フィリップ・ペタン
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| フィリップ・ペタン Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain |
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フランス
119代首相 |
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| 任期: | 1940年6月17日 – 1942年4月18日 |
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| 元首: | アルベール・ルブラン |
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ヴィシー政権
国家主席 |
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| 任期: | 1940年7月11日 – 1944年7月7日 |
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| 出生: | 1856年4月24日 コーチ=ア=ラ=トゥール |
| 死去: | 1951年7月23日 ユー島 |
アンリ・フィリップ・ベノーニ・オメル・ジョセフ・ペタン(Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain, 1856年4月24日 - 1951年7月23日)は、フランスの軍人、政治家。フランス第三共和政最後の首相としてドイツ軍に降伏し、以降は傀儡政権とされるヴィシー政府の元首をつとめた。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 第一次世界大戦
1856年にパ=ド=カレー県コーチ=ア=ラ=トゥールで生まれた。1887年にサン・シール陸軍士官学校を卒業したが、彼の出世は決して早いものではなかった。第一次世界大戦が勃発した1914年、彼はすでに58歳であったが、階級は大佐で第33歩兵連隊の連隊長にすぎなかった。 しかし彼の軍事思想がフランス陸軍総司令官ジョゼフ・ジョフルの目に止まり、マルヌ会戦を前に旅団長・師団長・軍団長と一気に昇進した。以降アルトワの戦いやシャンパーニュの戦いで戦功を挙げ、西部戦線で最も卓越した指揮官の一人という評価を得るに至った。1916年のヴェルダンの戦いでは第二軍の指揮を執ってフランス軍を勝利に導き、「ヴェルダンの英雄」という名声を得た。その高い人気もあって1917年にはピエール・ニヴェルの後任としてフランス陸軍総司令官となった。1918年、連合国の勝利で第一次世界大戦が終結した後の11月には元帥に昇進している。
なお、第33歩兵連隊時代からの部下に、シャルル・ド・ゴールがいた。
[編集] 戦間期
1920年、独身であったペタンは42歳のユージェニー・アードンと結婚した。陸軍最高顧問となったペタンはマジノ線の建設計画を始めとするフランスの防衛構想に大きく関与した。しかしそれは第一次世界大戦の戦争形式を踏襲するものであり、後年のフランス敗北の一因ともなった。戦後、ペタンは「私の軍事的精神は閉ざされてしまった。新しい道具、新しい機械、新しい方法が導入されたとき、私はそれに関心を持たなかったことを告白しなければならない」と語っている[1]。
1929年にはフォシュの後任としてアカデミー・フランセーズ会員に選出されている。1934年には国防相を務め、1939年には大使としてスペインに赴任した。
[編集] ヴィシー政権
第二次世界大戦中の1940年春、ドイツの侵攻でフランス軍が敗北を続ける中、84歳のペタンはレノー内閣の副首相に任命された。ペタンはウェイガン陸軍総司令官とともに対独講和を主張し、主戦派のレノーを圧迫した。6月17日にレノー内閣が倒れると、ペタンは後任の首相に任命された。6月21日、ペタン率いるフランス政府はドイツに休戦を申し込み、翌6月22日に休戦は成立した。
休戦協定によってパリを含むフランス北部と東部はドイツの占領下に置かれ、フランス政府は南フランスのヴィシーに移った。7月10日には議会によって新憲法が採択され、フランス第三共和政にかわって「フランス国」の成立が宣言された。ヴィシー政府の憲法は「全権力をペタン将軍に委任する」というただ一条のものであり、以降ペタンはフランス政府の国家元首となった。これ以降の政権はヴィシー政権と呼ばれる。ヴィシーではペタンを「国家の父」とするような個人崇拝が起きた。
詳細は「ヴィシー政権」を参照
ヴィシー政府は表面上は中立国扱いであったが、ペタンも副首相のピエール・ラヴァルも、ドイツへの協力を拒否することは出来なかった。枢軸国に大量の物資や食料を提供し、海外の植民地に、ドイツ軍や日本軍を抵抗なしに受け入れさせ、連合国との戦いを支援させた。マダガスカルなど多くの植民地政府がこれに従い、仏領インドシナは日本軍の進駐を受け入れた(仏印進駐)。また、レノーやダラディエなどの前政府関係者を戦犯として裁く裁判を起こし、被告の多くはドイツ国内の強制収容所に送られている。(リオム裁判)1942年11月、アフリカ戦線の悪化によりフランス全土はドイツ軍に占領され、ペタンは名実ともに飾り物の指導者でしかなくなった。
[編集] 政権崩壊
1944年に自由フランスのド・ゴールを含む連合国軍がフランスに再上陸した後の9月7日、ヴィシー政府は連合軍の攻撃を避け、南ドイツのジグマリンゲンに避難したが、その後すぐにペタンは国家主席を辞任した。
[編集] 戦後
ペタンは1945年4月にフランスに戻り、1946年の7月から8月にかけて裁判にかけられ、死刑を宣告された。しかし、1946年8月17日、ド・ゴールによって高齢を理由に無期禁固刑に減刑された。裁判後にはアカデミー・フランセーズからも追放されたが、ペタンの存命中には席次18は空位として扱われた。1951年、流刑先であるブルターニュ地方のユー島で生涯を閉じた。
フランスでは一般にナチス・ドイツへの協力者として批判を受けているが、ペタンの降伏がフランス全土を廃墟とする事態から救ったという評価も存在する。1980年、かつてヴィシー政権下で働いていたミッテラン大統領は戦後の大統領として初めてペタンの墓に献花し、話題となった。
[編集] 参考文献
- 『ペタン元帥はかく考へる 停戦後に於ける仏蘭西の輪郭』 岡田演之訳編 三学書房 1941
- 『ペタンはフランスを救ったのである』 ジャック・イゾルニ 小野繁訳 葦書房 2000 (現在、入手困難)
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年11月9日 (月) 05:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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