バリー・ボンズ
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| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1964年7月24日(45歳) |
| 身長 体重 |
188cm 104.3kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| 守備位置 | 外野手 |
| プロ入り | 1985年 ドラフト1巡目 |
| 初出場 | 1986年5月30日(MLB) |
| 年俸 | $15,533,970(2007年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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バリー・ボンズ(Barry Lamar Bonds、1964年7月24日 - 、カリフォルニア州リバーサイド生まれ)は、アメリカメジャーリーグの外野手であり、現在は自由契約選手である。父は、5度の「30-30」(30本塁打30盗塁)記録をもつボビー・ボンズ。母方の従弟はレジー・ジャクソン。名付け親はウィリー・メイズ。大リーグ史上最多の7度MVP(4年連続を含む)を獲得した。2003年からは、栄養補助食品会社「バルコ」に関する薬物醜聞についての中心人物の一人となり、2007年11月15日には司法妨害の罪と偽証の罪で大陪審から起訴された。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
幼い頃は、父とキャンドルスティック・パーク(当時のジャイアンツの本拠地)に通い、試合をダグアウトから観ていたという。高校では、通算打率が4割4厘、3年時の打率4割6分7厘で、全米選抜に選ばれた。1982年にはジャイアンツから2順目に指名されたが、この契約交渉は決裂し、ボンズはアリゾナ州立大学への進学を選ぶ。大学では、3年間で打率3割5分7厘・本塁打45・打点175を記録し、オールスターに3年連続で選出された。1985年には、ピッツバーグ・パイレーツから1巡目(全米6位)に指名され、入団した。この年の成績は、打率3割6分8厘・本塁打23・打点66。
[編集] 大リーグ時代
[編集] パイレーツ時代
1986年の5月30日には、メジャーデビューする。86年の成績は打率2割2分3厘・本塁打16・打点48・盗塁36。プロ2年目での慌ただしい昇格と、与えられた背番号が24でなかったことが成績の低下を招いたとして、球団に不満を訴えた。1988年には、成績に改良が見られ、打率2割8分3厘・本塁打24に達する。
1990年には、3割1厘・本塁打33・打点114・盗塁52を記録し、チームを地区優勝に導いたことで、彼にとって最初のMVPを獲得する。1992年には、3割1分1厘・本塁打34・打点103・盗塁39を記録し、3年連続となる地区優勝を果たすと2度目のMVPを得た。しかしチームはワールドシリーズに進めず、オフにFAとなったボンズはジャイアンツへと移籍する。移籍したボンズは背番号24を希望するがメイズの永久欠番となっていたため、父の着けていた25を引き継ぐ。
[編集] ジャイアンツ時代
移籍初年度となった1993年は、3割3分6厘・本塁打46・打点123と軒並み自己記録を更新し、ジョー・ディマジオやミッキー・マントルなど往年の名選手7人に続いて、3度目のMVPを受賞する(4年間で3度の受賞は大リーグ史上初)。更に1996年にはホセ・カンセコに次いで当時史上2人目となる「40-40」を記録し、1998年には通算「400-400」を達成した。
1998年まで走攻守に際立った活躍を見せていたが、1999年のスプリングトレーニング時にいつもより体重を増やした状態で登場すると、それ以降守備と走塁を犠牲にし、より純粋な長距離砲として活躍していくことになる。しかし1999年は怪我の影響もあり102試合にしか出場できず、成績も打率.262、34本塁打、83打点に終わり、「ボンズはもう終わった選手」とまで書かれる事もあった。ただし僅か355打数で34本塁打を放っており、本塁打率は自己最高を記録している。
2000年には打率.306、49本塁打、106打点を記録し、復活を遂げる。本塁打は1位のサミー・ソーサに1本差に迫り、MVP投票でも同僚のジェフ・ケントに次ぎ2位にランクした。
2001年にはマーク・マグワイアの70本塁打を更新するシーズン73本のメジャー新記録を打ち立てた。他にも177四球と長打率.863は、70年以上前にベーブ・ルースが打ち立てたメジャー記録を更新するものだった。そしてメジャー史上初の4度目のMVPに輝くと、以後2004年まで4年連続でMVPを手にする事となる。
2002年は打率.370、46本塁打、110打点を記録。自身初の首位打者を記録したが、38歳での首位打者はメジャー最高齢記録だった。またこれまではボンズの後ろを打つ事の多かったジェフ・ケントが、ボンズの前を打つ事が増えたため、結果として四球がさらに増加。前年に自身が更新した四球記録をさらに塗り替える198四球を記録し、同時に1969年に同じジャイアンツのウイリー・マッコビーが記録していた45敬遠を塗り替える68敬遠を記録。結果として出塁率は従来のテッド・ウィリアムスの持っていた.553を大幅に上回る.582を記録し、メジャー記録を更新。OPSは1.381を記録し、1920年にベーブ・ルースが打ち立てた1.382に肉薄。この年は四球、敬遠、出塁率で記録を更新し、2001年に引き続いて3つのメジャー記録を更新したこととなった。 また自身初となるワールドシリーズを経験。エンジェルス相手に7試合で打率.471、4本塁打を放つなど大活躍するが、13四球(ワールドシリーズ記録)と歩かされ結果的に敗北する。
2003年は父であるボビー・ボンズの死去(詳しくは下の「父親との関係」を参照)もあり、若干パフォーマンスが落ちたものの、打率.341、45本塁打、90打点を記録。ジェフ・ケントが移籍したこともあり相変わらず勝負を避けられることは多く、61敬遠は前年に自身が記録したものに次いで歴代2位だった。また6月23日のドジャース戦で通算500盗塁を達成したことで、同時に史上初の「500-500」を記録した選手となった(2009年現在においても、ボンズ以外には400-400すら達成者はいない)。昨年に引き続いてチームはポストシーズンに進出したが、地区シリーズでは4試合で8四球(地区シリーズ記録)と歩かされ敗退。
