フィンバック (潜水艦)
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| 艦歴 | |
|---|---|
| 発注 | |
| 起工 | 1941年2月5日 |
| 進水 | 1941年8月25日 |
| 就役 | 1942年1月31日 |
| 退役 | 1950年4月21日 |
| 除籍 | 1958年9月1日 |
| その後 | 1959年にスクラップとして売却 |
| 性能諸元 | |
| 排水量 | 1,526トン(水上) 2,410トン(水中) |
| 全長 | 307ft (93.6m)(水線長) 311ft 9in (95m)(全長) |
| 全幅 | 27.3 ft (8.3 m) |
| 吃水 | 19.3 ft (5.9 m) |
| 機関 | フェアバンクス・モース38D-1/8 10気筒ディーゼルエンジン 4基 エリオット・モーター発電機2基 |
| 最大速 | 水上:20.25 ノット (37 km/h) 水中:8.75 ノット (16 km/h) |
| 航続距離 | 11,000カイリ(10ノット時) (19 km/h 時に 20,000 km) |
| 試験深度 | 300ft (90m) |
| 乗員 | 士官、兵員70名(平時) 士官、兵員80 - 85名(戦時) |
| 兵装 | 3インチ砲1基、21インチ魚雷発射管10基 |
フィンバック (USS Finback, SS-230) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級潜水艦の一隻。艦名はナガスクジラに因む。
目次 |
[編集] 艦歴
フィンバックは1941年2月5日にメイン州キタリーのポーツマス海軍工廠で起工する。1941年8月25日にA・E・ワトソン夫人によって進水し、艦長ジェシー・L・ハル少佐の指揮下1942年1月31日に就役する。以後、終戦までに12度の哨戒を行った。後の合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュを救助した潜水艦としても知られる。
[編集] 第1・第2・第3の哨戒
フィンバックはニューロンドンから太平洋戦線に送られ、5月29日に真珠湾に到着。ただちにミッドウェー海戦に参加した。海戦後、6月9日に一旦真珠湾に戻り、6月25日に最初の哨戒で日本軍が進出しつつあったアリューシャン列島方面に向かった。7月5日に初めて敵艦船と接触。その翌日の昼ごろ、駆逐艦若葉が至近距離から魚雷4本の攻撃を受けたが回避。この攻撃はフィンバックによるものとされる。8月11日にはタナガ湾に入り、タナガ島に調査チームを上陸させた。翌12日にダッチハーバーに寄港し、8月23日に48日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
9月23日、フィンバックは2回目の哨戒で台湾海域に向かった。10月14日、フィンバックは北緯25度20分、東経120度59分の地点で護衛艦に守られた4隻の船舶からなる輸送船団を発見。そのうち帝村丸(帝国船舶、7,007トン)を撃沈し、他2隻にも損傷を与えた。フィンバックは深深度潜航で攻撃海域を去った。10月18日に船舶を攻撃し損害を与えた後[1]、10月20日にも北緯24度26分、東経120度26分の地点で、北上する3隻の船舶からなる護衛なしの輸送船団を発見。日が変わった21日1時4分にあふりか丸(大阪商船、9,476トン)の左舷に魚雷2本を命中させ、1時10分に撃沈した。また、ろんどん丸(大阪商船、7,191トン)にも魚雷を命中させ、ろんどん丸は辛うじて沈没を免れた[2]。11月3日にもサンパンを銃火で撃沈し、58日間の行動を終えて11月20日に真珠湾に帰投した。
12月16日、フィンバックは3回目の哨戒で南西諸島に向かった。1943年1月17日、フィンバックは種子島沖で特設掃海艇やちよ丸(加藤シケ、271トン)と交戦し、やちよ丸に甚大なダメージを与えた[3]。1月26日にウェーク島を爆撃するB-24の援護任務に従事した後、2月6日に52日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投し、改装を行った。
[編集] 第4・第5・第6の哨戒
2月27日、艦長がジョン・A・テリー・ジュニアに代わったフィンバックは4回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。3月21日、メレヨン島西方で元特設水上機母艦讃岐丸(日本郵船、7,158トン)を雷撃し、魚雷を命中させ損傷を与えた。3月24日には輸送船団を発見し、26日まで追跡を行った後、2隻の船舶に向けて3本を魚雷を発射したが、結局何も起こらなかった。攻撃後、フィンバックは針路をウェーク島に向けて航海した。4月5日、フィンバックはウェーク島南岸に座礁している大型船を発見した。これは3月28日にタニー (USS Tunny, SS-282) の攻撃を受けて座礁した諏訪丸(日本郵船、10,672トン)であった。フィンバックは諏訪丸に向けて魚雷2本を発射。1本が諏訪丸の右舷後部に命中、これで諏訪丸は完全に止めを刺された。もう1本は西方に逸れて行き、サンゴ礁に命中した。4月13日、44日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
5月12日、フィンバックは5回目の哨戒でパラオ諸島方面に向かった。5月27日、パラオの北で陸軍輸送船高知丸(摂津商船、2,910トン)を撃沈。6月8日には北緯9度8分、東経134度3分のパラオ沖で、水雷艇鳩と第31号哨戒艇に護衛された元特設砲艦河北丸(日本海汽船、3,350トン)を撃沈。6月11日にも北緯7度40分、東経134度20分のパラオ西水道入口で、第46号哨戒艇に護衛された陸軍輸送船ぜのあ丸(日本郵船、6,784トン)を撃沈した。フィンバックは南西太平洋方面部隊潜水部隊に異動するよう命令を受け、6月26日に44日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
