ヒューストン・アストロズ

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ヒューストン・アストロズ
Houston Astros
創設: 1962年
所属リーグ

ナショナルリーグ中地区

歴代チーム名
  • ヒューストン・アストロズ (1965年 - )
  • ヒューストン・コルト45's (1962年 - 1964年)
歴代本拠地

収容人員: 40,950人
永久欠番
5, 7, 24, 25, 32, 33, 34, 40, 42, 49
獲得タイトル(獲得年)
ワールドシリーズ優勝 なし
リーグ優勝 (1回) 2005
地区優勝 (6回) 1980 • 1986 • 1997 • 1998
1999 • 2001
ワイルドカード (2回) 2004 • 2005
球団組織
オーナー: ドレイトン・マクレーン
GM: エド・ウェイド
監督: セシル・クーパー

ヒューストン・アストロズHouston Astros、略称:HOU)は、アメリカMLBナショナルリーグ中地区所属のプロ野球チーム。本拠地はテキサス州ヒューストンにあるミニッツ・メイド・パーク

目次

[編集] 概要

シーズン成績の詳細については年度別成績一覧を参照

1962年にヒューストン・コルト45's(フォーティファイブス)として創設され、1965年に現在のヒューストン・アストロズに名を変えた。近年はナショナルリーグ中地区において上位をキープし続けており、1980年、1981年の2連覇、1996年から1998年の地区3連覇など、地区優勝7回を誇っている。しかしリーグ優勝はワイルドカードを獲得した2005年の1回だけ、ワールドシリーズ優勝はいまだ果たしていない。

本拠地としたヒューストン高温多湿の気候であり、の発生などの問題に悩まされていたため、球団創設前から屋内型球場の建設が計画され、1965年に世界初のドーム球場であるアストロドームが建設された。また2000年に開場したエンロン・フィールド(現ミニッツ・メイド・パーク)も開閉式屋根付き球場である。

また1975年には、歴代で最も派手と言われるレインボーカラーのユニフォームが導入され話題を呼んだ。このレインボーカラーは1993年までチームカラーとして使用され、アストロズ特有のチームカラーとして親しまれた。レインボーと言われるが実際は、赤・朱色・オレンジ・黄色の4色のようである。

アメリカ国内でも特に人種差別の根強いテキサス州を本拠地とするためか、かつては他球団に比べ白人選手の割合が非常に高く、2005年のワールドシリーズでも黒人選手が一人もいないスターティング・メンバーが波紋を呼び、物議を醸した。しかし、現在はマイケル・ボーンラトロイ・ホーキンスといったアフリカ系アメリカ人選手やミゲル・テハダカルロス・リーなどの中南米出身の選手、更には日本人の松井稼頭央など、多くの有色人種選手が中心選手として活躍しており、人種問題がクローズアップされることは無くなった。

監督は2007年シーズン途中から就任したセシル・クーパー。投手陣ではロイ・オズワルトが不動のエースとして君臨、打撃陣ではカルロス・リーランス・バークマンの強力な3・4番コンビが打線の中心となっている。2004年から先発ローテーションを形成していたロジャー・クレメンスアンディ・ペティットの両投手が共に移籍し、2006年にはジェフ・バグウェル、2007年にはクレイグ・ビジオと、長らくチームを支えた2人が引退したため、チームの若返りが急務となっている。

日本人選手では、2007年12月2日にコロラド・ロッキーズからフリーエージェントとなった松井稼頭央を3年契約で獲得している。

[編集] 球団の歴史

[編集] コルト45's(1962年 - 1964年)

1962年、ナショナルリーグの球団拡張と同時にヒューストン・コルト45's(フォーティファイブス)として創設。名前は当時ヒューストンに存在した拳銃製造会社に由来する[1]。同時にニューヨーク・メッツも創設され、この球団拡張によってナショナルリーグは8球団から10球団となった。当時はエクスパンション・ドラフトが充実しておらず、フリーエージェント制度がなく、リーグを代表するような長距離砲を獲得できなかった[1]

同年4月10日に最初の試合を本拠地であるコルト・スタジアムで行った。対戦相手にはシカゴ・カブスを迎え、11対2で初試合を初勝利で飾り、その後の3連戦を3連勝と幸先のいいスタートを切った。結局、初年度は64勝96敗を記録し、リーグ8位となった(リーグ9位はシカゴ・カブスで、最下位は同年に創設されたメッツで40勝120敗だった)。ハリー・クラフト監督の采配がよかったという見方が大半を占めた[1]。翌1963年からスカウトが若手選手を中心に集め、年々その若手選手の活躍が目立つようになった[1]