2004年は打率.362、45本塁打、101打点を記録。40歳での首位打者獲得となり、2年前に自身が更新した最高齢記録を塗り替えることとなった。また以前にも増して徹底的な四球攻めに遭い、120敬遠を含む232の四球を記録。出塁率は6割を超え、OPSは1.422を記録し、四つのメジャー記録を更新。9月には史上3人目となる通算700号本塁打を達成している。
2005年は故障でシーズンの大半を欠場。9月になってようやく復帰したが、わずか14試合の出場に終わる。これはジャイアンツにとって大きい誤算となり、1996年以来9年ぶりの負け越しを記録することとなった。
2006年には5月28日のロッキーズ戦で715号を放ち、ベーブ・ルースの記録を更新。シーズン全体では130試合に出場し打率.270、26本塁打、77打点に終わり、さらなる体重増加により守備・走塁能力にも衰えは明らかであったが、115四球はリーグトップ、38敬遠、出塁率.454はメジャー全体トップを記録するなど、打撃技術は健在であることを示して見せた。
2007年は通産本塁打の記録更新が近付いていたため開幕から注目されていたが、メジャーデビューから22年目の2007年8月4日、ペトコ・パークのサンディエゴ・パドレス戦でハンク・アーロンの持つ755本のメジャー通算本塁打記録に並ぶ。それから三日後の8月7日、AT&Tパークのワシントン・ナショナルズ戦でマイク・バシック投手から756本目となるホームランをライトスタンドに打ち込みメジャー通算本塁打記録を塗り変えた。ゲーム中にもかかわらず10分に及ぶセレモニーで新記録を祝い、ボンズが自らマイクを握り挨拶を行った。「父さん、皆さん、ありがとう!」と挨拶を締めくくった。なお、チームメイトとの不和が盛んに囁かれてきたボンズだが、このときはベンチ総出で祝福されている。
記録更新から約一ヵ月後の9月15日、756号の記念ボールが大方の予想を大きく上回る75万2467ドル20セント(約8600万円)で落札された。8月28日にオークションが始まった時点での金額は10万ドルだった。なお、落札者が実施した投票の結果、この記念ボールは参考記録を示す「*」マークを付けて野球殿堂に寄贈されることが決まった。
9月21日に、年俸の高さ、チームの低迷、チームの若返りの方針、薬物問題によるイメージダウンなどにより、サンフランシスコ・ジャイアンツは来期以降のボンズとの契約を延長しない意思をボンズに伝え、シーズン中にも関わらず退団が決定した。その頃怪我で出場を見送っていたボンズは、26日のパドレス戦にスタメン出場し、三打数無安打に終わった。結果的にこの日が現役最後の出場となっている。シーズン全体では打率.276、28本塁打、66打点を記録。132四球、43敬遠、出塁率.480は2006年に引き続きメジャートップの記録だった。
現在代理人は「ボンズはプレーする用意がある」との声明を発表しており、ボンズ本人も「まだ引退したつもりは無い」と語っているが、公にボンズ獲得を表明する球団は出てきていない。こうしてボンズは事実上、球界から「追放」されることとなった。
[編集] 逸話
[編集] 性格・態度について
大学時代からチームメイトを選り好みし、1A時代のルームメイトは彼の不遜な態度に業を煮やして同居を拒否し、また他のチームメイトもボンズの陰口を叩いていたという[1]。
マイナー時代、パイレーツにドラフト1位指名(全米6位)を受け、ルーキーイヤーに1Aのチームに合流した初日、監督室にノックもせずに勢い良くやってきて「俺はバリー・ボンズ。ドラフト1位選手だ」と不躾な自己紹介をした。当時の1A監督であったエド・オットーはそんなボンズの顔を睨み付け「私はエド・オットーでお前さんの監督だ。それが分かったなら、とっととこの部屋から出て行きやがれ。それにノックする気がないのなら、二度とここには入ってくるな!」と怒鳴りつけたという[1]。
エド・オットーの新人教育は厳しく、ボンズが守備で怠慢プレーを見せた時には容赦なくベンチに引っ込めることもあった。しかし、大学時代からボンズを甘やかしたといわれる実父ボビーとは違う厳格な接し方は次第にボンズの尊敬を勝ち取っていき、そのシーズンの終盤にはオットーとボンズは20分の予定のミーティングを2時間にまで伸ばして話し込む間柄になっていたという。また、オットーによってボンズはクラブハウスでの礼儀作法やメディア対策を伝授されたという[1]。
パイレーツ時代に左中間コンビを組んでいたアンディ・バンスライク、さらにジャイアンツ移籍当時の三塁手マット・ウィリアムスはベテラン選手にも軽口をたたくボンズをチームメイトの前で怒鳴りつけたこともある[1]。 1997年から2002年までの間3・4番コンビを組んでいたジェフ・ケントとは犬猿の仲で、お互いに試合におけるパフォーマンスは認めていたものの、しばしば口論する姿が見られており、2001年にはベンチで摑み合いの乱闘をする姿を公に晒している。 また、現在では、ロッカールームでは隣り合うロッカーの他、専属トレーナーにもロッカーを割当ててシャワールームに一番近い壁際のロッカーすべてを自分で占めており、自分専用のソファーと大型テレビも置いているという[2]。この専用ソファーにチームメイトが勝手に座ったとき、そのチームメイトを怒鳴りつけたことがある。
「投手がMVPになるということは野手に対する侮辱である。ワールドシリーズでMVPを取れば良いじゃないか」(かなり極端な発言ではあるが、投手にはサイ・ヤング賞があるため、実はボンズと似た考えの野手は少なくないとも言われている)「ルースの頃は白人しかいなかったんだから基本的に認めていない。MLB史上最強の打者は俺だ。」などの発言もある。
ジャイアンツにFA移籍した初年度のスプリングトレーニング初日、彼はクラブハウスに到着するなり、ピッチャー1人1人を指差して、「お前にも、お前にも貸しがある」と言い続けたといわれている。「貸し」というのは、パイレーツ時代に打ったという意味で、それはボンズ流の一風変わった自己紹介だった[1]。
