた。しかし8回の3人目の打者が打った平凡なファウルフライを当時のライト守備についていた李重和(イ・ジュンファ)が落球すると、その打者に四球を許し完全試合を逃した。結局、ここから宋津宇が打たれ出してその試合も1対4で逆転負けを喫した。翌日の第4戦も宣銅烈の前に手も出せないまま完敗して3度目の挑戦は1勝もあげられないまま終わった。
1991年も準優勝に終わったものの、翌年の1992年は最多勝と最優秀救援を席巻した宋津宇と韓国プロ野球史上初の年間40本塁打を記録した張鍾熏を軸にシーズン始めから首位を独走し、史上初の年間80勝を挙げながら、9月初旬に早くも韓国シリーズ進出を確定した。また、この年は宣銅烈がデビュー以来初めて負傷で戦線を離脱するなど2勝止まりだったのが影響して、公式戦2位ヘテが準プレイオフを勝ち抜いてきた同3位のロッテ・ジャイアンツに最終戦の第5戦までもつれ込む接戦の末敗退する結末でロッテがシリーズの相手になった。この時点まではついにビングレに優勝のチャンスが到来すると思われた。しかし、公式戦で7勝止まりだったロッテの投手朴東煕(パク・ドンヒ)がレギュラーシーズンとは見違える好投を披露してビングレ打線を封じ、このシリーズは誰も予想しなかったロッテの4勝1敗の優勝で幕を下ろした。
[編集] 沈滞期(1993-1998)
1993年シーズンは故障者続出であったが、特に2年連続でホームランと打点の年間記録を更新した張鍾熏の負傷と不振は致命的であった。そして、新戦力の方でも前年のドラフトで大卒、高卒でそれぞれ目玉になっていた具臺晟と盧長震(ノ・ジャンジン)を取りながら、具臺晟は故障、盧長震(ノ・ジャンジン)はプロの厳しいトレーニングについていけず、チームを離脱した。 結局、チームも5年ぶりBクラスへ転落して、金永徳監督がこのシーズンオフ限りで、韓国シリーズでの4度の失敗とこの年の不振の責任を取って、契約切れをもって退団した。
翌年の1994年は親会社の韓国火薬グループの総帥一家の相続を巡る争いで、それまでチームの冠会社だったビングレが系列から分離。しかし、プロ野球チームの保有はそのまま親会社の韓国火薬グループが続けることになった。そして、ビングレ側の分離を持って韓国火薬グループもハンファ・グループに名称を変更。それにしたがって、チーム名も「ハンファ・イーグルス」に変わって、ユニフォームやロゴも一新した。そして、金永徳監督の時にヘッド・コーチを務めて、またロッテ・ジャイアンツを2度の優勝に導いた姜秉澈(カン・ビョンチョル)を後任監督として招いた。この年は、序盤の不振を克服して、ペナント・レースのヘテと同率3位で終了。準プレイオフでは対戦成績で勝ち越したヘテの方に開幕権を譲ったが2連勝で通過。4度の韓国シリーズの中で3度の失敗のリベンジを少しながら果たした。しかし、プレイオフでは太平洋ドルフィンズに3連敗となった。
1995年からは、1990年前後を支えた選手たちに衰えが見え始めたにも、1992年入団の鄭珉哲と1993年入団の具臺晟を除くと、それを補う新戦力はなかなか登場せず、世代交代に苦労してチーム戦力は下降の一路をたどるようになった。1996年は、16勝24セーブで5冠(MVP、最多勝、最優勝防御率、勝率、最優秀救援)のタイトルを取った具臺晟の大車輪の活躍で公式戦3位で準プレイオフに進出したが、4位の現代ユニコーンズに敗退した。そして、1997、1998年は2年連続7位に止まり、1998年オールスターゲームの休みの期間中、姜秉澈監督を解任するに球団史上初のシーズン途中監督交代という事態に至った。
[編集] 初優勝(1999)
1998年シーズン途中、姜秉澈監督を解任してヘッド・コーチであった李煕洙(イ・ヒス)を監督代行として昇格させたが、7位でシーズンを終了。しかし、1998年シーズンオフ、後任の候補を探すも適任の人物が見つからず、そのまま李煕洙を正式監督として座らせ1999年シーズンを始めた。もともとプロでの監督経歴が1度もなかった李煕洙監督が2年連続7位のチームを受け継いで、監督代行の間、何も見せなかったこともあって、2リーグ制に制度の変更が行われた1999シーズンだったが、展望はよい方ではなかった。
