バンカーヒルの戦い
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| バンカーヒルの戦い | |
|---|---|
![]() バンカーヒルでのウォーレン将軍の戦死 by ジョン・トランブル |
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| 戦争:アメリカ独立戦争 | |
| 年月日:1775年6月17日 | |
| 場所:チャールズタウン | |
| 結果:イギリス軍の辛勝 | |
| 交戦勢力 | |
| 大陸軍 | イギリス軍 |
| 指揮官 | |
| イズラエル・パットナム, ウィリアム・プレスコット, ジョセフ・ウォーレン†, セス・ポメロイ, (ウォーレンとポメロイは途中で指揮を降りた。) |
ウィリアム・ハウ, ロバート・ピゴー, ヘンリー・クリントン, サミュエル・グレイブス(海軍) |
| 戦力 | |
| 1,500 | 2,600 |
| 損害 | |
| 死者140、負傷271、捕虜30 | 死者226、負傷828 |
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バンカーヒルの戦い(バンカーヒルのたたかい、英:Battle of Bunker Hill)はアメリカ独立戦争のボストン包囲戦中に起こった大陸軍とイギリス軍の戦闘である。大陸軍はイズラエル・パットナム将軍が、イギリス軍はウィリアム・ハウ将軍が指揮を執った。この戦いは「バンカーヒル」という名で知られているが、実際の戦場は近くのブリーヅヒルであった。独立戦争で2番目の戦闘であった。
戦いの結果は1,000名以上の被害を受けたイギリス軍の辛勝であった。3度目の激突で、イギリス軍がブリーヅヒルとバンカーヒルに大陸軍が築いた塹壕を制圧した。戦後、イギリス軍のヘンリー・クリントン将軍は、「このような勝利を繰り返していたら、イギリスのアメリカ支配は終わってしまう」と日記に記している。
ハウの当初の目的は達せられたが、ボストン包囲戦の行方には何の効果も無かった。むしろ大陸軍は繰り返しの戦闘にも進んで対応できることを示した。訓練されたイギリス正規兵に対し、寄せ集めに近い民兵で対抗できたことが自信につながったといえる。(パットナムか彼の副官のウィリアム・プレスコットがあるいは他の誰かが「敵の目の白い所が見えるまでは撃つな」と命令したというが、この命令を誰が発したかについて歴史家の中では議論になっている。)
目次 |
[編集] 背景
1775年5月以降、マサチューセッツ湾は戒厳令下にあった。4月19日のレキシントン・コンコードの戦いで始まった武力衝突後は、トマス・ゲイジ率いるイギリス軍が植民地のアートマス・ウォード将軍に率いられる8,000名から12,000名の民兵にボストンで包囲されていた。5月にはイギリス軍の援兵4,500名とウィリアム・ハウ少将が到着し防衛軍も増強された。サミュエル・グレイブス提督が港内の艦隊を指揮していた。
[編集] 地勢
チャールズタウン半島(「チャールズタウン・ネック」としても知られる)は、西北に狭く首になり、南西に約1マイル(1.6km)ボストン港側に伸びている。ボストン半島とは、一番近いところで1,000フィート(300m)足らずであった。バンカーヒルは半島の北側にある高地で、ブリーヅヒルはボストンに近い方に位置した。チャールズタウンは半島の南端の平地にあった。
[編集] 戦闘
6月16日夜、大陸軍のウィリアム・プレスコット大佐が1,500名の兵士を率いて半島に上陸した。初めのうち、パットナムとプレスコットおよび工兵士官のリチャード・グリドリー大尉は、何処を防御地点とするかについて意見の一致をみなかった。ブリーヅヒルがより防御に適しているように見えたので、最初の陣地をそこに造ることに決めた。プレスコットの部隊はグリドリーの概要図を使って塹壕を掘り始めた。長さは160フィート(50 m)、幅は80フィート(25 m)あり、溝と土壁もあった。右手のチャールズ川の方向にも溝を掘り、左に走る塀の補強を始めた。
夜明け前の4時頃、イギリス海軍のスループ艦「ライブリー」(HMS Lively)の見張りが新しい陣地を見つけた。「ライブリー」が砲撃を始めたので、一旦大陸軍は作業を停止した。イギリス海軍の旗艦「サマーセット」(HMS Somerset)に座乗していたグレイブス提督は命令した覚えのない砲撃に眠りから引き戻された。彼は砲撃停止命令を出したが、甲板に出て大陸軍の作業を目撃するとすぐさま決定を翻した。彼は港内にある全128門の大砲で大陸軍の陣地を砲撃するよう命じた。しかし、艦砲は砲弾を大陸軍陣地に届くまでに上向かせることができなかったので、ほとんど効果を得られなかった。