このようなことからか、多くのチームメイトは彼の不遜な態度に不満を漏らしていてチーム内でも孤立しがちであるとされる。しかし、全米の注目を一身に集める中で放った新記録の756号となると話は別であり、先述のようにチームメートはもとより地元のファン、相手チームまで球場一体となって祝福ムードに沸いた。
マスコミ嫌いでも有名である。不振に陥っている時のボンズのロッカールームでのインタビューでは記者が凍り付いてしまうほどの緊迫した雰囲気であり、質問に対しての受け答えにおいても放送禁止用語が混ざってしまうこともあるほど。本国アメリカでは多くのマスコミを敵に回しているため否定的な報道が多いが、「死んでからでないと認めてもらえないのか」と涙を流したこともあったという。 1990・1992・1993年とMVPを獲得するパフォーマンスだったにもかかわらず、1991年にMVPを逃したのは記者との対立のため投票で不利になったためとも言われている。(この年MVPを獲得したのは3割1分9厘・本塁打22・打点86・盗塁10のテリー・ペンドルトン。ただし、彼は前年最下位のチームに移籍してきて中心選手としてワールドシリーズ進出に貢献したことも評価されている。)
1998年のマーク・マグワイアとサミー・ソーサのホームランの新記録争いの時に、ソーサにつくマスコミが少ないことや新記録のセレモニーに差があったことについて、彼が黒人だからではないかと各所で物議を醸したが、ボンズも人種差別と指摘した一人である。
前述の名付け親でもあるウィリー・メイズを尊敬している。パイレーツ時代までは彼と同じ背番号24をつけていた(因みにケン・グリフィー・ジュニアの背番号24も同じ理由である)。ジャイアンツへの移籍の際に、背番号として既に永久欠番になっていた24を付けたいと言ったのは前述の通り(その際も周囲から顰蹙を買ったという)。2007年のオールスターゲーム前のセレモニーにメイズが登場した時も隣に寄り添っていた。
時にユーモラスなジョークを言ったりと意外な一面もある。歴代ホームラン記録の更新が注目された2007年には記者にその事を問われると、ポツリと“もっとバントをしなきゃな(I've got to bunt more)”と言ったり、友人・知人が少ない事で知られているボンズが、2007年は新人のフレッド・ルイスを弟のように可愛がっており[3]、そのルイスが満塁本塁打を独立記念日に打ったり、母の日にサイクルヒットを達成したりすると、“祝日にだけ打つつもりかよ(Are you just going to hit on holidays?)”などとからかったりした[3]。
友達想いの優しい一面もある。2001年9月28日、マグワイアの持つシーズン70本塁打の記録を目指していたボンズはサンディエゴ・パドレス戦で68号を放ってダイヤモンドを1周した。ホームランを打った後天を指差すパフォーマンスで知られているボンズだが、この時はいつもよりとりわけ長く天を指差した。その後ベンチに戻ったボンズは泣き出してしまった。試合後の記者会見でボンズは、「今日のホームランを亡くなったばかりの友人フランクリン・ブラッドリーに捧げる」と語った。この亡くなったブラッドリーは10年来ボンズのボディガードを務めた親友でもあった。前日の9月27日に"ありきたりの"外科手術を受けて、合併症を引き起こして亡くなったというのだった。ボンズは"ありきたりの"手術と形容したが、ブラッドリーが受けた手術とは、肥満治療のための消化管手術だった。アメリカでは肥満の外科治療が大流行しているからこそ、ボンズは"ありきたりの"手術と形容したのだが、手術費用は2万5000~3万ドルと言われている。無保険者にとっては簡単に払える金額ではなく、ボンズは体重400ポンド(約180キロ)と肥満に苦しむ友が治療を受けられるようにと手術費用を援助していたのだった[4] 。
[編集] 日本および日本人選手との交流
日米野球で4度来日した他、長い選手生活においては日本や日本人選手と様々な形で関わりを持った。近年、母国では常に薬物疑惑を取りざたされるが、日本では比較的そのような批判から自由であるためか、メディアに対しても気さくに応じることが多いようである。
元チームメイトである新庄剛志は、孤立しがちなボンズと会話する唯一のメンバーであった。新庄は守備練習の時にグラブを手渡しするなどして、積極的にコミュニケーションをとっていたという。ボンズも打撃練習中に自分が使うマスコットバットを新庄に貸したこともある。後に新庄がニューヨーク・メッツに移籍した際や引退後にも、好意的なコメントを残している。
2007年のオールスターでは、同地区のライバル球団ロサンゼルス・ドジャースのクローザーでもある斎藤隆とロッカーが隣で、斎藤にバットを一本プレゼントした。斎藤は「バリーは今色々言われていて最初は身構えてしまったけれど、僕が話したバリーはとても気さくな人だった。バットのスイートスポットをあともうちょっと広くしたいとか色々話してくれた。」と述懐した。また、岡島秀樹とのツーショットも撮られた。
ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜とは、松井がFAの行使に迷っていた2002年の日米野球で来日した際、「メジャーでも成功するさ。日本と同じジャイアンツに来てほしい」などとエールを送った。また松井とは同年の日米野球の試合前に1974年「王vs.アーロン」以来の「日米ホームラン競争」が行なわれたが、緊張でホームランが打てずにいた彼に「肩の力を抜け」とジェスチュアーをしたり、肩を揉み緊張をほぐす等で気さくに接している。ヒューストン・アストロズの松井稼頭央には2006年のオフの自主トレの際には自身から声を掛けて色々打撃に関してアドバイスを送っている[5]。
しかしボンズと身近に接している記者によれば、日頃日本人選手についてコメントを求められてもさしたる注意を払わないが、野茂英雄とイチローに関してはやはり別格で、途端に饒舌になるという[6]。
イチローについては、2001年度のMLBオールスターゲームで知り合った後は、インタビューや自らのホームページで「イチローが初めからメジャーでプレーしていたなら、ピート・ローズの記録といい勝負が出来たに違いない」「俺が知る中で最も偉大な日本人選手」「一緒にプレーしたい」などなどメディア向けの発言とはいえ、最大級の賛辞を惜しまなかった[7]。
