ファショダ事件
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ファショダ事件(ファショダじけん)は、1898年、アフリカ大陸の植民地化(アフリカ分割)を競う、イギリスの大陸縦貫政策とフランスの大陸横貫政策が衝突した事件である。この事件を契機として、英仏は接近することとなった。
イギリスは1815年、早くもアフリカ最南端のケープ植民地を領有して、その支配地を北に拡大し始めた。その後、1875年にはスエズ運河を確保し1882年にエジプトを事実上の保護国化した後、ナイル川に沿って南下し始めた。1885年、エジプト統治下のスーダンでマフディー教徒が蜂起し、スーダンを完全に支配下に置いたため10年間ほどイギリスの南下政策は停滞した(マフディー戦争)。しかしその後、イギリスは2万5千の大軍を動員し、鉄道を敷きながら南下し、マフディー教国を破ってスーダンを支配下に置いた。このとき、イギリス軍の先遣隊が、さらに南のファショダ村にフランス国旗が掲げられていることを発見し、急遽、軍を派遣した。
フランスは1830年にアルジェリアに進出して以来、1881年にはチュニジアを、次いでサハラ砂漠一帯を領有した。フランスはさらに東部への進出を図って、マルシャン大尉率いる200名の武装探検隊を送った。一行は2年間にわたって各地を探検しながら東進し、1898年、ナイル河畔のファショダ村に到着したのである。
ファショダに急行したイギリス軍とフランス軍はあわや衝突かと思われた。しかし両軍の司令官(キッチナーとマルシャン)会見で、事態の処理を本国にゆだねることになったが、相次ぐ軍部の不祥事で混乱していたフランス軍が譲歩し、翌年ファショダを撤退した。
本国交渉はもつれたが、ドイツ帝国の急速な進出に直面した1904年、両国は英仏協商を結んだ。その協商で、フランスはエジプト・スーダンでのイギリスの優越権を、イギリスはモロッコにおけるフランスの優越権をそれぞれ認めることで決着をみたのである。 その後、第一次世界大戦でイギリスが、敗北したドイツからドイツ領東アフリカ(タンガニーカ)を獲得したため、イギリスの大陸縦貫政策は完遂した。ファショダ事件でスーダンから撤退したため、フランスの横貫政策は成らなかったが、フランスはアフリカ大陸の西半分の広大な地とマダガスカルを領有し、事実上アフリカ大陸をイギリスと2分割したも同然であった。
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最終更新 2009年10月31日 (土) 14:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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