海峡を隔てたボストンには、ゲイジ将軍とその参謀、および王党派のアビジャー・ウィラードがいた。望遠鏡で覗くとウィラードの義兄弟であるプレスコット大佐を認めることができた。ゲイジが尋ねた「彼も戦うのか?」ウィラードが答えた「彼のために代弁はできないが、きっとプレスコットは地獄の門に至るまで貴方と戦うでしょう」
プレスコットはウィラードの言葉どおりに動いたが、彼の部下達まで覚悟ができているわけではなかった。ある若い兵士が砲撃で死ぬと、プレスコットはその死体を即座にしかも静かに埋めるよう命令した。しかし多くの部下達は厳粛な葬儀を行い、そのすぐ後で何人かは脱走した。
イギリス軍が歩兵を集めて閲兵するまでにほぼ6時間を要した。ハウ将軍が攻撃部隊を率い大陸軍の左翼を回って後ろから攻撃することになった。イギリス軍左翼のロバート・ピゴー准将が正面から敵陣地を攻撃することとした。ジョン・ピトケアン少佐が予備隊を率いた。ハウの軍隊を長艇で半島の東隅ムールトンズヒルに運ぶのにまた時間を要した。暖かい日であったが、ウールのチュニックを着て約60ポンド(27 kg)の背嚢を背負った兵士達は午後2時頃所定の場所に着いた。
この行動を見ていた大陸軍も援軍を要求した。前線に到着した部隊は、第1および第3ニューハンプシャー連隊の200名のみであり、ジョン・スターク大佐とジェイムズ・リード(2人とも後に将軍になった)が指揮していた。スタークの部隊は大陸軍陣地の北端にある塀に沿って陣取った。干潮となり半島の北東に流れるミスティック川沿いに隙間ができたので、スターク隊はその小さな海岸の水際まで石を使って塀を伸ばした。グリドリーあるいはスタークが塀の前100フィート(30 m)に杭を立て、イギリス兵がその杭より前に来るまで銃を放ってはいけないと命令した。しかし、兵士のジョン・シンプソンが命令に従えず、敵の姿を捉えるやいなや発砲した。これが戦闘の開始となり、独立戦争で2番目の戦闘となった。
ハウ将軍は使える連隊の中から軽装歩兵中隊と擲弾兵中隊を選び出した。狭い海岸に沿って、大陸軍の最右翼に対して軽装歩兵を配置した。スカーレットレッドの上着に身を包んだ士官に先導され、歩兵は横数百、縦4列に隊形を組んだ。おおざっぱな石積みの向こうにはスタークの兵士達がいた。イギリス軍の戦列の中央に対し、海岸と陣地の間の塀を攻撃するためにリードの部隊とスタークの残りの兵士がいた。これに対抗するため、ハウは側面にいた擲弾兵中隊すべてを最前線に送り込んだ。これを第5および第52連隊の歩兵中隊が支援する形となった。大陸軍陣地への攻撃はロバート・ピゴー准将が指揮し、第38及び第43歩兵中隊と海兵隊が付いた。
プレスコットの部隊は徐々に兵士を失っていった。彼の部隊には砲撃による損害はほとんど無かったが、傷ついた兵士を後方へ下げるために10名の志願兵を割り付けた。その他に混乱に乗じて撤退組に加わる者がいた。2人の将軍がプレスコット隊に加わったが、どちらも命令はできず、個人的に戦うだけだった。そのうちの一人、ジョセフ・ウォーレンは、マサチューセッツ委員会の議長であり、革命政府の事実上の首班であった(彼の位は少将であったが、まだ有効なものではなかった)。二人目はセス・ポメロイであった。戦闘が始まったとき、防御側1,400名に対し、攻撃側2,600名であった。
イギリス軍の最初の攻撃は近距離からの集中砲火を浴び、多くの損害を出して撃退された。予備部隊は町の真北に集まり、町の中で交わされる銃撃戦の被害者の手当をしていた。ハウの部隊は再度陣形を組み、2回目の攻撃を行って、今回も不成功だった。
この時までに、大陸軍は火砲の取扱いに慣れた者をすべて失っていた。18世紀の伝統的な戦闘においては、中隊の兵士は発砲し、装填し、決められた命令で移動する、そのような訓練を受けていた。最初の一斉射撃の後、大陸軍は個人で戦うことになった。弾ごめができればすぐに発砲した。イギリス軍は最初の地点に撤退し再度隊形を立て直した。イギリス海軍はボストン半島のコップスヒルにある大砲と連動して、チャールズタウンに対して砲火を集中した。400かそこらの建物とドックがすべて火に包まれたが、そこにいた狙撃手はうまく撤退できた。
