ビュザンティオン

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ビュザンティオン古典ギリシア語Βυζάντιον (Byzantion))は、古代ギリシア都市である。ヨーロッパの南東、バルカン半島トラキアの東端に位置する小さな半島(現在のトルコイスタンブルの旧市街地区)の先端部分にあった。ギリシア語をもとにしたビュザンティオンビザンティオンの他、英語風にビザンティウムビザンチウムビザンティンビザンチンはその形容詞形)、ドイツ語風にビザンツビュザンツと表記されることもある。

4世紀以降から15世紀にかけてはローマ帝国の首都となり、コンスタンティノポリスと呼称された。のちにイスタンブルと呼ばれるようになり、現在に至っている。

[編集] 歴史

4世紀以降の歴史の詳細についてはコンスタンティノポリスおよびイスタンブルを参照

前667年頃にメガラからの植民者たちによって建設され、彼らの王ビュザンタスにちなんでギリシア語ビュザンティオンと名づけられたとされている。しかし、それ以前に原住民トラキア人の都市があったという説もあり、建設については伝説の域を出るものではない。

196年のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスのときに、その対立皇帝を最後まで支持しつづけたために懲罰として街は破壊されたが、すぐに再建された。後にコンスタンティノポリスの重要な建築物となる競馬場(ヒッポドローム)もこの時に建設されたものがもととなった。4世紀にはローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、ビュザンティオンが東西南北の交通路の要衝に位置し、天然の良港金角湾を持つことに着目。330年に、ローマ市からこの都市に遷都し、首都にふさわしい大都市の建設に着手した。

コンスタンティヌスは、ビュザンティオンをノウァ・ローマ(「新しいローマ」の意)と改称したが普及せず、コンスタンティノポリス(「コンスタンティヌスの都市」の意)として知られるようになった。引き続いてこの街を首都とした東ローマ帝国は、後世この街の旧称を取って、「ビザンティン帝国」(英語の形容詞より)、「ビザンツ帝国」(ドイツ語の名詞より)などと呼ばれることになる。以後、東ローマ帝国滅亡までその首都として繁栄し、中世ヨーロッパ有数の大都市として政治・経済・文化・宗教上重要な位置をしめ、「八つの名を持つ都市」として知られた。

1453年からは、この都市を陥落させたオスマン帝国が首都とし、再び東地中海地域を覆う大帝国の首都として栄えた。オスマン帝国の滅亡後もトルコ最大の都市として繁栄を続け、1000万人近い人口を抱えている。

最終更新 2009年11月18日 (水) 10:25 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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