1963年9月29日、メッツとの最終戦でジョン・パチョレックがメジャーデビューし、3打数3安打3打点2四球2得点という成績を残した。しかし、故障などが祟って翌年以降はメジャー昇格が適わず、この1試合に出場した限りで引退した。そのため、パチョレックは打率1.000を記録したまま引退した選手のなかで、最も打数の多い選手としてメジャー史に名を残している。なお、他の兄弟もプロ野球選手であり、末弟のジム・パチョレックNPB大洋ホエールズなどで活躍、日本でもその名を知られている。また、この試合で勝利投手となったジム・アンブリットが、翌年の4月8日にによって33歳という若さで亡くなり、彼の背番号である32番はチームの最初の永久欠番となった。

この頃、チームで活躍した選手には、後にシンシナティ・レッズでプレーし、ビッグレッドマシンの一員として知られるジョー・モーガンや、通算1920試合の出場で1665安打・291本塁打を記録し、後に永久欠番に指定されるジミー・ウィンなどがいたが、他チームに比べ戦力不足は否めなかった。1964年4月23日のシンシナティ・レッズとの試合で、投手のケン・ジョンソンがレッズ相手にノーヒッターを達成しながら0-1で敗戦投手になった試合は、この頃のチーム状況をよく表した試合の1つであろう。コルト45sはその後アストロズと名を変えるが、1968年までのすべてのシーズンで90敗前後と大きく負け越すシーズンが続くこととなる。

[編集] アストロズとして

1965年、地元にNASAの宇宙センターがあることから、アストロノーツ(宇宙飛行士)を縮めてヒューストン・アストロズに改名した(なおヒューストンにはNBAヒューストン・ロケッツも存在するが、こちらの前身はサンディエゴが本拠地であり、その頃からロケッツという名称だったため、NASAが名前の由来というわけではない)。同年には世界初の屋内型スタジアムであるアストロドームが開場し、その近未来的な形から大きな注目を集めた。屋内型スタジアムが建設された背景には、地元ヒューストンの高温多湿な気候と、それに伴うの大量発生が観客や選手を悩ましていたことがあげられ、これらを一挙に解決するための画期的な方法だった[1]。結果的にアストロドームの開場によって、観客数はリーグ9位にもかかわらず前年の725,773人から2,151,470人まで増加し、商業的にも大きな成功を収めることとなった。

球団創設2年目位以降6年連続で90敗以上を記録し続けていたが、1969年には東西地区制が導入され、アストロズはナショナルリーグ西地区に移動。同年には81勝81敗を記録し、チーム史上初めて勝率5割に乗せるが、地区5位(6チーム中)に終わっている。その後は負け越しが続き、1972年には名将レオ・ドローチャーが監督に就任。再び勝率5割台に復帰し、一時期は優勝戦線に加わった。しかし、後半戦からは失速し、優勝には手が届かず地区3位に終わった。

1975年1月5日にはノーヒットノーランを2回成し遂げ、通算104勝をあげていたドン・ウィルソンがヒューストンの自宅で自殺するという悲劇が起こり、この年の4月には、ウィルソンの背番号である40番がチームの永久欠番となった。また、同年には赤・オレンジ・黄色・ネイビーからなるレインボーカラーのユニフォームが採用され、話題となった。このレインボーカラーは1993年までチームカラーとして導入され、そこからアストロズは「Rainbow Guts」という愛称で呼ばれることとなった。しかし、この年は64勝97敗と大きく負け越してしまい、地区最下位に沈んでしまった。また、シーズン途中にはビル・バードンに監督が交代している。そしてそのころから上昇気流に乗り始めた[1]

1976年6月15日、本拠地アストロドームでパイレーツ戦が予定されていたが、洪水のために審判、球場関係者、ファンが球場入りできず、グラウンド外のコンディション不良による試合中止というメジャー史上初の珍事が発生した(翌日からは通常通り試合が行われている)。

1979年、チームは開幕から首位を走り、7月4日の時点で2位レッズに10.5ゲーム差をつけた。この年のアストロズは、チーム本塁打数は49本、本塁打を10本以上打った選手は一人もいないという非力な打線だった。しかし、ホゼ・クルーズを初め、4人の選手が30盗塁以上を記録し、チーム盗塁数は190個を数えるなど、機動力野球で他チームを翻弄した。また、投手陣でもジョー・ニークロ、J.R.リチャードの両エースが活躍。兄フィル・ニークロと共にナックルボールの使い手として知られたニークロは21勝をあげ、最多勝を獲得。リチャードは防御率2.71・313奪三振で最優秀防御率最多奪三振を獲得し、リチャードは右投手リーグシーズン新記録となった。しかし翌年に心臓疾患により引退[1]。しかし、その後はレッズが猛追。シーズン終盤で首位を明け渡し、最終的に1.5ゲーム差で地区優勝を奪われてしまった。