イギリス軍の3回目の攻撃が行われた。イギリス軍の予備隊も攻撃に加わり、両翼からも大陸軍陣地に集中させた。防御側は弾薬が尽きかけていたので、銃剣による戦闘に変わっていったが、大陸軍のマスケット銃にはほとんど銃剣が付いていなかった。
[編集] 戦いの結果
イギリス軍が陣地を占領したが、損害も大きかった。226名が戦死し、828名が負傷した。しかも損害の中に占める士官の比率が高かった。大陸軍の損害は約450名に止まり、そのうち140名が戦死した。この中にはジョッセフ・ウォーレン将軍も含まれている。また30名が捕虜となり、うち20名は戦闘後に死んだ。大陸軍の損害の多くは撤退時に発生した。大陸軍の士官クラスでは、アンドリュー・マックラリー少佐が戦死した。彼の功績を記念してメーンのキッテリー砦をマックラリー砦と改名した。
ハウの部隊でも士官が多く死傷し、無傷なのはハウ一人だった。ピトケアン少佐が戦死し、ジェームズ・アバークロンビー大佐は重傷だった。大陸軍の撤退とイギリス軍の前進でブリーヅヒルとバンカーヒルを含む半島全体がイギリス軍の支配下となった。大陸軍のパットナム将軍指揮下の部隊は素早く本土での新しい任務に就いた。ハウの部隊の損耗とともに、ケンブリッジ(ボストン)に侵攻し、包囲を破る機会が失われた。
イギリス軍の態度は個々人的にも政治的にも大きく変化した。トマス・ゲイジは呼び戻され、直後に総司令官職はハウ将軍にすげ替えられた。ゲイジが内閣に提出したレポートは以前の警告を繰り返すものだった。
- 大きな軍隊もいずれその数を減らしていくものであり、外国人部隊を雇ってはいかがであろうか。
名高い命令である「敵の目の白い所が見えるまでは撃つな」は、バンカーヒルに関する逸話で語られることが多い。しかし誰がこの命令を出したかは不明であり、書き手によってパットナムであったり、スタークであったり、プレスコットあるいはグリドリーであったりする。
他にもアフリカ系アメリカ人に関する不確かな記録がある。確かにこの戦闘に参加した者がいるようだが、その正確な数は知られていない。そのうちの一人がサーレム・プアであり、彼はその勇敢さとプレスコットの命を救った行動で顕彰されているが、ピトケアンの死に関わっていたという証言は大いに疑わしいものがある。他にもピーター・サーレム、プリンス・ウィップルなどの名前が残っており、アンドーバー出身の混血児フィリップ・アボットはこの戦闘で戦死した。
戦闘に参加した植民地志願兵の中には、ジェイムズ・オーティス、ヘンリー・ディアボーン、ジョン・ブルックス、ウィリアム・ユースティス、ダニエル・シェイズ、ウィリアム・バートン、イズラエル・ポッターなどの名がある。イギリス軍の士官の中では、ヘンリー・クリントン、ジョン・バーゴイン、フランシス・ロードンらがいた。
[編集] イギリス軍士官の損害
下記のイギリス軍士官は、バンカーヒルの戦いで戦死するか、その時の傷がもとで後に死亡するか、あるいは負傷し後に快復したと考えられる。このリストは完全なものではなく、イギリス軍士官の損害比率の高さをしめすものである。
- 中佐 ジェームズ・アバークロンビー(James Abercrombie) - 22nd Foot - 戦死
- 少尉 Balaquire - 5th Foot - 負傷
- 中尉 バード(Bard) - 35th Foot - 戦死
- 中尉 ブルーレ(Bruere) - 14th Foot (serving as volunteer) - 戦死
- 大尉 キャンベル(Campbell) - 海兵隊 - 戦死
- 少尉 チャールトン(Charleton) - 5th Foot - 負傷
- 中尉 クロッカー(Croker) - 5th Foot - 負傷
- 中尉 ダルリンプル(Dalrymple) - 63rd Foot - 戦死
- 大尉 デビッドソン(Davidson) - 52nd Foot - 負傷
- 大尉 パトリック・ダウンズ(Patrick Downs) - 5th Foot - 瀕死の重傷を負いその夜に死亡
- 中尉 ダットン(Dutton) - 38th Foot - 戦死
- 大尉 エリス(Ellis) - 海兵隊 - 戦死
- 中尉 フィーニー(Finnie) - 海兵隊 - 戦死
- 中尉 ガードナー(Gardner) - 海兵隊 - 戦死
- 中尉 ゴールド(Gold) - 47th Foot - 戦死