しかし、この年は2年間不振に陥った宋津宇の復活とともに、鄭珉哲、李相睦(イ・サンモク)の先発3本柱が立ち直って、8球団の中で一番安定した投手ローテーションを確立。その後を抑えの具臺晟が締めるパターンで、先発3人は揃って14勝以上、具臺晟は8勝26セーブ。それに1998年から始まった外国人選手の導入でこの年獲得したデービスとローマイヤーは、それぞれ3割30ホームランとシーズン45ホームランの活躍を見せ、主砲の張鍾熏も28ホームランで復活。これらの活躍で夏場からはLGツインズとマジックリーグ2位の座を置いてし烈な争いを繰り広げた。
そして、9月中旬、現代ユニコーンズとの3連戦で3連勝した事から快進撃が始まり、LGを退いてマジック・リーグ2位の資格でプレイオフに進出。プレイオフでもドリーム・リーグ1位でリーグ全体でも1位の成績を収めた斗山ベアーズを4連勝で7年ぶり韓国シリーズ進出を確定した。ロッテとの韓国シリーズでは先発3本柱の安定した投球で4勝1敗で優勝した。
[編集] 2000年代(2000-2009)
2000年シーズンは、前年韓国シリーズを制覇し、チャンピオンになったにも、それが李煕洙監督の能力というより、すべてがよい方向に進んだ結果というのが多くの見方だった。結局、優勝の動力だった先発3本柱の方は、鄭珉哲は1999年シーズンオフに読売ジャイアンツに移籍、李相睦は故障でリタイアして、宋津宇一人だけ先発ローテーションを守るなか、外国人のデービスとローマイヤーも怠慢な態度を見せ始め、前年優勝した勢いは完全に消滅。チームは7位に逆戻り、結局、もともと多くを期待されなかった李煕洙監督は優勝した翌年を限りに退団。
2000年シーズンオフは自律野球を標榜し、投手分業制のシステムでLGツインズを優勝に導いた李廣煥(イ・グァンファン)監督を招いた。李廣煥監督は赴任初年度にチームを準プレイオフに導くも公式戦では勝率5割を切り負け越した。斗山ベアーズとの準プレイオフでも敗退。2002年は6位、監督が球団OBの柳承安(ユ・スンアン)に変わった2003年は5位、2004年は7位と成績は低迷した。
金寅植監督が就任した2005年は開幕前の低評価を覆し、公式戦4位で準プレーオフに進出し、3位のSKワイバーンズを破りプレーオフに進出したものの斗山に3連敗した。2006年は高卒ルーキー柳賢振(リュ・ヒョンジン)の活躍が話題を呼び、公式戦3位で準プレーオフ、プレーオフを勝ち抜き、前回の1999年以降、7年ぶりに韓国シリーズへ進出した。しかし、韓国シリーズでは三星ライオンズに1勝4敗1引分で敗退した。2007年も上位争いに食い込み公式戦3位で3年連続でポスト・シーズン進出に成功。準プレーオフで4位の三星ライオンズに勝って、3年連続でプレーオフに進出に成功したが、今度は2位の斗山ベアーズに3連敗で敗れ、韓国シリーズ優勝はまたお預けとなった。2008年はオリンピック休み以降、調子を落とし4位争いからも脱落。公式戦5位に終わり、4年ぶりにポストシーズン進出に失敗した。2009年は金寅植監督がWBC(ワールドベースボールクラシック)の韓国代表監督に就任し、準優勝の好成績を残したものの、肝心の自身の率いるチームは投手陣の世代交代失敗や、主砲金泰均の長期離脱もあり、6月から最下位を独走するようになった。そして長年チームを支えた宋津宇、鄭珉哲の2人のベテラン投手も引退を表明し、1軍リーグ参入初年度の1986年以来となる、23年ぶりのシーズン最下位を記録するなど、転機の1年となった。また金寅植監督もこの年限りで退任し、新監督には大田出身ながら現役時代や指導者の経歴を通してピングレ、ハンファに在籍したことのない韓大化が就任した。
[編集] チームの特徴