[編集] パフォーマンスの特徴・推移
キャリア初期から中期ともいえる1990年代においては走攻守三拍子そろった5ツールプレイヤーとして君臨した。「30-30」を5度、「トリプル3」(3割30本塁打30盗塁)を3度、「3割40本塁打40盗塁」を1度記録。このうち「40本塁打40盗塁」はホセ・カンセコ、アレックス・ロドリゲス、アルフォンソ・ソリアーノら歴代4人しか達成者がおらず、「3割40本塁打40盗塁」となるとカンセコとボンズの二人のみである。また外野手としての肩の強さ、守備範囲の広さもトップクラスで、レフトフィルダーながら8度のゴールドグラブ賞を獲得。走攻守のすべての面で際立った力を見せた。とりわけ、1997年のオールスターでデービット・コーンとイバン・ロドリゲスの黄金バッテリーから盗塁を奪った事でボンズの高い走力を再確認したファンも多い。
ESPNとSporting Newsがともに90年代最高の選手にボンズを選出している(歴代の受賞選手はタイ・カッブ、ジミー・フォックス、テッド・ウィリアムズ、ウィリー・メイズ、ピート・ローズ、マイク・シュミットなど)。通算7度のMVPのうち、この頃に3度獲得する。
2000年代以降からは守備・走塁が衰え、バッティングにおいて驚異的な成績を残すようになる。2001年のシーズン73本塁打を筆頭に、2001年からは出塁率5割以上、長打率7割以上を4年連続で記録する。このふたつの数字を足したものであるOPSにおいても1.200以上を記録、2004年には出塁率6割9厘、長打率8割1分2厘を記録しOPSはメジャー記録の1.421を記録。一般には、OPSは1.000を超えれば超一流といわれ、ボンズが極めて突出した数字を残していることになる。四球記録はボンズ自身が3度更新、敬遠数は2度更新、出塁率も2度更新するなど、この頃のボンズはほぼ自分の記録との戦いであった。一方で、これらの記録には常に薬物使用疑惑が暗い影を落としており、「ドーピングの産物」と冷ややかに見る者も多い。
バッティングにおいてはホームランの多さなどから、とてつもないパワーのあるパワーヒッターというイメージがあるボンズだが、パワーだけでなく、頭抜けたミート能力も持っている。このことは2004年に45本塁打を記録しながら三振がこれを下回る41という少なさだったことからも証明されている。ボンズはキャリア一年目に102三振を記録して以降、一度も100三振以上しておらず、元々三振が少ない打者であったのだが、2001年に73本塁打を記録して以降は本塁打率が極端に上昇したのにも関わらず、三振率は以前と同程度を維持している。ホームランバッターは大抵、三振も本塁打数同様多くなる傾向にあるが、ボンズは本塁打を現在ほど打っていなかったキャリア初期の方がむしろ三振の数は多い。ちなみに父親であるボビー・ボンズはシーズン三振記録を保持していたこともあるほど三振が多かった。 大振りすることなく、コンパクトに振りぬくだけで場外へ運ぶパワーがあり、ボール球にはほとんど手を出さない。そのためチャンスの場面でほとんど歩かされるのはもちろんだが、場合によっては無走者の状態でも歩かされることがある。また、1998年のダイヤモンドバックス戦では満塁から敬遠されたこともある。
その打撃力を物語る話として、新人時代にこんな挿話がある。パイレーツにドラフト1位指名(全米6位)を受けたその週に、ピッツバーグに招かれ当時の本拠地、スリー・リバーススタジアムで打撃練習を行った。その際、引っ張って15球中11球をスタンドに放り込んだところ、それを見ていたコーチの一人が、「そんなのは左打者ならみんなできる」といった。するとボンズは、「じゃ、これを見てみな」とレフトへ柵越えを連発した[1]。 このことはすでにボンズがホームラン打者としての桁外れの資質を周囲に示していたことになる。
30代の中盤まではバッティングだけでなく、守備のクイックスローや走塁などあらゆるプレーにおいて際立ったパフォーマンスを見せた。野球における勘もずば抜けており、ある試合でジャイアンツ打線が相手投手に手玉に取られていたとき、ボンズはぽつりと「グラブの角度が変わったらスライダー、まっすぐなら速球だよ」といった。チームメイトは違いが分からなかったがボンズはその後の数球の球種を的確に言い当てた[1]。
このような圧倒的なパフォーマンスはNFLの選手と合同で行うなどされる、球界で最もハードといわれるトレーニングに支えられている。前述のとおり、食事制限などの自己管理も徹底しており、体脂肪率は6%程度を常にキープしている。[要出典]
[編集] Splash Hit
ボンズの象徴ともいえるAT&Tパークのライト場外の海(マッコビー・コーブ)へ直接打ち込まれるホームランは"Splash Hit"(スプラッシュ・ヒット)と呼ばれる。
このホームランはジャイアンツのカウントによる公式発表では、2000年の球場オープン以来全部で69本で、ビジターの選手によるものが19本、ジャイアンツの選手が放ったものが50本である。ボンズはそのうちの35本を放っている[8](2009年シーズン終了時)。
シーンを見慣れているが故、簡単そうに見えるが全くそうではない。実際スプラッシュ・ヒットからボンズが記録した分を除くと、ビジターの選手が打った分を含めても、1年辺りで3.4本しか出ていないことになる。飛距離そのものとしては370フィート(約113メートル)ほどで可能だが、AT&Tパークは、25フィート(約7.6メートル)の高いライトフェンス、さらに常にライトからの強烈な浜風が吹いており、メジャーリーグで最も左バッターに不利な球場とも言われている。
イチローも「あの形、バッターとしては、一番理想に近い形でしょうね。(真似は)アメリカ人でもできない。彼にしかできないという印象。あれができれば、成績残りますよ」と語っている。ボンズの打ち込むホームランボールを目当てにカヌーで待ち構えるファンも多く(特にシーズン本塁打記録などメモリアルなホームランが迫ってくるとまた増える)、また時にはウエットスーツにサーフボードといういでたちで待ちかまえるファンもいる[9]。
[編集] バット・使用道具
