パウロ書簡
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パウロ書簡とは新約聖書に収められた27文書の中でパウロが執筆したとされる文書のことで、すべて書簡の形式をとっていることから、こう呼ばれる。
目次 |
[編集] パウロ書簡一覧
具体的には以下の13書簡をさす。
- ローマの信徒への手紙
- コリントの信徒への手紙一
- コリントの信徒への手紙二
- ガラテヤの信徒への手紙
- エフェソの信徒への手紙
- フィリピの信徒への手紙
- コロサイの信徒への手紙
- テサロニケの信徒への手紙一
- テサロニケの信徒への手紙二
- テモテへの手紙一
- テモテへの手紙二
- テトスへの手紙
- フィレモンへの手紙
この配列は伝統的なもので、
- 教会に宛てたもの
- 個人に宛てたもの
の順になっており、更に、前者はその都市の規模の順に、後者はパウロから見た「格」に従っていることが読み取れる。
[編集] 『ヘブライ人への手紙』について
古代教会以来、『ヘブライ人への手紙』はパウロに帰せられ、従ってパウロ書簡に含めてきた。それによれば、パウロ書簡の数は14になる。
現在でもこの説を維持する研究者も少数存在するが(例えば、日本語訳聖書で有名なフェデリコ・バルバロ)、この書簡の著者はパウロと名乗っていないこと、内容的にもパウロの思想とは相違が著しいことから殆どの研究者はパウロとは無関係であると考えている。また、カトリック教会も20世紀になって、この書がパウロによるものと限定する必要のないことを公式に表明している。
よって、本項目ではパウロ書簡には含めない。
[編集] さまざまな呼称
13書簡のいくつかについては一般に広く使われる呼称がある。
[編集] 四大書簡
次の4書は規模も大きく内容も充実していることから、「四大書簡」と呼ばれる。
- ローマの信徒への手紙
- コリントの信徒への手紙一
- コリントの信徒への手紙二
- ガラテヤの信徒への手紙
[編集] 獄中書簡
次の4書はパウロが逮捕・収監されたなかで執筆したとしているので、「獄中書簡」と呼ばれる。
- エフェソの信徒への手紙
- フィリピの信徒への手紙
- コロサイの信徒への手紙
- フィレモンへの手紙
[編集] 牧会書簡
次の3書はパウロが教会のあり方のついて指示しているので「牧会書簡」と呼ばれる。
- テモテへの手紙一
- テモテへの手紙二
- テトスへの手紙
[編集] 真筆性
新約聖書の成立以来、各文書の真筆性については疑われることがなかった。が、18世紀末からの近代の批判的聖書学高等批評によってそれらは大きく疑われることとなった。パウロ書簡についても同様である。
但し、真筆性については研究者によって判断の違いがある。詳細については各文書の解説を参照のこと。なお、真筆とはされない書簡群については「第二パウロ書簡」、「パウロの名による書簡」、「擬似パウロ書簡」等の呼び方がされる。
[編集] 極めて真筆性の高いもの
以下の7書については、部分的にのちの加筆はあってもその真筆性の疑われることが殆どないものである。
なお、批判的聖書学ではパウロ書簡以外の新約文書については全て伝統的な著者に関する説に否定的な意見が多数である。よって、以下の書は批判的聖書学が教会の伝承を認める例の全てでもある。
- ローマの信徒への手紙
- コリントの信徒への手紙一
- コリントの信徒への手紙二
- ガラテヤの信徒への手紙
- フィリピの信徒への手紙
- テサロニケの信徒への手紙一
- フィレモンへの手紙
[編集] 極めて真筆性の低いもの
以下の3書、すなわち「牧会書簡」については、書簡内で述べられているような教会の制度が定まるのはパウロの死後半世紀近くが経った2世紀になってからであるなどの理由により、近代聖書高等批評学を受け入れるリベラルな研究者の殆どが真筆性を認めていない。
- テモテへの手紙一
- テモテへの手紙二
- テトスへの手紙
[編集] 判断の分かれるもの
残る3書については、批判的聖書学者のなかでも真筆性を認めるものがある。特に
- コロサイの信徒への手紙
- テサロニケの信徒への手紙二
については、やや微妙である。
[編集] 統一性
パウロ書簡の中には、複数の書簡が何らかの理由でひとつの書簡に編集された可能性が高いものが存在する。特にその可能性が高いものは次の2書である。
- コリントの信徒への手紙二
- フィリピの信徒への手紙
また、『ローマの信徒への手紙』ではその結尾部分が2つあることが問題になるが、本文に関しては問題はないとされる。
これに関しても詳細は各書簡の解説を参照すること。
[編集] 収集と正典化
パウロの書簡と、パウロを著者とする書簡は、それぞれ各地の教会や個人に宛てて出されたものである。パウロ自身が書簡の写しを保管していたとは到底考えられないので、ある時期に相当な規模で組織的にパウロ書簡の収集が行われたことは確実である。
その過程については、新約聖書そのものの成立のきっかけとなったマルキオンの「正典」と、2世紀後半と推定される『ムラトリ正典目録』が参考になろう。
まず、マルキオンが『ルカによる福音書』とともにパウロ書簡を彼の「正典」としたのが2世紀のはじめであるから、基本的な収集作業はパウロの死後しばらく時間を置いた1世紀の末に始まり、2世紀始めには完了していたと推定できる。ただし、マルキオンはいわゆる「牧会書簡」を採用していない。意図的に除外したとも考えられるが、それらの内容からマルキオンがその存在を知らなかった(まだ文書自体が作成されていない可能性を含めて)と考えるのが自然である。
なお、『ペトロの第二の手紙』の著者がパウロ書簡が広く読まれていることを述べているが、同書の成立を2世紀前半とする推定に従えば事実関係では矛盾しない。
一方、『ムラトリ正典目録』は「牧会書簡」を正典にすべきものとして挙げると共に、それ以外に「パウロの名」を冠した書簡が複数あることを指摘し、それらを「除外すべき」と主張している。このことから、2世紀になってもパウロを著者とする書簡がいくつも作成され、中で「牧会書簡」のみが2世紀の後半に当時成立しつつあった正統教会、いわゆる「原始カトリシズム」の認めるものとになったと解することができる。
[編集] 関連項目
最終更新 2009年11月20日 (金) 13:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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