フアン・ペロン
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| フアン・ドミンゴ・ペロン Juan Domingo Perón |
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アルゼンチン
第29、41代大統領 |
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| 任期: | 1946年 – 1955年 |
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| 任期: | 1973年 – 1974年 |
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| 出生: | 1895年10月8日 ブエノスアイレス州ロボス |
| 死去: | 1974年7月1日 ブエノスアイレス |
| 政党: | ペロン党 |
| サイン: | |
フアン・ドミンゴ・ペロン(Juan Domingo Perón、1895年10月8日 - 1974年7月1日)は、アルゼンチンの政治家。軍人出身。大統領に三回当選したが、独裁者と呼ばれたこともあり、アルゼンチン国内でもその評価は分かれる。ペロンの支援者「ペロニスタ」が母体となったペロン党は、現在でも同国内で大きな影響力を持っている。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
1895年にアルゼンチンの首都のブエノスアイレス郊外のロボスで、メスティーソの私生児として生まれた。その後16歳で陸軍士官学校へ進学する。
[編集] 軍人
アルゼンチン陸軍内では軍事理論や特に日露戦争を中心とする軍事史の研究を行い、その観点から1930年代にはドイツ軍の総力戦思想、具体的には国家の工業化と国民統合の必要性を訴えるようになっていった。
その後陸軍内で次々と出世し、第二次世界大戦中の1939年から1941年までイタリア王国で駐在武官として赴き、ベニート・ムッソリーニのファシズムに影響された。帰国後、枢軸国支持派の軍人とGOU(統一将校団)と呼ばれる秘密結社を組織。1943年5月に陸軍次官に任命された。同年10月に国家労働局次長に任命され、労働局が労働福祉庁に改組されるとペロンは同庁の初代長官となり、労働争議に介入し、労働者に有利な裁定を行った。労働法の制定や労働者の組織化にも力を注ぎ、こうした労働者保護政策によって1943年から1945年までの二年間で、「社会党が数十年かかってなしとげた以上の成果を達成した」(ペンドル)[1]。しかし一方でこのような国家による労使協調政策に反対する自主的な労働組合、特に共産党系の労働運動は激しく弾圧され、ペロンの労働政策は労働者に対する保護と規制を同時に推進する性格を持っていた。
アルゼンチンは第二次世界大戦には大勢が決した1945年まで参戦せず、大戦中はほぼ一貫して親枢軸的中立国であったが、アメリカ合衆国の圧力に屈して大日本帝国とナチス・ドイツと断交したことをきっかけにラミレスが失脚し、1944年にペロンの友人のエデルミロ・ファーレルが大統領に就任すると、ペロンは陸軍大臣と副大統領に就任した。事実上の実権を握ったペロンが露骨な枢軸国寄りの政策を取ったため、それを嫌ったアメリカ合衆国は大使召還、経済制裁の発動など厳しい反ペロン政策を採ったが、このことが逆に外圧に抵抗する国家主権の擁護者としてのアルゼンチン国内におけるペロンのイメージを高め、この頃からペロンの思想はペロニスモ(ペロン主義)、ペロンの支持者はペロニスタ(ペロン主義者)と呼ばれるようになっていった。
大戦終結後、合衆国とアルゼンチンの関係は悪化した。合衆国の大使スプルーレ・ブレイドンは公然とペロンを批判し、1945年10月17日には合衆国が後押ししたエドゥアルド・アバロス将軍による軍事クーデターにより一時拘束されたが、親ペロン派の軍人たちや、ペロン支持を決議したCGTのゼネスト、そしてペロンの釈放を求めて五月広場に大挙した労働者達による後押しを受けて、後に2番目の妻になる元女優のエバ・ペロン(エビータ)が、国民にラジオでペロンの釈放を訴えたことなどによりクーデターは数日間で失敗、釈放された。
[編集] 大統領当選
ペロンは1946年に大統領に当選した。このころ、連合国により国際指名手配されていたものの、イタリアの極右政党幹部であるリーチオ・ジェッリなどの手を借りて逃亡してきたドイツの戦犯を多数匿い、アルゼンチンの軍や治安機関の育成に当たらせている。ドイツ戦犯の逃亡を助けた背景には、第二次世界大戦中にドイツからの支援を受けていた上に、ドイツの科学技術を獲得したかったからだとされる。
大統領就任後は、労働組合の保護や労働者の賃上げ、イギリス系、アメリカ系などの外資系企業の国営化、貿易の国家統制などの政策を推し進め、労働者層から圧倒的な支持を受け独裁政権を敷き反対派は強制収容所に投獄した。この政策から「左翼ファシスト」と一般で評される。民族主義に基づく民族資本産業の育成、外国資本の排除(アルゼンチン国内のイギリス系鉄道の国有化等)など、ファシズムに共通するものが見られるが、ファシズムか否かでは論議が分かれる。