2007年よりSSK社製のバットを使用。それまではwillson社製のサムバットを使用していた。今季の春季キャンプでの試打でSSKのバットを気に入ったボンズは、担当者に自分の使っているバットを手渡し「これと同じように作ってほしい」とその場で3ダースを注文したという。このバットは富山県のSSKバット協力工場で生産され、50年以上のバット作りの経験を持ち、また社長でもある本居和義らのバット職人によって行われる。ちなみに長さ86.6センチ、重量平均915.0グラム、材質はメイプルである[1]。 大抵のメジャーリーガーは使用するバットにはそれほど神経質にならないといわれているが、ボンズは乾燥度を気にかけ、常に打球音で弾き具合を確認するほどこだわりを持っている。また、2007年からバットの乾燥度を保つジュラルミンケースも使っている[1]。 また、バットのグリップ部分にテーピングをクロスしてグルグル巻きにしているのが好きらしく、しばしば試合中などにバットに巻いてあるのを確認できる。
バッティンググラブはfranklin社製、ホームでは手の甲がオレンジ、ビジターでは甲がグレーのものを使用。グラブはwillson社製の黒、ネット部分はグレーのものである。打席では肘あてを付けている。足には何も付けていない。
スパイクはFILA社製を使用。
[編集] 父親との関係
バリー・ボンズ(この項では以下、便宜上バリーと表記)の父親は先述の通り'70年代に活躍したメジャーリーガーのボビー・ボンズであり、バリーは「やるからには、その道のナンバー1になれ」と言われ育てられたという。また、ボビーはウィリー・メイズとも交流が深いチームメイトであったという経緯からバリーとメイズは出会うこととなる。
しかし、バリーは幼少期からボビーを非常に慕っていたが、野球で多忙だったボビーは家を空けることが多く、一緒に遊んでもらった記憶がほとんど無いとバリーは語っている。というのも、バリーが産まれたときボビーはまだ18歳であったため、バリーの幼少期は後に24歳でメジャーデビューするまで必死にマイナーでプレーしていた時期であった。
後にボビーはアルコール依存症にかかり、酒が原因で様々なトラブルを起こしてしまい、次第にバリーとボビーは疎遠となっていった。後にバリーが高校・大学と野球で素晴らしい成績を残してもボビーは振り向いてくれなかったという。だが、その後ボビーはケアを受けたことでアルコール依存症を克服。1993年、バリーがサンフランシスコ・ジャイアンツに入団し、ボビーがジャイアンツのバッティング・コーチに就任したのを機に2人は和解することとなった。
その後、2人は共に野球人生を歩むことになるが、バリーは先述の教えである「その道のナンバー1になる」つまり、ワールドチャンピオンになることが1度もできずにいた。そんな中、2002年 ボビーは肺癌と脳腫瘍が発症し、余命 幾許も無い状態となる。ボビーの命のあるうちにチャンピオンリングを手にしたいという想いから、2002年バリーは必死にプレーし、MVPを受賞するほどの活躍する。しかし、ジャイアンツはこの年ワールドシリーズには進むもののロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム(当時はアナハイム・エンゼルス)に敗北し、ワールドチャンピオンとはならなかった。
2003年、バリーは試合以外の時間はボビーの看病をするという生活を続けた。この年もバリーは必死でプレーし、6月23日史上初の「500-500」を達成。8月20日にはボビーがジャイアンツの試合を観戦しに来て、この日もバリーはホームランを打っている。しかし3日後の8月23日、ボビーは永眠。バリーはその後1週間バットも握れないほど落ち込んだという。だが、ボビーの死から1週間後の復帰戦ではランディ・ジョンソンからホームランを打っている。この年、MVPを獲得したバリーは「このMVPを父に捧げる。父には本当に感謝している」と涙ながらに語った。
2007年8月7日、756号ホームランを放ち、その後10分間の新記録を祝うセレモニーで、バリーはマイクを握り挨拶を行った。自身の家族や観客やチームメイトに感謝の言葉を告げ、最後には「My Dad... Thank you for everything! (父さん... ありがとう、すべてに感謝している)」と締めくくった。[10]
[編集] 薬物疑惑
[編集] 概要
2000年代以降に体格が突然巨大化したこと、30歳台後半の年齢でパフォーマンスが一気に向上した(年間45本塁打以上した過去6シーズンのうち、5回は35歳以降で記録しており、本塁打率(打数÷本塁打数)も1998年まで16.2であったのが1999年から2007年までは9.2と急上昇している)ことなどから、筋肉増強剤やヒト成長ホルモンなどのドーピングをしているとの噂が絶えなかった。
シーズン73本塁打の新記録を作った2001年の時点では、薬物の問題は表面化していなかったが、ボンズの体格が劇的に変化したことは、当時からマスコミでも度々取り上げられていた。
プロ入り当時は体重84キロで、98年までは86キロと、体格に大きな変化はなかった。それがドーピングを始めたと噂される99年から毎年増加し93キロ・95キロ・103キロと増えつづけ、そして2007年の大リーグ公式サイトの掲載においては109キロにまでなっている。
1998年のマグワイアとソーサの本塁打量産対決がボンズが薬物に手をだすきっかけを作ったという噂もある。1998年、従来の記録であったロジャー・マリスのシーズン61本塁打を大きく超えるハイレベルな二人の争いに全米中が熱狂した。その一方でこの年に打率.303・本塁打37・打点122・盗塁28という成績を残し、史上初の「400本塁打‐400盗塁」を達成していたボンズもこの二人の影に完全に隠れてしまった。プライドの高いボンズは、「このままでは一番でいられない、ホームランを打たないと誰からも注目してもらえない」と今までのスピードを捨ててホームランを打つためのパワーを手に入れようとした、というのである。
こうして、このあと数々の記録を打ち立てることになる凄まじい打棒と引き換えに「疑惑」はどんどん強くなっていくのである。
