バレーボール全日本女子

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バレーボール全日本女子
国または地域 日本
大陸連盟 アジアバレーボール連盟
協会 日本バレーボール協会
監督 真鍋政義
FIVBランキング 7位(2009年8月24日版)
オリンピック
出場回数 10回
初出場 東京 1964
最高成績 画像: Med_1.png金メダル(1964、1976)
世界選手権
出場回数 13回
初出場 1960 世界選手権
最高成績 画像: Med_1.png金メダル(1962、1967、1974)
アジア選手権
最高成績 画像: Med_1.png優勝(1975、1983、2007)
  
バレーボール全日本女子(2007年ワールドカップ)

バレーボール全日本女子(バレーボールぜんにほんじょし)とは、夏季オリンピック等の国際大会出場時に編成される、日本女子バレーボール代表チームの名称。

目次

[編集] 概要と特徴

[編集] ユニフォーム

1990年ごろまでは日の丸を連想するのユニフォームが定着していたが、1991年には赤、青、深緑、黒を基調にした4パターンのユニフォームが登場した。1995年にこれまで定番であったブルマーに変わりスパッツタイプが登場した。2003年にはノースリーブ型が登場し、2006年にはシャツの着丈とパンツの股上が短くなった。

[編集] プレイスタイル

ユニチカ以来の守備力重視のバレーを継承している。1996年アトランタオリンピック敗退後、高さ重視のバレーで戦っていたが、主力選手の度重なる怪我により再度守備力重視のバレーに方針を転換した。現在は守備力とスピードを重視したいわゆる3Dバレーを行っている。

[編集] チーム概観

2007年11月16日発表のFIVBランキング8位の位置につけている。

2001年に吉川正博監督が就任して以降、2001年のグランドチャンピオンズカップこそ銅メダルを獲得したものの、アジア選手権では日本女子バレー史上初のメダル無し、2002年の世界選手権においても13位タイのワースト記録を更新するなど、一時期低迷していた。

こうした戦績により吉川監督は事実上更迭され、後任となった柳本晶一監督がベテラン吉原や佐々木を復帰させるなどしてチーム再建に努めた結果、2004年アテネオリンピック北京オリンピックに出場を果たすなど、チームは一時の低迷を脱しつつある。

[編集] 歴史

日本が初めて世界大会に挑戦したのは、1960年の第3回バレーボール世界選手権である。日本は予選リーグを全勝で通過し、決勝リーグに進出した。決勝リーグも強豪国を撃破し、ソ連(現:ロシア)からは1セットを奪い初出場ながら銀メダルを獲得した。

1962年の世界選手権は日紡貝塚による単独チームによる出場で金メダルを獲得。1964年東京オリンピックも日紡貝塚を中心としたメンバーで金メダルを獲得した。大松博文監督が率いる同チームは東洋の魔女と呼ばれた。これ以後、日本とソ連が優勝を争う日ソ2強時代がしばらく続いた。

1968年メキシコシティオリンピック1972年ミュンヘンオリンピックはいずれもソ連に敗れて銀メダルであったが、1976年モントリオールオリンピックでは12年ぶりに金メダルを獲得した。山田重雄が率いる全日本は守りの粘り、攻撃の速さで他を圧倒し、ソ連との決勝戦は15-7,15-8,15-2と一方的な展開で試合は終了した。大会史上初の失セット0の完全勝利の快挙であった。

1976年モントリオールオリンピック優勝により1980年モスクワオリンピック出場権を獲得していた。選手強化も順調に進み、モスクワオリンピック前年のプレオリンピックでは優勝し、金メダルを獲得できる可能性はかなり高いと言われていた。しかし1979年に開催国のソ連がアフガニスタンに侵攻。アメリカ政府が提案したモスクワオリンピックのボイコット日本政府が同調、その結果不参加となった。

