パール・ジャム
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| パール・ジャム Pearl Jam |
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| 基本情報 | |
| 出身地 | |
| ジャンル | オルタナティブ・ロック グランジ ハード・ロック |
| 活動期間 | 1990年 - 現在 |
| レーベル | Monkeywrench (インディーズ) J、エピック ユニバーサル・インターナショナル SME-J |
| 共同作業者 | ブレンダン・オブライエン |
| 公式サイト | Pearl Jam - Ten Club |
| メンバー | |
| ジェフ・アメン ストーン・ゴッサード マイク・マクレディ エディ・ヴェダー マット・キャメロン |
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| 旧メンバー | |
| デイヴ・クルーセン マット・チェンバレン デイヴ・アブラジーズ ジャック・アイアンズ |
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パール・ジャム (Pearl Jam) とは、アメリカ ワシントン州 シアトル出身のロック・バンドであり、1991年に『Ten』でアルバム・デビューした。今までにグラミー賞受賞、アルバム 3枚がビルボード誌に初登場1位、CDセールス最速記録がギネスに認定されるなど、瞬く間に社会的・商業的成功をおさめた。
1990年代前半、シアトルを中心として従来のMTVを中心とした商業主義ロックに反抗するオルタナティブ・ロック・ムーブメントが若者を中心に大流行し、サウンドガーデンやニルヴァーナ等と共にグランジ・ロックと呼称されて世界的にも反響を及ぼした。その中でも、パール・ジャムは当時のジェネレーションXたちの苦悩の代弁者とまで評され、その世代の旗手として位置づけられていた。
目次 |
[編集] 来歴
- シアトルのバンド 〜 パール・ジャム誕生まで
ストーン・ゴッサードとジェフ・アメンは1980年代中頃に グリーン・リバー というバンドで活動していて、ツアーやレコーディングも行っていたが、わずかな成功を残してバンドは1987年に解散してしまった。そして同1987年の後半にはゴッサードとアメンは Malfunkshun というバンドのボーカリストだったアンドリュー・ウッドと共にバンド「マザー・ラブ・ボーン」として活動を始め、1989年初頭にはポリグラム・レコードと契約し、制作費などの資本的なバックアップを得られるようになりレコーディングとツアーを行っていた。
マザー・ラブ・ボーンでのデビュー・アルバム『Apple』が1990年7月に発売され、次世代トップ・ミュージシャンとしての将来が確実とされていたジェフ・アメンとストーン・ゴッサードであったが、デビューから4ヶ月後にアンドリュー・ウッドがヘロインの過剰摂取により他界してしまった。 (その後の両名のミュージシャン生活設計の相談相手になっていたのはレッド・ホット・チリ・ペッパーズのメンバー達だった。) それから数ヶ月後にゴッサードは「シャドウ」というバンドのギターリストだったマイク・マクレディを招き入れ、アメンと3人でリハーサルを行ったり、シンガーとドラマーを募集するための音源として5曲のデモ・テープ制作をし、その音源をレッド・ホット・チリ・ペッパーズ結成時のドラマー、ジャック・アイアンズが聴いて気に入り彼らのバンドへ加入する事になった。
- エディ・ヴェダーの参加
1990年頃のエディ・ヴェダーはカリフォルニア州サンディエゴのバンド「バッド・ラジオ」のリード・ボーカリストとして活動していて、ライブ・ハウスの従業員でもあった。そのヴェダーのバスケット・ボール仲間だったジャックは、ヴェダーから「ボーカリストになりたい」という夢を聞かされていて、彼にアメンらのボーカリスト募集用のデモ・テープを聴かせたところ、ヴェダーは歌詞を書き加え3曲に対してボーカルをオーバー・ダブする事にした。 (その時の曲は「アライヴ」「ワンス」「フットステップス」) そしてジャックはそのテープをメンバー募集中のアメンらへ送付し、アメンとゴッサードはテープを聴いてから1週間ほどの内にヴェダーをボーカリストとしてバンドへ迎え入れる事になった。新たなドラマーとしてデイヴ・クルーセンが加わり、バンド名は「モンキー・ブレイロック」となったが、1990年の秋には エピック・レコーズと契約を交わす事となりバンド名はこの時点で 「パール・ジャム」 となった。