7月18日、フィンバックは6回目の哨戒でジャワ海に向かった。この哨戒での最初の接触は7月30日にあった。フィンバックは北緯6度30分、東経111度30分の地点で陸軍輸送船隆山丸(興国汽船、4,719トン)を攻撃した。隆山丸は搭載砲で反撃したが、結局撃沈された。8月1日にはあとらす丸(大阪商船、7,347トン)に損傷を与え[4]、8月3日には南緯5度18分、東経111度50分の地点で陸軍輸送船海祥丸(八馬汽船、6,070トン)を撃沈した。8月10日には特設敷設艦辰宮丸(辰馬汽船、6,343トン)を撃破[5]。8月19日には数隻の小型船と交戦し手痛い損害を与えた[6]。フィンバックは9月12日に真珠湾に帰投し、オーバーホールに入った。
[編集] 第7・第8・第9の哨戒
オーバーホールが終わったフィンバックは12月15日、7回目の哨戒で南シナ海に向かった。フィンバックは荒天に遭遇しつつも、1944年1月2日に中之島沖でタンカー一心丸(日本石油、10,044トン)を撃沈。1月30日にはトロール船を砲撃で撃沈した。2月11日に58日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
3月6日、フィンバックは8回目の哨戒でトラック諸島を含むカロリン諸島方面へ向かった。第58任務部隊搭乗員の救助を主な任務とした。4月12日、フィンバックは6隻の船舶が中心の輸送船団を発見。3隻の護衛艦に注意しつつ4隻の船舶に対して攻撃を行ったが、成果は不明だった。4月16日にはオロルック環礁を偵察し、半没状態の船と監視塔を攻撃した。4月19日にはサンパンの群れを発見し、うち1隻を撃沈した。55日間の行動の後、真珠湾に帰投したフィンバックは、艦長がジェームス・L・ジョーダンに交代。5月30日、9回目の哨戒でフィリピン海に向かった。この哨戒でも、マリアナ諸島攻略の援護をする第58任務部隊搭乗員の救助を主な任務とした。6月19日のマリアナ沖海戦前後には、アルバコア (USS Albacore, SS-218) やカヴァラ (USS Cavalla, SS-244) より北の位置で哨戒していた。6月21日20時21分、フィンバックはサーチライトを照射中の日本艦隊に遭遇した。また、レーダーでも13,000メートルの位置に日本艦隊と思しき物を探知した。しかし、背後に駆逐艦らしきものを見たので、追跡・攻撃を断念せざるを得なかった。7月21日、フィンバックはマジュロ環礁に帰投した。
[編集] 第10の哨戒・ブッシュ救助
8月16日、艦長がロバート・R・ウィリアムス・ジュニアに代わったフィンバックは10回目の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。その頃、ジョージ・H・W・ブッシュが搭乗員の一員だった航空母艦サン・ジャシント (USS San Jacinto, CVL-30) は、第38任務部隊の一艦として、艦載機で小笠原諸島を爆撃すべく進撃していた。第38任務部隊は8月末に小笠原に接近。ブッシュのいたVT-51(第51雷撃隊)は父島にある日本海軍の送信所など軍事施設を繰り返し爆撃し、さらには水上部隊も父島に艦砲射撃を加えていた。9月1日にも送信所への爆撃が実施されたが不成功だったので、翌日も繰り返すこととなった。9月2日、ブッシュらVT-51は送信所を爆撃しつつあった。その時、対空砲火がブッシュ機「バーバラ」に命中。しかし、「バーバラ」は爆弾を投下し送信所に命中した。「バーバラ」は避退しつつあったが火災がひどくなり、父島の北東海域に墜落していった。ブッシュと同僚1人は落下傘降下を試み、ブッシュは危うく機体に落下傘を引っ掛けるところだったが、無事降下。救命ボートを漕ぎ出した。一方、同僚の落下傘はついに開かなかった。
父島沖に待機していたフィンバックが、VT-51からの通報を受け取ったのは9時33分のことだった。通報で「バーバラ」の推定墜落位置の情報を得たフィンバックは直ちに現場に急行。11時56分にブッシュを救助した。同時に同僚の捜索も行ったが、ついに発見できなかった。フィンバックはブッシュを救助した後も引き続き、付近で搭乗員の捜索を行い、夕方になって母島沖で別の撃墜された4人のパイロットを救助した。こうしてフィンバックは、ブッシュを含む5人を「お客」として迎え入れることに成功した。その後、フィンバックはブッシュ以下の「お客」を乗せたまま任務を続行。9月11日には父島沖で輸送船団を発見し、陸軍輸送船八祥丸(南洋海運、530トン)と第二博運丸(西海汽船、860トン)を撃沈した[7]。フィンバックは10月4日に真珠湾に帰投。ブッシュはサン・ジャシントに、他の搭乗員もそれぞれの母艦に戻っていった。
ブッシュが日本軍に撃墜されたことは、大統領選終盤期や在任当時、日本の新聞やテレビ番組でも報道されたが、興味本位の軽い扱いであり、フィンバックの功績は報道されなかった。また、ブッシュの一件があったあとの父島では、捕虜がカニバリズムの犠牲になる事件があり、ブッシュは終戦直後にその事を知って、自伝(1987年刊行)などによれば、長い間日本人を嫌悪していたという。
[編集] 第11・第12の哨戒
11月1日、フィンバックは11回目の哨戒で再び小笠原諸島方面に向かった。今回も搭乗員支援を主として活動した一方で、12月16日に北緯27度24分、東経141度44分の地点で海軍徴用船寿山丸(興国汽船、2,111トン)を撃沈。12月24日にミッドウェー島に帰投した。