最初にそれを公衆の面前に晒したのは1999年の春季キャンプでのことで、前年のシーズン終了時とは見るからに違う体格をしていたボンズに対して地元記者が質問すると、「いつもと同じことをしただけだが、やり始めたのが少し早かった」とだけ答えている。投与に関ったとされるのは米国の栄養補助食品会社「バルコ」(BALCO: Bay Area Laboratory Co-operative)で、ボンズは1998年半ばから幼馴染のグレッグ・アンダーソンをウエートトレーニング・コーチとして雇い入れていた。当時すでにアンダーソンは後に告発されるバルコの創設者ビクター・コンテと深いつながりを持っており、陸上競技などでは禁止されていた化学薬品をボンズに与えていたという[11]。
2006年サンフランシスコ・ジャイアンツのレポーター2人によるボンズの薬物使用に関する暴露本『Game of shadows』が出版された。同著では、ボンズは1999年から少なくとも5年以上に渡って様々な薬物を使い続けたと述べられている。2007年1月11日、ボンズが2006年度の検査で禁止薬物のアンフェタミン(グリーニー)に陽性反応を示していたことが報道された[12]。
2007年11月15日、アメリカ連邦大陪審はボンズを偽証罪で起訴した。ボンズと同様にバルコからドーピング投与を受けた疑惑をもたれていた女子陸上競技選手マリオン・ジョーンズもドーピングしていたことを既に認めており、金メダルを返還して引退している。なお、ボンズの偽証罪の直接の訴因は「薬物を使用したこと」ではなく、容疑は「薬物を使用したにもかかわらず嘘の証言をした」ことである。
[編集] 疑惑に対する周囲の反応
ボンズの薬物疑惑が強まり、ルース、アーロンの通算本塁打数に迫るにつれて、ファンや米メディアの反応も厳しくなり、敵地の球場では、別扱いの参考記録を表す「*」マークやドーピング注射器が描かれたボードを掲げてボンズを野次る観客が多数出現するようになった。ボンズの守っているレフトに注射器が投げ込まれたこともある。「ベーブ・ルースはホットドッグとビールでやってのけた。ハンク・アーロンは社会階級と共にやってのけた。(暗に薬物を指して)お前はどうやってやったんだ?("Babe Ruth did it on hot dogs and beer. Hank Aaron did it with class. How did you do it?")」と揶揄されたりもした[13]。
一方で、選手たちの反応はおおむね正反対である。2007年5月にUSAトゥデイ紙が493人の現役大リーガーと469人のファンを対象に行ったアンケート調査の「史上最も偉大なホームラン打者は誰か」という項目において、ファンの回答で最も多かったのがハンク・アーロンの36%、次いでベーブ・ルースの33%、ボンズは8%にしか過ぎなかった。だが現役選手の72%がボンズと回答している。
ここにその現役選手たちのコメントを一部列挙する。
- 「彼はすごく簡単そうにボールを打っているけど、実際は難しいんだ。どうやったらあれだけ安定したスイングをできるのかオレには分からない。ステロイドを使った選手は他にもいるけど、ボンズに匹敵するヤツはだれもいない」「ステロイドを使っている他の選手のスイングに比べたら、ボンズがステロイドのおかげだけでホームランを打っているとは思えない。仮に彼がステロイドをやっていたと認めても、ホームランの価値が損なわれるとは思わない」‐デビッド・オルティーズ
- 「度重なる薬物検査の下、人間離れしたスウィングで僕らを驚かせるんだから、彼は本物だよ。素晴らしい動体視力とタイミングでボールを捉え続ける。単純に、彼は他の打者よりも優れているんだ」‐バリー・ジト
- 「皆と同じようにステロイドの使用については疑っている。だが、それと彼の打者としての偉大さは別さ」「打てる球が1試合に2球くらいしかないのにそれを本塁打にする。自分が対戦した時も2球だけだったのに、そのうちの1球を柵越えにした」‐トム・グラビン
これらコメントに代表されるように、選手たちの間では“ステロイドを使ったからといって簡単にホームランを打てるわけではない”とボンズを擁護する意見が多い[11]。
また、2007年シーズンにおいても当時メッツのギレルモ・モタが禁止薬物での50試合の出場停止処分を受けているように投手の禁止薬物使用も相当数に上っていることや、ボンズが薬物を摂取していたとされる2000年前後はまだ筋肉増強剤はMLBの禁止薬物に指定されてはおらず、使用の是非とは別にボンズをはじめとしたMLBの選手たちは、その当時筋肉増強剤を使用することにルール上は何も問題はなかったこともまた見逃せない事実である[11]。
薬物使用が確実視される中での記録達成とあって、周囲の反応が注目されたが、ボンズがアーロンの記録を破った試合の視聴率はわずか1.1%と、NFLのプレシーズンゲームにも惨敗する有様で、大多数のファンは無関心、あるいは冷淡な視線で見ていた事実を裏付ける結果となった。ちなみに、ハンク・アーロンがベーブルースの記録を破ったときにNBCが放送した試合の視聴率は、22.3%だった。
バド・セリグコミッショナーも球界の最高権力者という立場上、明言はしていないがアーロン同様その場にいたくないとの気持ちは隠しようがないといった感じで対応に戸惑っていた。言葉では「記録更新の瞬間にできる限り立ち会うつもりでいる」「試合への尊敬、記録の大きさ、この国ではすべての市民が有罪とされるまでは潔白であることから、わたしは彼が記録を更新する可能性があるかを見るために次の試合に立ち会う。記録がタイになった時点で追加声明を発表する」との声明文を発表していたが、否定的なスタンスを取り続けていた。755号を放った試合もセリグは観戦していたが、他の観客と違い拍手もせずポケットに手を突っ込んだままの姿で、神妙な面持ちだった。756号を放った試合においては結局セリグはジョージ・J・ミッチェルと面会するという名目で球場には姿を見せず、代理を送っていた。
また、この疑惑が強くなる中、他の選手の記録の正当性にも疑惑が示され、実はシーズン本塁打記録はロジャー・マリスの61本のままではないかという議論も起きた。2005年にはノースダコタ州議会がメジャーリーグ機構にマリスの記録が正当であると主張する事態となった。
[編集] 記録
- シーズン73本塁打(2001年)
- シーズン長打率.863(2001年)