ヴェダーの人生にとって初の大物バンド参加がパール・ジャムで、参加から契約まで数ヶ月しか経なかった為、デビュー直前まで彼のステージングは素人以下とバンド内外から酷評を受けていた。 だが、実際にはそれなりのバンド経験があり、1986年にバッド・レイディオというバンドのオーディションを受けて正式にバンドのヴォーカリストとして迎えられていた。1989年にパール・ジャムとして発表されている「Better Man」はその時にはすでに作られていた曲である。ヴェダーはバンドに入ると自ら積極的に活動していき、サン・ディエゴに来るバンドに接触をはかり、ジョー・ストラマーやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのメンバーと親しくなった。その後、パール・ジャム加入のためシアトルに移住。ある夜のライブでヴェダーが興奮し、マイクスタンドの根元の鉄板を客に向かって投げつける暴挙に出た瞬間、今日のグランジバンド的とされるステージパフォーマンスが誕生した。幸運にもこの時に怪我人はいなかったが、鉄板が会場の壁に刺さって騒然となった。しかしこの日を境にヴェダーは、生まれ変わったが如く過激なステージパフォーマンスを展開し、グランジスタイルを完成させる事になった。
- デビュー以降
1991年3月にバンドはシアトルの London Bridge Studio でデビュー・アルバム用のレコーディング・セッションに入った。しかし、5月にはデイヴ・クルーセンが婚約者の出産を理由に出産日当日にバンドを脱退したため、新たなドラマーとして、Edie Brickell & New Bohemians で活動していたマット・チャンバーレインを見つけたが、サタデー・ナイト・ライブ・バンドに参加してしまったため、チャンバーレインからの紹介でテキサスの無名ファンクバンドで活動していたデイヴ・アブラジーズを迎え入れる事になった。そして同年8月27日にデビュー・アルバム『TEN』が発売された。
アルバムのセールス初動はスロー・ペースだったが、1992年中頃にはブレークし始め、ビルボードのチャートでも2位を記録するなどしてゴールド・アルバムとして認定される事になった。アルバムからはメンバー募集時からの馴染み曲でもある「アライヴ」と、他に「イーヴン・フロウ」「ジェレミー」などがシングル・カットされヒットした。その後、アルバムは2年間近くビルボードにチャート・インし続けて、当時は最も売れたロック・レコードとして記録され、13x プラチナ・アルバムとしてRIAAから認定される結果となった。なお「ジェレミー」はヴェダーが体験した悲劇を題材にしてあって、彼が高校時代に銃で自分の頭を撃ち抜いてしまったクラスメイトの出来事が歌われている曲である。
- アルバムのビッグ・セールス
アルバム『TEN』の成功を経て、パール・ジャムはアリス・イン・チェインズ、ニルヴァーナ、サウンドガーデンらと共にシアトルのグランジ・ロック・シーンでは中心的存在になった。1992年には サタデー・ナイト・ライブ やMTV アンプラグド等へ出演し、夏の Lollapalooza ツアーでは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、サウンドガーデン、ミニストリィなどと競演していた。そしてマット・ディロン主演の映画「シングルズ」のサウンドトラック・アルバム用に「State of Love and Trust」と「Breath」の2曲を提供し、自らも出演するなど、徐々に活動の幅を拡げていった。
アルバム・セールスのブレークと共に様々なメディアに書き立てられ、その事が原因となってカート・コバーンとの間に確執が出来るなどの弊害もあったが、1993年にはプロデューサーにブレンダン・オブライエンを迎え、再びスタジオ入りしてニュー・アルバムのレコーディング・セッションを始め、10月19日にはセカンド・アルバムとなる『Vs.』をリリースし、アルバムは全米チャートで初登場1位を獲得し、その後5週間に渡ってその位置を保ち続ける成功を収めた。アルバムはアメリカ国内での発売後1週間に95万枚を売り上げ、この記録は2000年にリンプ・ビズキットに破られるまでは、ビルボード誌における歴代最高の数字だった。翌1994年12月22日にはサード・アルバムの『Vitalogy』をリリース。アメリカでのイニシャル・プレス枚数が350万枚で当時の史上最高を記録し、全米チャートでは堂々の初登場1位を獲得。発売後1週間の売り上げ枚数は87万7000枚に達し、前作『Vs.』に続いて当時歴代2位の売り上げ枚数を記録した。アナログ・レコード盤はCDに先駆けて限定5万枚がプレスされ、全米アルバム・チャートでは55位を記録するという快挙も達成している。1996年にはこのアルバムに収録されている「Spin the Black Circle」がグラミーで「ベスト・ハード・ロック・パフォーマンス賞」を受賞した。
