ビートルズの解散問題

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ビートルズの解散問題( - かいさんもんだい)とは、英国のロックバンド、ビートルズが解散した原因やそれらに纏わる背景の事。

1970年4月10日ポール・マッカートニーはビートルズからの脱退を公表。ビートルズについて語る本の一部では、今でも「オノ・ヨーコジョン・レノンをビートルズから引き離した張本人」として、悪者扱いされる例が散見されるが、直接の解散の原因はよくわかっていない。この項では個々の問題ごとに区別して述べる。

目次

[編集] 公演活動の終了

1966年8月29日、ビートルズはサンフランシスコキャンドルスティック・パークで最終のライブ・コンサートを行なった。同公演は幾つかの不幸な出来事を含んだ1966年夏の短期ツアーの最終公演であった。後から見ればそれは彼らが当時感じたほど重大な出来事ではなかったが、1964年から1965年を通じてトラブル無しでツアーを行ったバンドにとっては、1966年のツアー中に発生した多くのトラブルの最後の一押しとなった。ライブ・コンサートは彼らにとってはもはや満足な経験ではなく、むしろストレスの大きな雑用となっていた。

公演活動を取りやめるという考えは日本公演の頃から始まった。日本武道館での公演は同館を神聖な場所と考える人々の大きな反対にも関わらず実施された。コンサートは1966年6月30日から7月2日まで計五回行われたが、非常に静かな観客の前で行われた(日本公演においては、観客は着席を義務付けられるなど、非常に厳重な警備態勢が敷かれていた)。実際にジョージ・ハリスンは「ビートルズ・アンソロジー」において「全体的に静かだった」と話している。これは金切り声を上げる少女たちといった普段のコンサートの様子とは異なるものだった。普段は自分たちの演奏の様子すら聞くことができなかったメンバーにとって、日本の観客の静かさはその演奏を確認させることとなり、彼らは自分たちの演奏能力が低下したように感じた[1](皮肉にも彼らは後に1965年および66年のツアーにおいて、叫び声を上げ音楽を聴くことのできないファンの前で、より洗練された新しい曲を演奏するのはフラストレーションが溜まるものであったと不平を話している)。同公演のブートレグを聞いたファンの多くはこの考えに同意する。

日本公演の数日後に彼らはフィリピンを訪れる。問題は警察がホテルから立ち去る許可を与えないことから始まった。続いてコンサート後に、大統領夫人のイメルダ・マルコスが自らの家族や友人のためにパーティを開催し、ビートルズを招待したが、メンバーもマネージャーのブライアン・エプスタインもその事実を知らされていなかった。エプスタインはバンドがパーティに向かうときの護衛として派遣されたガードマンを追い払い、このことは無礼な対応と捉えられた。[2]

翌朝の新聞にはビートルズがファーストレディに肘鉄を食らわしたと報じられた。腹を立てた民衆は暴動を引き起こし、バンドはフィリピンを脱出しようとした。リンゴ・スターは飛行機に乗ろうとした際に肋骨に怪我を負い、多くのツアーメンバーも負傷した。彼らの機材は失われ、コンサートの収益はすべて課税され、何名かのツアーメンバーは空港での乱闘後にそのまま取り残された。[3]

1966年のアメリカ・ツアー終了後、ジョージ・ハリスンは幾つかの理由からエプスタインに対しバンドを脱退する考えを話した。[4]この会話の後、彼の考えは明白に無効とされた。その考えの陰には音楽を創造したいという願望と、1960年代中頃から発達した録音技術によって作られた曲をライブ演奏する際の技術的な制限との葛藤から生じた不満が膨らんだためであった。[5]ビートルズはその歴史上重大な路線変更を決定した。

[編集] エプスタインの死

グループ初期の成功の立役者であったブライアン・エプスタインは1967年8月27日、自宅の寝室で変死しているのが発見される。死因は仕事のストレスからくる精神不安定をおさえる為の睡眠薬の過剰摂取であり、一説では、公演終了により自分の役割を見失ってしまったことや、自分が育てたビートルズが手が届かない存在になってしまったという疎外感から自殺したのではないかという噂もある。ビートルズはエプスタインの死に大きな衝撃を受けていた。[6][7]

