パウル・フォン・ヒンデンブルク

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パウル・フォン・ヒンデンブルク
Paul von Hindenburg
パウル・フォン・ヒンデンブルク

任期: 1925年4月26日1934年8月2日

出生: 1847年10月2日
プロイセン王国、ポーゼン
(現ポーランドポズナン
死去: 1934年8月2日
ナチス・ドイツ、グート・ノイデック
(現ポーランド領オグロジェニェツ de
政党: なし
配偶: ゲルトルート・シュペルリンク(de

パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルクPaul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg , 1847年10月2日 - 1934年8月2日)はドイツ軍人政治家ヴァイマル共和国第2代大統領(在任:1925年1934年)。アドルフ・ヒトラーを首相に任命し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権樹立への道を開いた。

目次

[編集] 人物

[編集] 軍歴

プロイセン王国ポーゼンで没落ユンカーの家庭に生まれる。父はプロイセン軍将校、母は平民出身の画家だった[1]。二年ずつ小学校とプロテスタント系のギムナジウムで学んだ後、1859年に陸軍幼年学校に入学。1865年には亡き国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の王妃エリーザベトの近習を務め、ヒンデンブルクは生涯これを誇りにしていた。1866年に卒業し少尉に任官。

普墺戦争普仏戦争に従軍。1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で行われたヴィルヘルム1世ドイツ皇帝即位式に、所属する近衛連隊の代表として参列した。1888年には死去したヴィルヘルム1世の棺の側で衛士を務める栄誉に浴した。陸軍大学校を卒業後、参謀本部・陸軍省に勤務。第28歩兵師団長、第4軍団長を経て一時参謀総長の候補に挙げられたものの、結局1911年に大将を以て退役。ただし1912年には皇帝ヴィルヘルム2世の下問に、戦時には軍司令官となる用意がある旨を答申している。

[編集] タンネンベルクの英雄

ルーデンドルフ(右)と軍議をするヒンデンブルク(フーゴー・フォーゲル画・1928年)

1914年第一次世界大戦の勃発で現役復帰し、第8軍の司令官として東プロイセンに赴く。第8軍参謀長エーリヒ・ルーデンドルフとともに、タンネンベルクの戦いロシア軍に大勝利を収める。その戦功により上級大将、ついで11月に陸軍元帥となる。 この戦勝は彼に「タンネンベルクの英雄」という巨大な名声をもたらした。そのため1916年8月には参謀総長(Chef des Generalstaffs des Feldheeres)に就任したが、実権はむしろ参謀次長(第一兵站総監, Erster Oberquartiermeister)のルーデンドルフが掌握した。

敗色濃厚な1918年ドイツ革命が起きると、むしろ王制を守るためとしてヴィルヘルム2世に国外退去を勧めた。しかしヴィルヘルムは退位してヴァイマル共和国が成立した。旧連合国とのヴェルサイユ条約締結に抗議して1919年7月に再度軍役を退く。彼は多くの軍人同様、ドイツは戦争で負けたのではなく、ドイツ革命という「背後からの一刺し」によって敗者として扱われるようになったのだと信じていた。ハノーファーで引退生活を送る一方ドイツ各地を旅行したが、特に東プロイセンではロシア軍からの解放者として歓迎を受けた。1921年、一男二女を産んだ妻が61歳で死去。

[編集] 大統領

ヒンデンブルク80歳の誕生日記念切手(1927年)

1925年に初代大統領フリードリヒ・エーベルトの死去を受けて大統領選挙が行われたが、第一回投票で過半数を獲得した候補がおらず、先行きは混沌としていた。そこに77歳のヒンデンブルクは無所属候補として出馬、ブルジョア保守派の幅広い支持を得て、第2代ヴァイマル共和国大統領に選出される。この立候補には国防軍の慫慂(しょうよう:そうする方が君のためだと言って、勧めること。)があったといわれている。この一期目にはヴァイマル憲法を尊重する姿勢を見せ、また戦後の混乱も落ち着いてきたためにそれなりの安定をもたらしたが、1929年世界大恐慌が起きると暗転する。

1930年、ヒンデンブルクはヤング案受諾に署名したが、この案はヒンデンブルクの支持層だった右派から「ドイツ民族の奴隷化」と攻撃された。焦ったヒンデンブルクはドイツ社会民主党ヘルマン・ミュラー首相に代わり反マルクス主義・反議会の強力な政権樹立を目論んだ。その結果成立したのが中央党ブリューニング内閣だったが、少数与党だったため議会運営に苦慮した。政府の議会運営を安定させるためにヒンデンブルクは恣意的に議会に解散を命じて総選挙に打って出たが、結果は左右両極の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)とドイツ共産党の躍進に終わり、全く裏目に出てしまった。政府はヒンデンブルクが嫌っている社会民主党(ドイツ革命の経緯が理由)の閣外協力で辛うじて政権を運営する状況となり、そのためヒンデンブルクは大統領緊急令(憲法第48条)をしばしば行使するようになる。これは、ヴァイマル憲法によって大統領の権限が強大であったためである。もはやまともな議院内閣制は機能しなくなっていた。