[編集] ノーラン・ライアンの加入

1980年、カリフォルニア・エンゼルスからノーラン・ライアンを4年450万ドルという当時では破格の契約で獲得。ライアンはメジャー初の100万ドルプレイヤーとなった。また、レッズからはジョー・モーガンがチームに復帰し、モーガンは経験豊富なベテランとしてチームを引っ張った。彼らの活躍もあってチームも勝利を重ね、最終的にロサンゼルス・ドジャースと同率首位に並んだ末、優勝決定戦に勝利し、球団創立19年目にして初の地区優勝を果たした。続くリーグチャンピオンシップシリーズではフィラデルフィア・フィリーズと対戦。第1戦以外はすべて延長戦による決着という激戦の末、2勝3敗で敗れ、リーグ優勝はならなかった。

1981年、ドジャースからドン・サットンを獲得。サットン、ライアンという当時のナ・リーグを代表する右腕投手が揃った。9月26日にはライアンが通算5度目のノーヒット・ノーランを達成し、サンディ・コーファックスのもつメジャー記録を破った。また、自己最高となる防御率1.69を記録し、最優秀防御率も獲得した。同年にはストライキによって前後期制となり、アストロズは33勝20敗で後期優勝を飾る。プレーオフでは、前期優勝のドジャースとのディビジョン・シリーズに臨み、第1戦、第2戦と2連勝したが、その後は3連敗を喫し、地区優勝はならなかった。

1983年4月27日にはライアンがウォルター・ジョンソンのもつ通算3509奪三振を抜き、通算奪三振のメジャー記録を更新。

1986年にはマイク・スコットスプリットフィンガード・ファストボールをマスターし、「見えない球をどうやって打つんだ!」と言われるほどの魔球だった[1]。18勝10敗、防御率2.22、306奪三振を記録し、サイ・ヤング賞を受賞。スコットはこの年の9月25日にはノーヒットノーランも達成し、打線ではグレン・デービスが31本塁打を放ち、アストロズではジミー・ウィン以来となる30本塁打以上を記録した(本拠地のアストロドームは極端に本塁打が出にくい球場として知られ、アストロズの選手が25本塁打以上を記録するのも稀であった)。この年は彼らの活躍もあって2度目の地区優勝を果たした。続くリーグチャンピオンシップシリーズではメッツと対戦。共に2勝ずつをあげたが、第5戦、第6戦と共に延長の末に敗れ、リーグ優勝はならなかったが、マイク・スコットが2試合に登板し防御率0.50・2勝を記録し、この活躍が評価されMVPを受賞している[1]

その後、1988年限りで40歳を迎えていたライアンをテキサス・レンジャーズに放出。ライアンは翌1989年には16勝、301奪三振を記録し、この年には前人未到の5000奪三振を達成。その後300勝、2度のノーヒットノーランを達成するなど、その健在ぶりを示した。逆にチームは低迷し、1990年代中盤まで優勝とは縁のないシーズンが続いた。また、観客減にも悩まされるようになり、移転話も持ち上がったが、こちらは結局実施されなかった。

[編集] キラーB'sの登場

1988年にはクレイグ・ビジオ1991年にはジェフ・バグウェルがメジャーデビュー。ビジオはデビュー当初は捕手だったが、その後は二塁手に転向し、メジャーを代表する名二塁手へと成長する。バグウェルはデビュー前にボストン・レッドソックスから獲得し、その独特の「ガニ股打法」で知られた。デビュー1年目には打率.294・本塁打15本・打点82という好成績でナ・リーグ新人王を受賞した。

キラーB'sの中核バグウェル(左)とビジオ(右)

ストライキによってシーズンが中断した1994年にはナショナルリーグ中地区に移動。監督にテリー・コリンズが就任し、チームカラーも長年親しまれてきたレインボーカラーから紺と金を基調としたカラーに変更された。この年にはバグウェルが打率.368・39本塁打・116打点という驚異的な成績を残し、ナ・リーグMVPを獲得。ビジオも39盗塁を記録し、盗塁王を獲得した。また、シーズンでは首位レッズに0.5ゲーム差の地区2位でシーズンを終え、翌1995年1996年も地区2位となるなど、次第にチームも上位に進出する機会が多くなる。

コリンズ監督は口数が多く、ビジオらスター選手とはそりが合わず解任された[1]1997年には、ラリー・ダーカーが監督に就任した。しかし、メジャーで異例の18年間テレビ解説者を務めた後の就任で、采配や手腕を疑問視された[1]。しかし、84勝78敗ながら久々の地区優勝を果たす。この頃にはビジオ、バグウェル、デレク・ベルの3人がチームの中軸として活躍し、キラーB's(キラービーズ、殺人の意味。全員の頭文字が「B」で始まることから名づけられた)と呼ばれ、他チームから恐れられた。翌1998年は球団記録となる102勝60敗で地区優勝、トレード期限の7月31日にはランディ・ジョンソンを獲得した。1999年も97勝65敗をあげ、地区3連覇を果たした。しかし、いずれもディビジョンシリーズで敗退し、リーグ優勝は果たせなかった。