当時のアルゼンチンは、第二次世界大戦での輸出によって富裕国でありそれで得た外貨によってこれらの政策をおこなったが、すぐに使い果たし1949年頃からはアメリカやカナダの増産により食糧輸出は不振となってインフレがおこった。次第にペロンは苦境に追い込まれる。
[編集] 再選と亡命
1952年に再選したものの、同年7月に国民からカリスマ的な支持を受けた妻、エバが癌にかかり死亡するとますます国民からの支持をなくし、さらに離婚法を制定したことから、これまでペロンに対して強い支持を与えていたカトリック教会との関係も壊れた。
遂に1955年9月には、海軍と陸軍が起こした軍事クーデターにより大統領の職を追われ、独裁者仲間のアルフレド・ストロエスネル大統領が国を治めるパラグアイ経由で、同じく独裁者のフランシスコ・フランコ将軍が君臨するスペインに亡命した。その後亡命先のスペインでナイトクラブ歌手のイサベル・ペロンと再婚する。
[編集] 大統領三選
ペロン本人は亡命したものの、アルゼンチンの政情は不安定なままで、モントネーロスやペロニスタ武装軍団などの都市ゲリラが跋扈し、経済状況も悪化したままの状態を続けることとなる。この様な状況を受けて、ペロンの亡命後も後も「ペロニスタ」(ペロン派・ペロン主義者)と呼ばれる支持者がアルゼンチン国内で影響力を持ち続ける。
ペロン失脚後、混迷するアルゼンチンの政局を打開するため、大統領だったアレハンドロ・ラヌーセ将軍はペロン党の出馬を認めた選挙を1973年3月11日に実施した。この選挙でペロン党は勝利し、エクトール・カンポラが大統領に就任した。しかし、カンポラの就任直後からペロニスタ内部での左派と右派の抗争が激化し、ペロンの帰国を歓迎する空港での集会で両派が死者を出す事態に発展すると、唯一全ペロニスタを統率できる人物として、再びペロン本人が脚光を浴びることとなった。
亡命から18年近く経った1973年7月にカンポラの辞任を受け、ペロニスタ達はペロンに帰国して大統領選挙に出馬することを要請した。帰国したペロンは9月に行われた大統領選に勝利し同年の10月に三たび大統領に就任した。副大統領には自らの妻であるイサベル・ペロン(イサベリータ)を任じるが、既に78歳となっていたペロンに混迷するアルゼンチンをまとめ切るだけの指導力はなく、帰国後わずか1年後の1974年7月に心臓発作で病死した。
ペロンはアルゼンチンに正負共に大きな遺産を残したものの、ペロンの登場まで政治の枠組みの外部に置かれていた国民には愛され、ペロンの死に当たっては全国から100万人以上の支持者が葬儀に参列し、国会議事堂周辺には最後の別れを告げようとする数キロに渡る列が出来た[2]。
[編集] 死後
[編集] イサベル・ペロンの昇格
その後、副大統領であったイサベル・ペロンが大統領に昇格し、世界初の女性大統領となる。就任後は、軍内のペロン支持派とともに亡き夫の政権時代以上に強権的な体制を敷き、1975年には反政府派の弾圧を行ったほか、多数の人権活動家を投獄、殺害するなどし国民のみならず政府や軍の反感を買ったこともあり、1976年3月に起きた軍事クーデターで解任される。
なお、その後イザベルはスペインに亡命したものの、民主化を達成したアルゼンチン政府を通じて、反政府派の人権活動家の殺害を指示した罪状で国際手配され、2007年1月に亡命先のマドリードの自宅で逮捕された。
[編集] ペロニスタ
死後30年以上経った現在でも、ペロンの支持基盤だった「ペロニスタ」はアルゼンチンで大きな影響力を持っている。「ペロニスタ」を母体とした「ペロン党」(正式名は「正義党」)は1989年以降、カルロス・メネム、ネストル・キルチネル、そして現職のクリスティーナ・キルチネルと三代の大統領を誕生させ、議会内においても大きな勢力を保っている。
[編集] 脚註
- ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史Ⅱ』山川出版社 1985 p.359
- ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史Ⅱ』山川出版社 1985 p.376
[編集] 参考文献
- 中川文雄/松下洋/遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史Ⅱ』山川出版社 1985
[編集] 関連事項
[編集] 人物
[編集] その他
- クーデター
- ファシズム
- 左翼ナショナリズム
- 日系アルゼンチン人
- モントネーロス
- ヘネラル・ベルグラノ (巡洋艦)
- ロッジP2
- ゴルゴ13にはペロンが存命しているという想定でのストーリーがある(『アルヘンチーノ・ティグレ アルゼンチンの虎』1982年9月)。
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年12月6日 (日) 11:49 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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