[編集] ナチスの台頭

1932年大統領選挙の投票用紙(第二回投票時)
候補者名は上からヒンデンブルク(無所属)、ヒトラーナチス)、テールマン共産党

1932年に大統領選挙で再選を目指す。ナチス党首のアドルフ・ヒトラーも出馬し、30%以上の票を獲得するが、ヒンデンブルクは50%近い票を獲得する。大統領就任には過半数の票が必要であったため、決選投票で再選が決まった。この頃から政策決定は息子で陸軍将校のオスカー・フォン・ヒンデンブルクや大統領府官房長オットー・マイスナーら、もっぱら親しい仲間内でのお茶会でなされるようになり、その独裁的な政治手法は大統領というよりドイツ皇帝により近かった。ブリューニング内閣は国防省官房長シュライヒャーらの策動もあり、パーペン内閣が成立する。パーペンはヒンデンブルクのお気に入りであり、ブリューニングの横を通りすぎたヒンデンブルクは「さあ、今度はわしの味方の内閣だ」とつぶやいたという。

パーペン内閣の元で、7月31日に総選挙が行われる。賠償金問題へのパーペン内閣の対応を批判したナチス党は大躍進し、総議席608議席中230議席を獲得し、第一党となる。また、75議席を獲得した中央党も反パーペンの姿勢を明らかにしており、内閣の権力基盤は大きく揺らいだ。ナチス党は首相の地位を要求したが、ヒンデンブルクが拒否したために内閣不信任案を提出、圧倒的多数で可決された。結果行われた11月6日の総選挙でもナチス党は議席を減らしたが、196議席と第一党の座を維持した。しかし、ドイツ共産党が初めて100議席を獲得した。パーペンは、軍によるクーデターをヒンデンブルクに進言し、ヒンデンブルクもその気になったが、シュライヒャーが国防相である軍は動かなかった。結果、シュライヒャーが首相に任命されることとなった。

シュライヒャーはナチ党と連携しての政権運営を図り、グレゴール・シュトラッサーらに接触を図った。しかしあくまで首相の座にこだわるヒトラーは、シュライヒャー内閣への協力を拒絶した。反シュライヒャーの立場であるパーペンはヒトラーと連携し、秘密会談[2]の結果、オスカーと官房長マイスナーを味方に取り込むことに成功した。

ヒンデンブルクはヒトラーを「ボヘミアの伍長」や「ペンキ屋」と軽蔑し毛嫌いしていたため、当初はヒトラー政権誕生を阻止すべく大統領として頑強に抵抗した。しかしオスカーらの説得によりやむを得ず、1月30日、ついにヒトラーを首相に指名した。

[編集] 最期

ヒンデンブルクとヒトラー。1933年5月1日
完成したヒンデンブルク廟に運び込まれる棺。1935年10月2日

首相となったヒトラーはヒンデンブルクの承認を得て議会を解散し、総選挙に打って出る。2月に発生したドイツ国会議事堂放火事件の影響もあり、ナチ党は勝利する。その議会で、ヒトラーへの権力集中を定めた全権委任法が提出される。社会民主党や共産党の議員が「逮捕・逃亡・病気などの理由」で欠席する中、この法案が可決された。自らや議会の権力が著しく制限される事態となったが、ヒンデンブルクは目立った動きを見せなかった。この頃、ヒンデンブルクの健康はかなり悪化しており、7月頃には前立腺の切除手術が検討されたが、手術に耐える体力がないとされて中止している。

ヒンデンブルクは第一次世界大戦の英雄としてドイツ国民の熱烈な尊敬を集めており、首相になったヒトラーもヒンデンブルクには一貫して配慮を見せている。議会の開会式に臨席したヒンデンブルクに対し、ヒトラーはドイツ皇帝に対するようなプロイセン式のお辞儀をした。これはナチス「第三帝国」がドイツ帝国と連続しており、同時にヴァイマル共和国がドイツの伝統と断絶していることをアピールしたものであり、王制支持者や保守層の幅広い支持を得る狙いがあった。ヒンデンブルクはプロイセン・ドイツ帝国の象徴であり、ドイツ帝国の栄光をヒトラーにとっても大いに利用価値があった。