1945年1月20日、フィンバックは12回目の哨戒でプライス (USS Plaice, SS-390) 、シーポーチャー (USS Sea Poacher, SS-406) とともに東シナ海に向かったが、目ぼしい日本の艦船が一握りの艦船を除いてほとんどいなくなってしまった時期でもあり、3月25日までの62日間の行動で目立った戦果を挙げることはできなかった。フィンバックは2度目のオーバーホールを真珠湾で実施し、その途中で終戦を迎えた。
[編集] 戦後
8月29日、フィンバックはニューロンドンに向けて出航した。フィンバックはその経歴の最後の5年を、母港ニューロンドンを拠点として潜水艦乗組員の訓練艦として訓練に従事した。1947年および48年の2回、カリブ海での第2艦隊演習に参加した。1950年4月21日にニューロンドンで退役し、その後予備役艦として保管された。
フィンバックの12回の哨戒は、第3、第9、第12回を除いた全てが成功として記録された。フィンバックは第二次世界大戦の戦功で13個の従軍星章を受章した。撃沈した敵艦の総トン数は69,383トンに上る。
- 脚注
- ^ 詳細不明
- ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II、Roscoe "United States Submarine Operetions in World War II"などアメリカ側記録では、この時の戦果としてあふりか丸と山藤丸(山下汽船。5,359トン)の2隻を撃沈としている。しかし、『日本商船隊戦時遭難史』では山藤丸は攻撃の2日前である10月19日に澎湖島沖で座礁沈没とある。ここでは、あふりか丸が入っていた船団の記録がある書物である駒宮真七郎『戦時輸送船団史』、野間恒『商船が語る太平洋戦争』によった
- ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIおよびおよび林寛司、戦前船舶研究会「特設艦船原簿」「日本海軍徴用船舶原簿」による。なお、やちよ丸は戦争を生き延び、終戦後に徴用解除となった。フィンバックでは撃沈したと思っていたが、戦後の調査で撃沈が認定されなかった
- ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIによる
- ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIおよび木俣滋郎『残存帝国艦艇』による
- ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II、Roscoe "United States Submarine Operetions in World War II"などアメリカ側記録では、この時攻撃されたのは第109号駆潜特務艇(元オランダ掃海艇カウィ)で同艇は撃沈となっている。一方、『日本海軍護衛艦艇史』や伊達久「第二次大戦 日本海軍作戦年誌」などでは「8月14日にバリクパパンで爆撃を受けて放棄」となっている。ここでは、「沈めた」という表現が使われていない英文版によったが、第109号駆潜特務艇かどうかは特定を避けた
- ^ 『日本商船隊戦時遭難史』では、八祥丸の喪失原因は「空爆」となっている
[編集] 参考文献
- Theodore Roscoe "United States Submarine Operetions in World War II" Naval Institute press、ISBN 0-87021-731-3
- 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
- 防衛研究所戦史室編『戦史叢書62 中部太平洋海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1971年
- 木俣滋郎『写真と図による 残存帝国艦艇』図書出版社、1972年
- Clay Blair,Jr. "Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan" Lippincott、1975年、ISBN 0-397-00753-1
- 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
- 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
- 伊達久「第二次大戦 日本海軍作戦年誌」『写真 日本の軍艦14 小艦艇II』光人社、1990年、ISBN 4-7698-0464-4
- 『日本海軍護衛艦艇史 世界の艦船 1996年2月号増刊』海人社、1996年
- 秦郁彦「第32章 人肉事件の父島から生還したブッシュ」『昭和史の謎を追う 下』文春文庫、1999年、ISBN 4-16-745305-3
- 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』私家版、2004年
- 林寛司、戦前船舶研究会「特設艦船原簿」「日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶 第104号』戦前船舶研究会、2004年
- 田村俊夫「「初春」型戦時兵装の変遷 第2部 開戦から昭和18年9月まで」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ57 帝国海軍 艦載兵装の変遷』学習研究社、2007年、ISBN 4-05-604599-2
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最終更新 2009年6月13日 (土) 08:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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