取り纏め役がいなくなった後のビートルズは、当時ヒット曲の量産により発言力のあったポールが主導権を握ることとなる。その様子は彼の提案で始まった『マジカル・ミステリー・ツアー』セッションで明らかである。ポールは必死にグループを存続させようと努力するが、周囲には身勝手と受け取られ、とりわけ日頃から彼に不満を抱いていたジョージとの不仲が次第に顕在化し始める。ホワイトアルバム制作の頃には作曲者とその手伝いをする伴奏者と言うところまで来てしまった。[8]

ジョンは1970年に『ローリング・ストーン』誌のインタビューでエプスタインの死がバンド解散の主な原因であると語った。

「ブライアンの死後、君らが知ってるように色々なことが僕たちに降りかかり始めたことで、僕たちはポールのサイド・マンであることにうんざりしたのさ。ブライアンが死んで僕たちは意気消沈してしまった。ポールは彼を引き継いでおそらく僕たちをリードしようとしたけれど、僕たちは精神的に参ってしまったんだ」

[編集] アップルと財政問題

1967年、ビートルズは彼らの財産を運用するために自らの会社、アップル・コアを設立した。

この会社は音楽だけでなく映画や芸術等の傘下7部門を持つ巨大な企業であったが、経営に関して全くの素人である4人が会社をコントロールできる筈もなく、結局成功したのはレコード部門だけだった。[9]

ジョン・レノンは設立後間もなく会社は半年で無一文になるだろうと語ったと言う。[10]アップルはその資金を浪費し続け、会社の事業として創り出された作品のレベルは満足行く物ではなく、多くのフラストレーションとメンバー間の反目の原因となった。

アップルの運営を経営能力を持つ実績者に委任することに決定したとき、バンドは2つに分かれることとなる。ポール・マッカートニーは妻のリンダの父親であるリー・イーストマンへの委任を主張したが、これ以上ポールの発言力が強まるのを危惧した他の3人はローリング・ストーンズのマネージャーであった悪名高いアラン・クレインの起用を主張した。[11]結果としてマッカートニーと他の3人の間で訴訟問題に発展する。[12]結局クレインがアップルの運営に携わることとなったが、それは経営の悪化に対して明らかに力不足であり、その起用も遅すぎた。アップルは1975年にレコード・リリースを停止する。1990年代に幾つかのビートルズのタイトルをリリースした以外は、会社の活動は停止している。

[編集] 『ゲット・バック』セッション

1969年1月に行われた「ゲット・バック・セッション」はドキュメンタリーとしてフィルムに記録され、後に映画『レット・イット・ビー』として劇場公開されたが、ビートルズ末期の人間関係を窺い知ることのできる重要な記録となっている。

このセッションは、もともとポール・マッカートニーの発案で行われた。1966年にコンサート活動を停止した後、1967年発表のアルバムサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で揺るぎない評価を得たビートルズだったが、その後マネージャーのブライアン・エプスタインが死亡してからはバンドとしての結束が希薄になっていき、このセッションの前年に発売されたアルバム『ザ・ビートルズ(通称ホワイトアルバム)』では、自分の作った曲を自分だけで(あるいはメンバー以外のミュージシャンを参加させて)録音するという場面も見られた。こうした状況に危惧を覚えたポールは、一つの解決策を見出す。それは、彼らがバンドとして一体になっていた頃の原点に戻る(ゲット・バック)ためには、昔どおりに「観客を前にしたコンサート」を行なうことだった。[13] しかし、他のメンバーは興味を示しはしたものの、すぐに規模や内容、開催時期について意見の食い違いをみせる。最終的には「スタジオでのコンサートを収めたテレビ番組を作る。そのためにいくつかの新曲を用意し、曲を仕上ていく過程も収める。コンサートで披露できるという前提だから、新曲はこみいった編集作業を伴わないシンプルなものにする。音源はレコードとして発売する」ということで合意した。[13]

1969年1月2日、トゥイッケナム・フィルム・スタジオでセッションが開始された(映画撮影用のスタジオに録音機材を持ち込んで録音スタジオに仕立てた)。しかしセッションが進むにつれて様々な問題が露呈することになり、[14]1月10日にはジョージ・ハリスンがビートルズ脱退を宣言してスタジオを出ていってしまう。[15]その後、4人の間で何度か話し合いが持たれ、1月21日(もう少し前の可能性もある)からは彼らの設立した会社であるアップルの社屋ビルに場所を移し、「次のアルバム(タイトルは、最も出来が良いと思われていた曲から取って『ゲット・バック』になる予定だった)のための録音を目的としたセッション」として再開された。また、ジョージ・ハリスンがバンド内の緊張状態を和らげるためにキーボーディストで旧友のビリー・プレストンがサポートに加わることとなった。[16]