[編集] 初のワールドシリーズ

2000年からは老朽化の進んでいたアストロドームから開閉式屋根付き球場であるエンロン・フィールド(現在のミニッツメイド・パーク)に本拠地を移した。またこれに伴い、チームカラーもレンガ色と黒を基調としたカラーとし、ロゴデザインもレトロチックな流麗なものに変更するなど、これまでの近未来を意識したデザインからの脱却を図った。

2001年には再び地区優勝を果たすが、またしてもディビジョンシリーズで敗れ去ってしまう。この年にはランス・バークマンが頭角を表し、スイッチヒッターとしてメジャー初の50二塁打、30本塁打を同時に達成。ベルに代わってビジオ、バグウェル、バークマンによるキラーB'sを形成した。翌2002年からはダーカーに代わり、ジミー・ウィリアムスが監督に就任するが、2002年、2003年と地区2位に終わった。

2004年、引退宣言を撤回したロジャー・クレメンスアンディ・ペティットの両投手がチームに加入。クレメンスは18勝4敗をあげ、歴代最多(7度目)、最年長(42歳)、最多球団(4球団)となるサイ・ヤング賞を受賞した。また、この年のシーズン途中にはカルロス・ベルトランもチームに加わり、ビジオ、バグウェル、バークマン、ベルトランによるキラーB'sとジェフ・ケントの5人が20本塁打以上を記録した。シーズン途中には、ウィリアムスからフィル・ガーナーに監督が交代し、地区2位ながらワイルドカードを獲得。リーグチャンピオンシップシリーズに駒を進めたが、同地区のセントルイス・カージナルスに3勝4敗で敗れてしまった。

2005年は、前年20勝をあげ、最多勝を獲得したロイ・オズワルト、クレメンス、ペティットによる強力先発陣がフル稼働し、2年連続でワイルドカードを獲得。リーグチャンピオンシップシリーズでは再びカージナルスとの対戦となったが、これを4勝2敗で下し、球団創設44年目にして初のリーグ優勝に輝いた。続くワールドシリーズではシカゴ・ホワイトソックスと対戦。どの試合も僅差ながら、4連敗を喫し、ホワイトソックスの88年ぶりのワールドチャンピオンに花を添えるだけとなった。

[編集] 2006年以降

2006年には、カージナルスに次ぐ1.5ゲーム差で地区2位となり、ワイルドカード獲得もならなかった。同年限りでバグウェルも引退を表明し、クレメンス、ペティットの両投手も共にヤンキースに移籍した。翌2007年はさらに低迷し、5月には12年ぶりの10連敗を喫するなど、7年ぶりに勝率5割を切って地区4位に沈んでしまった。6月28日のロッキーズ戦で球団史上初の通算3000本安打を達成したビジオはシーズン途中に引退を表明し、監督もガーナーからセシル・クーパーに交代。反面、メジャーデビューしたばかりのハンター・ペンスが打率.322・17本塁打・69打点と素晴らしい成績を残し、新人王投票でも3位にはいるなど、世代交代を印象づけるシーズンとなった。

ビジオの後釜には松井稼頭央をFAで獲得し、トレードでミゲール・テハダを獲得し、新たな二遊間を形成した。

[編集] 主な選手

[編集] 現役選手

投手

捕手

内野手

外野手

* アクティブロースター外
** 40人ロースター外

2009年9月8日更新   
[公式サイト(英語)より:40人ロースター 選手の移籍・故障情報 予想オーダー]

[編集] 殿堂入り選手

[編集] 永久欠番

アストロズの永久欠番(2007年4月2日)

[編集] 傘下マイナーチーム

クラス チーム 参加リーグ
AAA ラウンドロック・エクスプレスRound Rock Express パシフィック・コーストリーグPacific Coast League
AA コーパスクリスティ・フックス(Corpus Christi Hooks テキサスリーグTexas League
A レキシントン・レジェンズ(Lexington Legends サウス・アトランティックリーグSouth Atlantic League
A- トライシティバレー・キャッツ(Tri-City Valley Cats ニューヨーク・ペンリーグNew York-Penn League
Rookie+ グリーンビル・アストロズ(Greeneville Astros アパラチアンリーグAppalachian League

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 伊東一雄「大リーグ球団史20 ヒューストン・アストロズ」『月刊メジャー・リーグ』1999年6月号、ベースボールマガジン社、1999年、雑誌 08625-6、64項 - 66項

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年7月28日 (火) 13:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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