[編集] メンバー構成
[編集] 現在のメンバー
- エディ・ヴェダー - Eddie Vedder (ボーカリスト) 1964年12月23日(44歳)
- ストーン・ゴッサード - Stone Gossard (ギターリスト) 1966年7月20日(43歳)
- マイク・マクレディ - Mike McCready (ギターリスト) 1965年4月5日(44歳)
- ジェフ・アメン - Jeff Ament (ベーシスト) 1963年3月10日(46歳)
- マット・キャメロン - Matt Cameron (ドラマー) 1962年11月28日(47歳) ←元サウンドガーデン
[編集] 過去に在籍したメンバー
- デイヴ・クルーセン - Dave Krusen (ドラマー)
- 『Ten』レコーディング時のメンバー、脱退後キャンドルボックスへ加入。
- デイヴ・アブラジーズ - Dave Abbruzzese (ドラマー)
- 『Vs.』から参加、『Vitalogy』制作途中で脱退。脱退後は自らのバンド、グリーン・ロマンス・オーケストラを結成。また、スティーヴィー・サラス・カラーコードのアルバムなどに参加。
- ジャック・アイアンズ - Jack Irons (ドラマー)
- 『Vitalogy』制作途中から加入し『No Code』『Yield』でプレイし、その後のツアーにも帯同する。1998年、持病の悪化により脱退。[1] のちにソロアルバムをリリースし、ヴェダーやフリーに感謝の言葉を送った。
[編集] 音楽的特徴
- エディ・ヴェダーの歌声は低域に特徴があり、抑揚に富んだボーカルが最大の特徴になっている。歌詞の内容にも定評があり、初期は物語的な歌詞、中期は哲学的な歌詞、近年は政治的な歌詞が多い。但し作詞を担当するヴェダーは政治的な思想の影響を多方面から受け過ぎる傾向があり、時としては左から右にコロコロと変わるのでメディアに批判された事が過去にあった。またヴェダー以外のメンバーの意向は全く違う方向にある事が多々あり、他メンバーは敢えて発言を控え、「ヴェダーの意思表示はバンドを代表するものでなく個人的なものである。」という程度のコメントに留めている。
- 二人のギターリストを擁しボーカリストもギターを担当することもあるが、複雑なコード進行や難易度の高いギターソロを前面に押し出すバンドではなく、全体の一体感を保った上でほとんどの楽曲で中核にエディ・ヴェダーの歌唱を据えている。
- 同時代の他のグランジ・ロック、オルタナティブ・ロックに多いデカダンス的な表現は少なく、中期の作を除いておおむねストレートな王道型のロック・サウンドを主流にしている。もっとも、3作目を中心にして「重々しさ」や「深刻さ」の表現に関して特徴がある。総じて、従来のロック・ミュージックのカテゴリーでは、ヘヴィ・ロックに最も近いサウンドである。そして、各アルバムにおいては静と動のコントラストを際立たせる構築になっている。
- 1作目「Ten」は、サウンドに大きな特徴はないものの、近親相姦関係に悩む男がやがて幼女を狙う殺人鬼と化し死刑にされるまでを描いたとされる三部作、前述の「ブラック」など早くもエディ・ヴェダーが頭角を現している。2作目「VS」ではキャッチーなメロディーも多くみせ、ポップと評された。この作品は発売1週間の最速売り上げ記録を樹立し、レジクラッシャーとまでいわれた。3作目「ヴァイタロジー」は、それまでの作風と大きく異なり、パンク的手法を中核にすえた上で、前述したような音楽的な表現の豊かさもみせている。この3作目には、当初ビニール盤で発売されてCDセールスランキングに異例のチャート・インをはたしたというユニークな経緯があり、作中にもCDを否定しビニール盤を推奨する内容の曲がある。また、この3作目にはカート・コバーンの死が影響していると評されているが、メンバーは「彼の死を利用するつもりはない」とそれを否定する見解も示している。以上3作品がグランジ・ロックを代表するアルバムといわれる。その後も堅実に作品を提供し続けている。1998年には、ファン・クラブ向けのクリスマス・ソング「ラスト・キス」 (J・フランク・ウィルソンのカバー曲) がビルボードのシングル・チャートで2位に入って、異例のスマッシュ・ヒットを記録した。また6作目「バイノーラル」では、バイノーラル録音にも挑んでいる。
- 頻繁にライブ活動を行う。観客にダイブし、聴衆の中で歌うというパフォーマンスが初期の特徴であった。
- ニール・ヤングを敬愛して、ミラー・ボールというアルバムに参加するなど共演したり、ライブでは彼の曲のカバーを何度も演奏するなどしている。また、ニール・ヤングに限らずザ・フーやザ・クラッシュなど、ライブでは彼らが支持するバンドのカバー曲をたびたび演奏している。逆に、パティ・スミスやREM等によりパール・ジャムの曲をカバーされ歌われたこともある。