ビリー・プレストンの参加によりメンバー間の緊張も和らぎ、アップルでのセッションは比較的順調に進んだ。そして、1月30日にアップルビルの屋上で突然の公開ライブが行われた後、1月31日のセッションをもってこの「ゲット・バック・セッション」は一応の終りを迎えた。

このセッションで撮影・録音された膨大な映像・音源は、シングルとして発売された一部の音源を除いて、しばらくの間発表されることはなかったが、アルバム『アビイ・ロード』の録音・発売の後、1970年に映画『レット・イット・ビー』、アルバム『レット・イット・ビー』として世に出ることになった。

ただし、これらの作品は、後からかなりの編集を施されたものであって、このセッションの実情を知るには、手の加えられていない素材に当たる必要がある。こうした素材は本来世に出るものではないが、かなり以前から海賊盤として出回っており、現在では音源に関しては(セッション中に交わされた会話も含めて)その大部分に触れることができるため、これまでは伝記本や関係者のインタビューから推測するだけだった当時の状況をリアルに知ることができるようになっている。[17]


[編集] ジョンの脱退宣言

1969年9月20日、ビートルズの4人と、当時のマネージャーであるアラン・クレインは米国キャピトル・レコードとの契約更新の手続きのためアップル本社で会合を持った。 その席上において、ジョンとポールはバンドの今後を巡って口論になり(ポールの自伝「Many Years From Now」における記述によると、ポールはライブ活動の再開を望み、小さなクラブでのギグをやろうと提案したが、ジョンはこれに猛反発したらしい)[18]、挙句の果てにジョンはポールに向かって 「俺はもうビートルズを辞める!」 と吐き捨てた。しかしクレインに契約上の諸問題をたてに説得され、ジョンの脱退宣言はこの時点では無効扱いとされた。[19]

ちなみに1969年6月以降のジョンは重度のヘロイン中毒で、周囲の意見にほとんど耳を傾ける余裕がなかったそうである[20](この会合の直後に麻薬の禁断症状について書いた「コールド・ターキー」をプラスティック・オノ・バンド名義で発表している自分の中毒症状を訴えている[21])。

ポールはこの時のジョンの脱退宣言がよほどショックだったのか、暫くの間スコットランドの農場に引き篭ってしまった。 その頃のポールを心身ともに支えたのが当時のポールの妻であるリンダ・マッカートニーだった。後にポールは自伝「Many Years From Now」の中で「あの時リンダが支えてくれたから、ソロでやっていく決心がついた」と述懐している。

[編集] ジョージへの冷遇

非凡な才能が結集したビートルズにおいてジョージの立場は非常に厳しいものだった。

初期の頃は天才メロディメーカー「レノン=マッカートニー」の陰に隠れ、自分の実力を十分に発表出来ず(1アルバムにつき1~3曲程度の収録数であった)、寡黙な性格などからメンバーの中では一番目立たず Quiet Beatle(静かなビートル)と呼ばれていた。

しかし、ジョージの実力は後期になるにつれて少しずつ開花していき、インド音楽への接触や民族楽器シタールを導入する等、独自の世界観を構築する事に成功し、その作曲能力はレノン&マッカートニーに匹敵するまでになる。[22]にも関わらず、後期においてメンバー内での発言力を有していたポールは彼の能力を軽視し、演奏に何回も注文をつけたり[23]、自由な作品発表の場を与えずにいた。また、ジョンもビートルズがライブ活動を止め、スタジオ活動しかしなくなったことに強い不満を持っており、スタジオ活動を重視していたジョージとの間に溝が出来ていた。ジョージは、ジョンのプラスチック・オノ・バンドやセカンドアルバム『イマジン』のレコーディングに参加しており、ジョンとの和解は比較的早かったようだ。一方、ポールとの関係はその後もなかなか修復されることはなかった。ビートルズにおいて最も有名な敵対関係はジョンvsポールの構図であるが、一番深刻で泥沼な関係にあったのはポールvsジョージの関係であったと言えるかもしれない(ジョンとポールは一時的に確執状態があったがそれも数年間だけで、「失われた週末」からジョンを脱出させたのはポールである[24]し、ポールがジョンが住むダコタハウスを訪れた記録がある)[25]。ジョージは後年のインタビューにおいて「ポールとは友人としては問題ないが、音楽上の共演は難しい」と述べている。