- 選手、監督を問わず、チームに所属する期間が他球団と比べて、比較的に長い。韓国プロ野球現役最年長の43歳まで現役を続け、21年間の現役生活のうち1度も移籍しなかった宋津宇(ソン・ジヌ、1989年入団、2009年引退)を始め、鄭珉哲(チョン・ミンチョル、1992年入団、2009年引退)、具臺晟(ク・デソン、1993年入団)などがあげられる。野手の方でも、19年間働いて引退した張鍾熏(チャン・ジョンフン)のほか、現在も経歴10年以上の生え抜き選手が多数いる。
監督の方でも創設から2009年まで24年間歴任した監督の数が7人で監督の平均寿命が3.4年であり、交代される時も大体は任期を満了して再契約を結ばない形で交代される。シーズン途中交代は1998年の姜秉徹監督一人だけである。
これは、親会社が攻撃的な投資をする余力が他の球団より少なく、FAなどによる補強の乗り出さないからでもあるが、目の前の成績よりチームの運営を長い目で見る特性に起因することもある。またチームに貢献してきたベテラン選手を優遇して1年や2年の不振では見切らないため、そのベテランたちが復活を遂げて選手生命を延長することの方が大きいと見られる。
- ビングレ時代はユニフォーム・チェンジが一度も起こされてなかったがハンファ・イーグルスになってからはユニフォームのメジャーおよびマイナーチェンジが頻繁に起こされた。ビングレ時代のユニフォームが8年に渡る長い寿命を持った反面、ハンファになってからは、メジャーとマイナーチェンジを含めて、15年間で6度のユニフォーム・チェンジがなされた。2009年からは韓国プロ野球では初めて選手の背ネームをローマ字で表記したユニフォームを着用する。
- 上述の主力の長い在籍のおかげで、韓国プロ野球創設メンバーの6球団(斗山、LG、起亜、三星、現代、ロッテ)より4年遅れて1軍リーグに参入したにもかかわらず、現在KBO所属球団最多の4人の100勝投手を輩出しており、またその中で二人が150勝以上(宋津宇、鄭珉哲)で韓国プロ野球史上3人しかない150勝投手のうち2人が所属していた。さらに宋津宇は韓国プロ野球唯一の200勝投手である。しかも、この100勝投手4人全員が選手時代には韓国の他の球団に所属した事のないイーグルス一筋である。
[編集] 歴代監督
- 裵聖瑞(ペ・ソンソ)1985-1987
- 金永徳(キム・ヨンドク)1988-1993
- 姜秉徹(カン・ビョンチョル)1994-1998.7(1998年シーズン途中成績不振の責任を取って解任)
- 李煕洙(イ・ヒス)1998.7-2000(1998年は監督代行)
- 李廣煥(イ・グァンファン)2001-2002
- 柳承安(ユ・スンアン)2003-2004
- 金寅植(キム・インシク) 2005-
[編集] 主な在籍選手
[編集] 投手
[編集] 主な退団・引退選手
[編集] 韓国人選手
- 柳承安(ユ・スンアン、在籍1986-1991)
- 球団創設メンバー。2003-2004年はチームの監督も歴任。
- 韓禧敏(ハン・ヒミン、在籍1986-1992)
- 球団創設時からローテーションを支えた下手投げ投手。1994年から翌95年まで、初の韓国人選手として台湾プロ野球・俊国ベアーズでもプレー。
- 李相君(イ・サングン、在籍1986-1996、1999-2001)
- 創設期からチームを支えてきたエース投手。1997年一時引退して投手コーチを勤めたが、個人通算100勝に未練を切れず、1999年現役復帰。そのおかげで、選手としてチームの優勝を経験し、願望だった個人通算100勝も達成できた。2001年シーズンを最後に再び現役引退して今はチームで投手コーチを務めている。
- 李康敦(イ・ガンドン、在籍1986-1997)
- 草創期の打線の中軸を努めた好打者。積極的なスイングで好球必打を信条とし、それでも高打率を残すなど、初球打ちの達人と言われた。
- 姜正吉(カン・ジョンギル、在籍1986-1995)
- 草創期、ダイナマイト打線と呼ばれたチーム打線で5番打者を任せられ、堅実な打撃で貢献した好打者。
- 李政勲(イ・ジョンフン、在籍1987-1994)
- 1987年の新人王。闘志溢れるプレイでファンに愛された。現役当時ダイナマイト打線と呼ばれたチーム打線のリードオフとして1991-1992年2年連続首位打者のタイトルを獲得。以降、韓国プロ野球で2年連続で首位打者をタイトルを獲得した打者は2009年まで出ていない。