- ジェフ・アメンが中心となって活動しているスリー・フィッシュ、マイク・マクレディが中心となって活動しているザ・ロックフォーズ等、メンバーはサイド・プロジェクトとしての音楽活動も多数行っている。
[編集] エピソード
- CDにおいて、初めて紙ジャケットを導入した。以降、多くのロック・アーティストが同様の手法でアルバム・アートを製作した。
- テキサス州出身のデイヴ・アブラジーズは南部の男性らしい趣味を持っており、拳銃コレクションもその一つだった。セカンド・アルバム「Vs.」のプリ・プロダクション収録中にその趣味の話をしていたアブラジーズをヴェダーは強烈に非難し、軽蔑した。ヴェダーは市民の拳銃所持を政治的に非難していたからであるが、その時にアブラジーズを皮肉る為に思いついた歌詞がそのまま収録曲「Glorified G」として収録されている。ヴェダーは強引にその歌詞での収録を敢行するなど、当時、相当アブラジーズに冷たく当った模様。
- デニス・ロッドマンとの親交関係は彼の著作に記され有名である。また、メンバーの多くがバスケット・ボールを愛する。結成当初、ムーキー・ブレイロック (ニュージャージー・ネッツで活躍していたバスケット・ボール選手) というバンド名で活動していた程である (レコード契約の際に法的問題を指摘された為、現バンド名に変更) 。ちなみに、1991年にリリースしたアルバム"TEN"はブレイロックの当時の背番号である。
- 公式のブートレグを安価で消費者に提供した。これは、ニルヴァーナのように金儲けに利用されることを防ぐためともいわれている。パールジャムのブートレグは非常に多く、メンバーのジェフ・アメンもインタビューで「趣味はパールジャムのブートレグを集めること」とジョークにしたほどである。
- エディ・ヴェダーはサンディエゴで思春期を過ごし、学生時代は演劇部に所属していた。彼がサーフィンを趣味とすることは有名であり、海洋環境保護のチャリティアルバムに参加している。彼の祖母パールの作るジャムが (美味ゆえに) バンド名の由来になった、とするのが最有力説である。
- グランジムーヴメント期に人気を二分したニルヴァーナと比較される事が多い。同郷で同時期に台頭したために同じグランジというカテゴリーに含まれる事が多いが、パンク・ロック的側面を多分に含むニルヴァーナに対してパール・ジャムのバックボーンはハードロックによる部分が大きく、両者のスタンスは決定的に異なる。日本ではニルヴァーナの方が人気を獲得しているが、グランジ・ムーヴメント期におけるアメリカでのパール・ジャムの評価はニルヴァーナと同等かそれ以上であった。
- 生前のカート・コバーンはプレスを通して事あるごとにヴェダー批判を展開して、ヴェダーも負けじとコバーン批判を展開。その批判合戦は泥沼状態で、公私一貫して正真正銘の犬猿の仲のまま平行線を辿る。しかしコバーンの訃報に親族以外で一番ショックを受けていた関係者はヴェダーであったと言われる。 (ヴェダーは悲しみの余り数ヶ月間は真剣に引退を考えてしまう程の鬱に陥った)
- アラン・ジョーンズ著 藤本智司 訳「パールジャム・イラストレイテッド・ストーリー」 (シンコーミュージック刊) によると、バンド名の由来はヴェダーの祖母=パールの作るジャムが「おいしいから」ではなく、ペヨーテを用いた特殊な幻覚作用を催すジャムであった事に由来するとヴェダーが語っている下りがある。アメリカ先住インデアン民族の伝統的レシピのジャムらしい (ヴェダーの祖母はアメリカ先住民族の末裔) 。ヴェダーはそれを小学生時代から朝食のトーストを通して口にする機会があり、小学校登校時にハイになった状態で登校する日があったとインタビューで語っており、その頃からそのジャムを祖母への愛情を込めて「パール・ジャム」と呼んでいたらしい。
- 1作目『TEN』はデビュー・アルバムとしては驚異的な1000万枚を超える売り上げを記録したにもかかわらず、当時の日本では「のっぺりしている」「メリハリがない」「従来のヘヴィ・ロックとの差異がみうけられない」といった批評をうけた。以降、日本における評価が確立するまで時間を要した。(『TEN』は結成後すぐに録音に取り掛かったため実際完成度は低いという評価もある) また、欧米での人気に比して、アジア地域では明白に人気が落ちる。
- 人気絶頂期、ヴェダーはラジオの生放送番組出演中に対応した自殺志願のティーンエイジャーからの電話相談を真剣に受け止め、興奮の余り自宅の電話番号を放送中に相手に伝え、「いつでも辛い時には電話して来い!」と発言。その直後から数時間、シアトル市内の彼の自宅のエリア一帯の電話回線がパンクした為、当局から厳重注意を受ける。その後、ヴェダーに生番組出演のオファーは皆無に近い状態が続く。