ビートルズ解散直後でもメンバー同士がセッションやプライベートで会った記録は数多くあるが、ポールとジョージが会った記録はあまり残っていない(『想いは果てなく~母なるイングランド』『ディス・ワン』も参照)。

[編集] オノ・ヨーコ

ジョン・レノンとオノ・ヨーコの出会いは1966年のインディカ・ギャラリーにおける彼女の個展でのことであった。[26]ビートルズ解散に関する彼女の関与に関しては多くの議論がある。彼女とバンドの唯一の接点は、ジョンが彼女をバンドのセッションに連れて行ったときのことのみであった。そこでは彼女はメンバーの外側で静かに座っていた。彼女はジョンに対して彼とグループの関係に対する批判をささやき、ソロとしての活動を促した。[11]ポールは「ゲット・バック」録音時に彼女を睨みつけたと伝えられる(ただしこの時のセッションではポールも後に結婚するリンダ・マッカートニーを同伴していたことが多かったし、映像でも確認できる。ちなみに映画「レット・イット・ビー」では、リンダの連れ子であるへザーも同伴していたことが確認できる。つまりジョンがヨーコをスタジオに連れて来た事をきっかけに「じゃあ俺も」という感覚で他のメンバーも妻や恋人を同伴させるようになったわけで、一概にヨーコの存在がグループ解散の理由の一因とは言い切れない)。ポールは、ジョンがヨーコとともに過ごすようになってから彼にもっとプライベートな時間を作ってあげようと思ったと後に語っている。[27]


[編集] 脚注

  1. ^ 『ビートルズと60年代』pp.247-248
  2. ^ 『ビートルズ オーラル・ヒストリー』pp.236-237
  3. ^ 『朝日新聞』1966年3月16日付朝刊、第12版、14面
  4. ^ 『ビートルズと60年代』p.272
  5. ^ 『ビートルズ オーラル・ヒストリー』pp.239-240
  6. ^ 『ビートルズと60年代』p.307
  7. ^ 『ビートルズ帝国アップルの真実』p.21
  8. ^ 『ビートルズ オーラル・ヒストリー』p.277
  9. ^ 『ビートルズ オーラル・ヒストリー』pp.296-297
  10. ^ 『ビートルズと60年代』p.383
  11. ^ a b 『ビートルズ 増補版』p.349
  12. ^ 『ビートルズと60年代』p.397
  13. ^ a b 『ビートルズと60年代』p.380
  14. ^ 『ビートルズ世界証言集』p.399
  15. ^ 『ビートルズ レコーディング・セッション』p.209
  16. ^ 『ビートルズと60年代』p.384
  17. ^ 『ビートルズ世界証言集』pp.490-495
  18. ^ 『ビートルズ世界証言集』p.428
  19. ^ 『ビートルズ帝国アップルの真実』p.191
  20. ^ 『ビートルズと60年代』pp.400-402
  21. ^ 『ビートルズと60年代』p.424
  22. ^ 『ビートルズ 増補版』p.40
  23. ^ 『ビートルズと60年代』p.382
  24. ^ 『ビートルズ 増補版』p.372
  25. ^ 『ビートルズ世界証言集』pp.503-504
  26. ^ 『ビートルズ オーラル・ヒストリー』pp.244-245
  27. ^ 『ビートルズ世界証言集』p.535

[編集] 参考文献

  • ハンター・デヴィス 『ビートルズ 増補版』小笠原豊樹・中田耕治訳、草思社、1987年。
  • マーク・ルゥイソーン 『ビートルズ レコーディング・セッション』 内田久美子訳、シンコー・ミュージック、1990年。
  • イアン・マクドナルド 『ビートルズと60年代』 奥田祐士訳、キネマ旬報社、1996年。
  • デヴィッド・プリチャード/アラン・ライソート 『ビートルズ オーラル・ヒストリー』 加藤律子訳、シンコー・ミュージック、1999年。
  • アラン・クレイソン 『ジョージ・ハリスン 美しき人生』 及川和恵訳、プロデュース・センター出版局、1999年。
  • ザ・ビートルズ・クラブ監修・訳『The Beatles アンソロジー』、リットーミュージック 、2000年。
  • ステファン・グラナドス 『ビートルズ帝国アップルの真実』 中山啓子訳、河出書房新社、2004年。
  • マイク・エバンス編著、斉藤早苗監修 『ビートルズ世界証言集』 恩蔵茂・中山啓子訳、ポプラ社、2006年。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年9月12日 (土) 15:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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