- 張鍾熏(チャン・ジョンフン、在籍1987-2005)
- テスト生から入団して、引退する時は韓国プロ野球の個人通算最多本塁打記録を保持した。背番号35はチームの永久欠番となる。
- 詳しくは本人の項を参照。
- 韓容悳(ハン・ヨンドク、在籍1988-2004)
- 東亜大学中退後、張鍾熏同様テスト生として入団して、1990年代中盤はローテーションのエースにまで成長した。
- 入団時の背番号は、引退する時に40勝できればという願望を込めて40番を選んだが、引退した時はその3倍に上る120勝を超えた。ファンの間では張鍾熏に継ぐもうひとつのテスト生神話として愛された。
- 宋津宇(ソン・ジヌ、在籍1989-2009)
- 詳しくは本人の項を参照。
- 姜錫千(カン・ソクチョン、在籍1989-2003)
- 1989年入団で三塁手のポジションで堅実なプレイを見せ、現役当時の好打者が並んだチーム打線を完成させた。
- 鄭珉哲(チョン・ミンチョル、在籍1992-1999、2002-2009)
- 元読売ジャイアンツ。詳しくは本人の項を参照。
- 盧長震(ノ・ジャンジン、在籍年度1993-1998)
- 詳しくは本人の項を参照。
- 文東煥(ムン・ドンファン、在籍年度2004-2009)
- 詳しくは本人の項を参照。
- 趙成珉(チョ・ソンミン、在籍2005-2007)
- 元読売ジャイアンツ。詳しくは本人の項を参照。
- 金敏宰(キム・ミンジェ、在籍2006-2009)
- 詳しくは本人の項を参照。
- 李杋浩(イ・ボムホ、在籍2000-2009)
- 現福岡ソフトバンクホークス
- 金泰均(キム・テギュン、在籍2001-2009)
- 現千葉ロッテマリーンズ
[編集] 在日韓国人及び韓国系日本人選手
- 福士敬章(在籍1986)
- 韓国名は張明夫(チャン・ミョンブ)。元読売ジャイアンツ、南海ホークス、広島カープ。
- 1986年、青宝ピントゥスから移籍も1勝18敗の成績で同年限りで退団、引退。
- 吉村元富(在籍1986-1991)
- 韓国名は高元富(コ・ウォンブ)。元南海ホークス。
- 1989年、首位打者とゴールデングラブ賞を獲得。
- 高山智行(在籍2005)
- 元阪神タイガース。韓国名は高智行(コ・ジヘン)。
[編集] その他の外国人選手
- 宮城弘明(在籍1988-1992)
- 元ヤクルトスワローズ。韓国での登録名は金弘明(キム・ホンミョン)。
- もともと、韓国出身とは血縁関係のない日本人なので、当時のルールでは球団に所属できなかったはずだったが、知人の助けで身分をごまかして入団することができた。
- ダン・ローマイヤー(Dan Rohrmeier、在籍1999-2000)
- 1997年にシアトル・マリナーズでのメジャー経験あり。1999年、シーズン45本塁打で指名打者部門でゴールデングラブ賞受賞。
- ジェイ・デービス(Jay Davis、在籍1999-2002、2004-2006)
- 外国人選手としては史上最長となる7年間韓国で活躍。
- ブライアン・ウォーレン(在籍2001)
- 元千葉ロッテマリーンズ
- ホセ・ヌーニェス(在籍2001)
- 元福岡ダイエーホークス
- マーク・スミス(在籍2005)
- 元ヤクルトスワローズ
- エディ・ディアス(在籍2004)
- 元広島東洋カープ
- セドリック・バワーズ(在籍2007)
- 元横浜ベイスターズ、東北楽天ゴールデンイーグルス。韓国ではセドリックの登録名で登録した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月25日 (水) 01:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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