- シーズン232四球(2004年)
- シーズン120敬遠(2004年)
- シーズン出塁率.609(2004年)
- シーズンOPS1.421(2004年)
- 4年連続で出塁率5割以上(2001年 - 2004年)
- 4年連続で長打率7割以上(2001年 - 2004年)
- 13年連続で30本塁打以上(1992年 - 2004年)
- 同一ポストシーズン最多本塁打8本(2002年)
- 30-30(30本塁打30盗塁)を5度達成(1990年、1992年、1995年 - 1997年)(父ボビー・ボンズと並び大リーグ最多記録)
- 40-40(40本塁打40盗塁)を達成(1996年)(史上4人)
- 史上初となる500-500(500本塁打500盗塁)を達成
- 40歳での首位打者、MVP獲得はともにメジャー最高齢記録(2004年)
- 4年連続MVP、通算7度受賞はいずれも大リーグ最多記録
- 通算762本塁打(2007年終了時点)(歴代1位)
- 通算2558四球(2007年終了時点)(歴代1位)
- 通算688敬遠(2007年終了時点)(歴代1位)
[編集] タイトル・表彰
- ナショナルリーグMVP:7回(1990年、1992年、1993年、2001年 - 2004年)
- 首位打者:2回 2002年(.370)、2004年(.362)
- 本塁打王:2回 1993年(46本)、2001年(73本)
- 打点王:1回 1993年(123打点)
- シルバースラッガー賞:12回 1990年 - 1994年、1996年、1997年、2000年 - 2004年
- ハンク・アーロン賞:3回 2001年、2002年、2004年
- ゴールドグラブ賞:8回 1990年 - 1994年、1996年 - 1998年
- MLBオールスターゲーム選出:13回 1990年、1992年 - 1998年、2000年 - 2004年、2007年
- AP通信アスリート・オブ・ザ・イヤー 2001年
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1986 | PIT | 113 | 484 | 413 | 72 | 92 | 26 | 3 | 16 | 172 | 48 | 36 | 7 | 2 | 2 | 65 | 2 | 2 | 102 | 4 | .223 | .330 | .416 | 0.746 |
| 1987 | 150 | 611 | 551 | 99 | 144 | 34 | 9 | 25 | 271 | 59 | 32 | 10 | 0 | 3 | 54 | 3 | 3 | 88 | 4 | .261 | .329 | .492 | 0.821 | |
| 1988 | 144 | 614 | 538 | 97 | 152 | 30 | 5 | 24 | 264 | 58 | 17 | 11 | 0 | 2 | 72 | 14 | 2 | 82 | 3 | .283 | .368 | .491 | 0.859 | |
| 1989 | 159 | 679 | 580 | 96 | 144 | 34 | 6 | 19 | 247 | 58 | 32 | 10 | 1 | 4 | 93 | 22 | 1 | 93 | 9 | .248 | .351 | .426 | 0.777 | |
| 1990 | 151 | 621 | 519 | 104 | 156 | 32 | 3 | 33 | 293 | 114 | 52 | 13 | 0 | 6 | 93 | 15 | 3 | 83 | 8 | .301 | .406 | .565 | 0.971 | |
| 1991 | 153 | 634 | 510 | 95 | 149 | 28 | 5 | 25 | 262 | 116 | 43 | 13 | 0 | 13 | 107 | 25 | 4 | 73 | 8 | .292 | .410 | .514 | 0.924 | |
| 1992 | 140 | 612 | 473 | 109 | 147 | 36 | 5 | 34 | 295 | 103 | 39 | 8 | 0 | 7 | 127 | 32 | 5 | 69 | 9 | .311 | .456 | .624 | 1.080 | |
| 1993 | SFG | 159 | 674 | 539 | 129 | 181 | 38 | 4 | 46 | 365 | 123 | 29 | 12 | 0 | 7 | 126 | 43 | 2 | 79 | 11 | .336 | .458 | .677 | 1.135 |
| 1994 | 112 | 474 | 391 | 89 | 122 | 18 | 1 | 37 | 253 | 81 | 29 | 9 | 0 | 3 | 74 | 18 | 6 | 43 | 3 | .312 | .426 | .647 | 1.073 | |
| 1995 | 144 | 635 | 506 | 109 | 149 | 30 | 7 | 33 | 292 | 104 | 31 | 10 | 0 | 4 | 120 | 22 | 5 | 83 | 12 | .294 | .431 | .577 | 1.008 | |
| 1996 | 158 | 675 | 517 | 122 | 159 | 27 | 3 | 42 | 318 | 129 | 40 | 7 | 0 | 6 | 151 | 30 | 1 | 76 | 11 | .308 | .461 | .615 | 1.076 | |
| 1997 | 159 | 690 | 532 | 123 | 155 | 26 | 5 | 40 | 311 | 101 | 37 | 8 | 0 | 5 | 145 | 34 | 8 | 87 | 13 | .291 | .446 | .585 | 1.031 | |
| 1998 | 156 | 697 | 552 | 120 | 167 | 44 | 7 | 37 | 336 | 122 | 28 | 12 | 1 | 6 | 130 | 29 | 8 | 92 | 15 | .303 | .438 | .609 | 1.047 | |