1934年7月末頃にはたびたび昏睡状態に陥るようになる。この頃、病に伏したヒンデンブルクのもとにヒトラーが見舞いに来た際、ヒトラーを『皇帝陛下』と呼んだという逸話があるが、これはヒトラーの威厳を確立するための作り話だとされている。実際には首相が見舞いに来たと聞いて、パーペンが来たのだと思って目を開けたが、ヒトラーの顔を見ると唇をゆがめて目を閉じたというオスカーの回想がある。

1934年8月2日、ヒンデンブルクは死去した。ナチ党は諸官僚および親衛隊に2週間の服喪を命じた。宣伝相ゲッベルスはラジオ放送で、「故大統領はその生涯を通じて赫々たる栄誉さと率直さ故に祖国ドイツ国民により永久に記憶せらるべき人である。」とその徳を讃えた。ヒトラーは前日に制定した「ドイツ国元首法」によって、ヒンデンブルクの死後直ちに大統領の職務を首相の職務に統合し、新国家元首となった。8月19日に行われた人民投票においてヒトラーは正式に国家元首就任を認められたが、「故大統領に敬意を表して、その称号を永久に故大統領に捧げる。」として、「大統領」とは名のらず、従来通り「指導者兼ドイツ国首相(Führer und Reichskanzler、総統)」と呼ぶように国民に求めた。

ヒンデンブルクは自分の死後に帝政を復活させる考えがあったらしく、ヴィルヘルム2世の嫡孫であるルイ・フェルディナント・フォン・プロイセンを皇帝に即位させる案を持っていた。しかし、この計画は公式の遺言状には盛り込まれず、ヒトラーへ私信の形で伝えられた。公式の遺言状は公開されたが、私信の内容が世に伝わることはなかった。ヒンデンブルクの最期の言葉は「我が皇帝…我が祖国よ…」であったという[3]

[編集] 死後と顕彰

ヒンデンブルクが眠るエリザベート教会(マールブルク)
爆発炎上するヒンデンブルク号(1937年5月6日)

ヒンデンブルクは所有する東プロイセンのノイデック荘園に葬られることを望んでいたが、ヒトラーは「タンネンベルクの英雄」をタンネンベルク戦勝記念碑の敷地に盛大な儀式を行って埋葬することを命じた。死してなお政治利用されたのである。

第二次世界大戦末期、赤軍がドイツ本国に迫ると、ヒンデンブルクの墓を荒されることを恐れたドイツ国防軍は、彼の棺を同じくドイツの軍国主義の象徴であるフリードリヒ・ヴィルヘルム1世およびフリードリヒ2世の棺と共にテューリンゲン岩塩坑に隠した。それを発見したアメリカ軍は、彼らの棺をドイツ西部マールブルクに移した。ドイツ再統一後にフリードリヒ2世はその生前の希望通りサン・スーシ宮殿に改葬されたが、ヒンデンブルクと夫人の棺はなおもマールブルクのエリザベート教会内に安置されている。ナチス政権を誕生させたヒンデンブルクへの忌避感からか、彼の棺には照明が当てられていない。

その生前から各都市の大通りや軍艦などに彼の名前が冠されていた。例として巡洋戦艦ヒンデンブルク」(1915年進水)、ヒンデンブルク号爆発事故で知られる飛行船「ヒンデンブルク号」がある。またかつてドイツ領内にあったツァブルツェ市(現・ポーランドザブジェ市)が、1915年から30年間にわたり「ヒンデンブルク市」と呼ばれていたことからも、その声望がうかがえる。各都市にあった通りの名は第二次世界大戦後に変更が相次ぎ、現在ではほとんど姿を消している。また、数多くの場所に彼の像が存在していたが、現在はほとんど残っていない。

[編集] 脚注

  1. ^ ヒンデンブルクの回想録では母について言及していない。
  2. ^ 1933年1月22日、リッベントロップの屋敷にヒトラー・ゲーリングフリックらナチ党要人と、オスカー、マイスナー、そしてパーペンが集まった。ヒトラーとオスカーの二人は密室で会談し、その後一堂で会食したという。この会談中、ヒンデンブルクの土地の取得にまつわる脱税疑惑や、オスカーの軍での昇進が取引材料にされたという説もある。
  3. ^ 「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」児島襄 文春文庫 ISBN 978-4167141363

[編集] 外部リンク


先代:
フリードリヒ・エーベルト
ドイツ国大統領
第2代:1925年-1934年
次代:
大統領職廃止(その職権は総統 アドルフ・ヒトラーに引き継がれる)
先代:
エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン
ドイツ軍参謀総長
1916年-1919年
次代:
ヴィルヘルム・グレーナー

最終更新 2009年11月7日 (土) 14:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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