- ヴェダーはデビューしてからしばらくは全てのファンレターに直筆で返事を書く努力をしていた。事実、移動中など空き時間の多くを返信の為に費やしていた現場を多くの記者に目撃されている (当時は奇行と報道される) 。しかし3ヶ月分のレターの返信に1年以上掛かる事になり、2ndアルバム発表後にはレターへの返信を断念。
- 2009年5月中旬、メンバーのジェフがスタジオ裏の駐車場で強盗被害にあうと言う事件にあっている。スタッフ数名と彼を乗せた車が駐車した瞬間、木陰に隠れていた3人組の強盗犯が彼らを襲った。その時彼は、強盗犯の1人に地面に押さえつけられたため、後頭部を怪我し(幸いにも軽傷ですんだ)、しばらく動けなかったという。ジェフは所持金約70万円と、パスポート、楽器やパソコン、携帯電話などを奪われたらしい。その時の映像ははっきりと防犯カメラに記録されているが、未だに犯人は捕まっていない。
[編集] ファッション
グランジ・ファッションの項目を参照。 コンバースのスニーカーにショートパンツや汚れたジーンズ、それにフランネルのシャツやバスケットボールのユニフォーム的なタンクトップ、Tシャツをあわせるといった従来のいわゆるロック・スターとは異なるスタイルでステージにあがり、以後のグランジ・ファッションのモデルとなる。バンドをモデルにシングルス (マット・ディロン、ブリジット・フォンダ主演) という映画が作成される。メンバーもわずかだが出演している。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] スタジオ・アルバム
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- 最高2位 13x RIAA Multi-Platinum (US), 7x Multi-Platinum (CAN), Gold Disc (UK), 7x Multi-Platinum (AUS)
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- 最高1位 7x RIAA Multi-Platinum (US), 5x Multi-Platinum (CAN), Gold (UK)
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- 最高1位 5x RIAA Multi-Platinum (US), 5x Multi-Platinum (CAN), Gold (UK)
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- 最高1位 RIAA Platinum (US), 2x Multi-Platinum (CAN)
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- 最高2位 RIAA Platinum (US), 2x Multi-Platinum (CAN), Silver (UK), Platinum (AUS)
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- 最高2位 RIAA Gold (US), Gold (CAN), Platinum (AUS)
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- 最高5位 RIAA Gold (US), Gold (CAN)
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- 最高2位 RIAA Gold (US), Platinum (CAN), Platinum (AUS)
- バックスペイサー - Backspacer (2009)
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- 最高1位 (US), Platinum (AUS)
『Vs.』以降, アルバムはデジパック仕様でリリースされている。また、2000年に行われたワールド・ツアーの全72公演が、2003年に『オフィシャル・ブートレッグ』としてリリースされていて、全公演の中から任意の会場を自由に選択して購入できる仕組みが販売方法で採用されていた。これはバンド及び所属事務所側からの海賊盤対策でのリリース・スタイルとなった。
[編集] ライヴ・アルバム
- ライブ・オン・ツー・レッグス - Live on Two Legs (1998)