- 大尉 ジョージ・ハリス(George Harris) - 5th Foot - 負傷(頭を撃たれたが快復。後に将軍となる。また初代ハリス男爵となる。)
- 中尉 ヒギンズ(Higgins) - 52nd Foot - 戦死
- 中尉 ヒラード(Hillard) - 47th Foot - 戦死
- 大尉 ハドソン(Hudson) - 65th Foot - 戦死
- 大尉 ジョン・ジャクソン(John Jackson) - 5th Foot - 負傷
- 大尉 マッケンジー(Mackenzi) - 43rd Foot - 戦死
- 中尉 マクリントック(M’Clintockx) - 5th Foot - 負傷
- 大尉 フランシス・マーズデン(Francis Marsden) - 5th Foot - 負傷、5年後に死亡, 負傷が原因と思われる
- 少佐 ジョン・ピトケアン(John Pitcairn) - 海兵隊 - 瀕死の重傷を負いその夜に死亡
- 中尉 シア(Shea) - 海兵隊 - 戦死
- 大尉 シャーウィン(Sherwin) - 67th Foot - 戦死 - ハウ将軍の副官
- 大尉 スミス(Smith) - 52nd Foot - 戦死
- 少佐 ウィリアムズ(Williams) - 52nd Foot - 戦死
[編集] 記念
- 戦場跡のバンカーヒル記念塔は高さ220フィート(67 m)のオベリスクである。プレスコットの銅像もあり、農夫達を静かにさせる時の有名なポーズを取っている。
- バンカーヒルの日はマサチューセッツ州、サフォーク郡の祝日である。マサチューセッツ州の大学も祝日を祝う。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- Peter Doyle; "Bunker Hill"; (young peoples book); 1998, Providence Foundation; ISBN 1-887456-08-2.
- John R. Elting; "The Battle of Bunker's Hill"; 1975, Phillip Freneau Pres (56 pages), Monmouth, New Jersey; ISBN 0-912480-11-4
- Howard Fast; "Bunker Hill"; 2001, ibooks inc., New York; ISBN 0-7434-2384-4
- Richard Ketchum;"Decisive Day: The Battle of Bunker Hill"; 1999, Owl Books; ISBN 0-385-41897-3 (Paperback: ISBN 0-8050-6099-5)
- The New Dictionary of Cultural Literacy, Third Edition. Edited by E.D. Hirsch, Jr., Joseph F. Kett, and James Trefil. Published by Houghton Mifflin Company. 2002.
[編集] 外部リンク
この記述には、アメリカ合衆国内で著作権が消滅した百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』本文を含む。
- Library of Congress discussion
- Bunker Hill
- Israel Putnam Website
- WGBH Forum Network-Patriots of Color:Revolutionary Heroes
- Website concering Captain Samuel Cherry who fought at Bunker Hill
- List of fallen Patriots at Bunker Hill-SAR Sons of Liberty Chapter resource reference
- Boston National Historical Park Official Website
最終更新 2009年11月1日 (日) 22:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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