1984年ロサンゼルスオリンピックはソ連がボイコットした。準決勝で中国に破れたが、3位決定戦でペルーに勝って銅メダルを獲得した。

ロサンゼルスオリンピックで銅メダルという不本意な結果に終わると『単独チーム方式』では限界があるという声がしだいに大きくなった。1986年世界選手権では所属チームにこだわらず広く各チームから才能を集める『純粋選抜方式』で挑んだが結果は7位と沈んだ。

1988年ソウルオリンピックでは、山田重雄監督の下、日立中心のチーム構成で挑んだ。準決勝の対ペルー戦はフルセットの接戦となった。決勝進出まであと2ポイントというところまで迫ったが、ペルーの粘りで敗れてしまった。3位決定戦の対中国戦も敗れ、初めてオリンピックでメダルなしに終わった。

1992年バルセロナオリンピックは5位、1996年アトランタオリンピックは9位と成績は下降を続けた。2000年シドニーオリンピック最終予選では3連勝の後、中国、イタリアクロアチア韓国に4連敗をして、初めてオリンピック出場権を逃した。日本女子バレーの人気も実力もどん底となった。

2002年世界選手権は史上最悪の13位で終わり、直後の釜山アジア大会でも中国、韓国から1セットも取れずに3位で終わった。これらの責任を取る形で吉川正博監督を含む強化委員全員が辞任した。

2003年柳本晶一が監督に就任。吉原知子がキャプテンとして全日本に復帰し、大山加奈栗原恵などの若手選手が積極的に起用された。2004年5月のオリンピック世界最終予選では開幕から6連勝を果たし、最終戦では、ロシアに敗れたものの、2大会振りの出場権を獲得した。同年8月のアテネオリンピックではなんとか決勝トーナメントに駒を進めたが準々決勝で中国に敗れベスト8の成績に留まった。

2007年には木村沙織荒木絵里香など若き才能が活躍、第14回アジア選手権で24年ぶりに金メダルを獲得。

2008年、5月に行われた、北京オリンピック世界最終予選では、FIVBが大会期間中に出場規定の変更を通知したりするといういざこざがあったが、北京オリンピック出場権を獲得。その後の北京オリンピックでは予選通過したものの、準々決勝でブラジルに敗れ、アテネオリンピックと同じく5位に終わった。

2012年第30回夏季オリンピックロンドン大会へ向けた新体制が発足、監督に真鍋政義が2009年度より就任。併せて新たに愛称として火の鳥NIPPONという名称が命名された[1]

[編集] 過去の成績

[編集] オリンピックの成績

[編集] 世界選手権の成績

[編集] ワールドカップの成績

[編集] 代表メンバー


[編集] 歴代監督の一覧

国籍
前田豊 日本 1960年
大松博文 日本 1961年 - 1964年
船山浩志 日本 1966年 - 1967年
山田重雄 日本 1967年 - 1968年
小島孝治 日本 1970年 - 1972年
船山浩志[2] 日本 1973年
山田重雄 日本 1973年 - 1978年
小島孝治 日本 1978年 - 1982年
生沼スミエ 日本 1982年
米田一典 日本 1983年 - 1984年
小島孝治 日本 1985年 - 1986年
岩本洋 日本 1987年
山田重雄 日本 1988年
宗内徳行 日本 1989年
米田一典 日本 1990年 - 1993年
横田忠義 日本 1994年
小島孝治 日本 1995年
吉田国昭 日本 1996年
葛和伸元 日本 1997年 - 2000年
吉川正博 日本 2001年 - 2002年
柳本晶一 日本 2003年 - 2008年
真鍋政義 日本 2009年 -

[編集] 参考文献

[編集] 脚註

  1. ^ 全日本女子チームの愛称決定 日本バレーボール協会プレスリリース 2009年5月18日閲覧
  2. ^ 1973年ワールドカップヤシカによる単独チームの監督として出場。同時期に山田重雄が監督を務めるもうひとつの全日本が存在する。

最終更新 2009年10月23日 (金) 13:36 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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