- ロスト・ドッグス - Lost Dogs (2003)
- ライブ・アット・ベナロヤ・ホール Oct.22, 2003 - Live at Benaroya Hall (2004)
- Live in NYC 12/31/92 (2006)
- Live at Easy Street 7-CD Box Set (2006)
- ライブ・アット・ジョージ - Live at the Gorge 05/06 (2007)
- Live at Lollapalooza 2007 (2007) Format: Digital download exclusive to "iTunes"
[編集] コンピレーション
- リアヴューミラー - Rearviewmirror (2004) グレイテスト・ヒッツ 1991-2003
[編集] シングル
- Alive (1991)
- Even Flow (1992)
- Jeremy (1992)
- Oceans (1992)
- Go (1993)
- Daughter (1993)
- Animal (1993)
- Dissident (1994) - ライブ・テイクが収録, 当時唯一の公式ライブ音源。
- Spin The Black Circle (1994) - Grammy Awards of 1996 / Best Hard Rock Performance
- Not For You (1995)
- Immortality (1995)
- Merkin Ball (1995) - ニール・ヤングとの共作『I Got Id』収録。
- Who You Are (1996)
- Hail, Hail (1996)
- Off He Goes (1996)
- Given To Fly (1998)
- Wishlist (1998)
- Last Kiss (1999)
- Nothing As It Seems' (2000)
- Light Years (2000)
- Bu$hleaguer (2002)
- I Am Mine (2002)
- Save You (2003)
- Love Boat Captain (2003)
- Man Of The Hour (2003) - 映画『ビッグ・フィッシュ』のサントラ盤への提供曲。
- World Wide Suicide (2006)
- Life Wasted (2006)
- Gone (2006) - ダウンロード販売のみ
- The Fixer (2009)
[編集] 映像作品
- Single Video Theory (1998)
- Touring Band 2000 (2001)
- Live at the Showbox (2003)
- Live at the Garden (2003)
- Immagine in Cornice (2007)
その活動ポリシーから1993年から1998年までビデオ・クリップを含めた映像作品は制作してこなかったため初期の公式映像は少ない。しかし、1998年以降は積極的に映像作品を制作している。ライブ・ビデオのリリースが多いのはブートレッグ版対策の意味合いが大きい。また、上記の映像作品の他にマット・ディロン主演映画『SINGLES』 (1992) に当時のメンバー5人がカメオ出演している。[2]
[編集] 参考文献
- パールジャム・イラストレイテッド・ストーリー
- アラン・ジョーンズ 著 藤本智司 翻訳 単行本 シンコーミュージック (1996)
[編集] 外部リンク
- Synergy:米国Sonyによる公式サイト (英語)
- Pearl Jam - Ten Club (英語)
- Universal Music Japan (日本語)
[編集] 脚注
- ^ ちなみにパール・ジャム加入以前はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのオリジナルメンバーでもあったが、その時のバンドメイトでもあり幼馴染であったヒレル・スロヴァクを失い、鬱に陥り脱退した。パール・ジャムの脱退理由である持病は、この時の鬱病の再発とされている。
- ^ 作品内でのマット・ディロンのカツラはエディの毛を切って作ったらしい。[要出典]
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最終更新 2009年11月28日 (土) 06:34 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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