| 1999 | 102 | 434 | 355 | 91 | 93 | 20 | 2 | 34 | 219 | 83 | 15 | 2 | 0 | 3 | 73 | 9 | 3 | 62 | 6 | .262 | .389 | .617 | 1.006 | |
| 2000 | 143 | 607 | 480 | 129 | 147 | 28 | 4 | 49 | 330 | 106 | 11 | 3 | 0 | 7 | 117 | 22 | 3 | 77 | 6 | .306 | .440 | .688 | 1.128 | |
| 2001 | 153 | 664 | 476 | 129 | 156 | 32 | 2 | 73 | 411 | 137 | 13 | 3 | 0 | 2 | 177 | 35 | 9 | 93 | 5 | .328 | .515 | .863 | 1.378 | |
| 2002 | 143 | 612 | 403 | 117 | 149 | 31 | 2 | 46 | 322 | 110 | 9 | 2 | 0 | 2 | 198 | 68 | 9 | 47 | 4 | .370 | .582 | .799 | 1.381 | |
| 2003 | 130 | 550 | 390 | 111 | 133 | 22 | 1 | 45 | 292 | 90 | 7 | 0 | 0 | 2 | 148 | 61 | 10 | 58 | 7 | .341 | .529 | .749 | 1.278 | |
| 2004 | 147 | 617 | 373 | 129 | 135 | 27 | 3 | 45 | 303 | 101 | 6 | 1 | 0 | 3 | 232 | 120 | 9 | 41 | 5 | .362 | .609 | .812 | 1.421 | |
| 2005 | 14 | 52 | 42 | 8 | 12 | 1 | 0 | 5 | 28 | 10 | 0 | 0 | 0 | 1 | 9 | 3 | 0 | 6 | 0 | .286 | .404 | .667 | 1.071 | |
| 2006 | 130 | 493 | 367 | 74 | 99 | 23 | 0 | 26 | 200 | 77 | 3 | 0 | 0 | 1 | 115 | 38 | 10 | 51 | 9 | .270 | .454 | .545 | 0.999 | |
| 2007 | 126 | 477 | 340 | 75 | 94 | 14 | 0 | 28 | 192 | 66 | 5 | 0 | 0 | 2 | 132 | 43 | 3 | 54 | 13 | .276 | .480 | .565 | 1.045 | |
| 通算:22年 | 2986 | 12606 | 9847 | 2227 | 2935 | 601 | 77 | 762 | 5976 | 1996 | 514 | 141 | 4 | 91 | 2558 | 688 | 106 | 1539 | 165 | .298 | .444 | .607 | 1.051 | |
- 太字はリーグ1位。赤太字はメジャー歴代1位。2006年の出塁率、2007年の出塁率は、規定打席に届いていないが、残りの打席全てが凡退と仮定してもリーグ1位になる為、メジャーリーグ特別規定によりリーグ1位。
[編集] 脚注・参考資料
- ^ い ろ は に ほ へ と ち り 月刊メジャーリーグ132号,Vol.11,No8,2007年7月号,ベースボール・マガジン社,雑誌08625-7号,「756 Don't miss the moment.ザファイナルカウントダウン」
- ^ "Clubhouse confidential," USA Today, May 24, 2006
- ^ い ろ "Bonds and Rookie Find Strong Link In Their Games," New York Times, July 8 2007
- ^ "http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2004dir/n2589dir/n2589_07.htm" 実らなかったボンズの善意
- ^ "「マツザカフィーバー」の陰で、この男に期待!," 菊地 靖, NumberWeb, Feb 23 2007
- ^ "野茂英雄 引退の報に触れて," 鉄矢 多美子, Nikkan Sports, July 18 2008
- ^ "ボンズ「イチローと一緒にプレーしたい」," ノ・ジェヒョン, Chosun Online, June, 22 2006
- ^ http://www.mlb.com/sf/ballpark/splashhits.jsp
- ^ "Splash!――ボンズとスプラッシュヒット 丹羽政善, MAJOR.JP , July, 10 2007
- ^ 『バリー・ボンズ物語』(小学館・週刊少年サンデー野球増刊SCUD/8月10日発行)
- ^ い ろ は 月刊Slugger112号,2007年8月号,日本スポーツ企画出版社,雑誌15509-8号,「バリー・ボンズの本塁打記録更新は称賛されるべきか」
- ^ "Report: Bonds failed amphetamine test," Barry M. Bloom, MLB.com, Jan 12 2007
- ^ Bonds has No. 713 and confession: 'It's overwhelming right now'
[編集] 外部リンク
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
- 公式サイト(英語)
- 本人によるブログ
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最終更新 2009年11月28日 (土) 07:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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