フェリックス・メンデルスゾーン

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メンデルスゾーン

フェリックス・メンデルスゾーン(ヤコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ、Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809年2月3日 ハンブルク - 1847年11月4日)は、ドイツロマン派作曲家指揮者

目次

[編集] 生涯

1809年2月3日、ハンブルクにて富裕な銀行家アブラハム・メンデルスゾーンとレア・ザロモンの息子として生まれる。祖父モーゼス・メンデルスゾーンは、カントにも影響を残した有名なユダヤ人哲学者であった。フェリックスの家族は、アブラハムの代でプロテスタントルーテル派に改宗する。父アブラハムはまず子供達を1816年に改宗させ(この時、フェリックスは7歳)、自らと妻レアは6年後の1822年に改宗した。父はこれを記念して「メンデルスゾーン・バルトルディ」と改姓したが、フェリックスは「バルトルディ」を使いたがらなかったという。

メンデルスゾーン家は1812年以降ベルリンに居を構えるが、フェリックスも含めてユダヤ人としていわれなき迫害を受けることが多く、それは改宗後も大して変わらなかった。にも関わらず、フェリックスの業績・影響力は極めて強く、終生ドイツ音楽界の重鎮として君臨し続けた。

姉のファニー・メンデルスゾーン(結婚後、ファニー・ヘンゼル)は、彼女自身有名なピアニストであり、女性作曲家の先駆者でもあったが、迫害を矢面に受けて気難しくなっていく弟フェリックスの何よりの心の友、良き理解者、良き導き手であった点が特筆される。妹のレベッカは数学者のペーター・グスタフ・ディリクレと結婚した。

メンデルスゾーンは、文豪ゲーテロベルト・シューマンとも、親友、良き理解者の間柄である。

1847年11月4日、かねてから体調が思わしくなく、クモ膜下出血と思われる症状で急逝した。最期の言葉は「疲れたよ、ひどく疲れた」(Ich bin müde, schrecklich müde.)であった。

[編集] 人物・業績

作品についてはメンデルスゾーンの作品一覧をご覧ください。

一度見た楽譜や一度聞いた音楽を完璧に記憶する記憶能力を有していたという。伝わっている逸話の1つとして、代表作の1つである『夏の夜の夢』序曲の楽譜を引越す際に紛失してしまうも、記憶だけを頼りに全てまた書き出して見せた、というものが残っている。後に元の楽譜が発見されるが、書き直した楽譜と元の楽譜は7箇所が異なるだけで、あとは完璧に同じだったと言う(その7箇所も間違えたのではなく、メンデルスゾーン本人が意図して直したものではないかと言われている)。

多数の言語を自在に操り、青年になる頃にはドイツ語のみならず、ラテン語イタリア語フランス語英語までも話していた。音楽のみならず詩や絵(水彩画)にも興味を持ち、いくつかの作品を残している。特に水彩画に関しては趣味として楽しんでいたが、本職の画家顔負けの実力を持っていた。

作曲以外の彼の最も重要な業績はまず、それまで独立していなかった指揮者という職務を独立させ、自らも極めて有能な指揮者として率先して範を示し、弟子たちに指揮法を教え、現在にまで至る指揮法を確立した創始者であるという点である[要出典]

同様に重要な業績として、その当時すでに忘れ去られていた大バッハの楽譜を自ら発掘してその価値を見抜き、同様に演奏困難などの理由で早くも忘れられつつあったベートーヴェンの作品をこよなく愛し、彼らの作品を好んで積極的にパイプオルガン、ピアノないしオーケストラの曲目として取り上げ続け、貴族にも大衆にも大バッハやベートーヴェンの価値を広く知らしめた点が挙げられる[要出典]。また、友人のシューマンが発見したシューベルトの遺作、交響曲ハ長調D944(第8番『ザ・グレート』)を初演した。

さらに、自らがオルガニストピアニストあるいは指揮者となり、それまで古い楽曲を演奏する習慣のなかった音楽界に、古くても価値ある作品を敬意を払って演奏するという音楽作法を確立し、ピアニストやオーケストラの演奏活動を大いに盛んにしたことも、メンデルスゾーンの大きな功績と言える[要出典]

[編集] J.S.バッハとシューベルトの復興

メンデルスゾーンの作品は、バロック様式、初期古典派音楽の研究の成果を示している。彼のフーガコラールは、特にJ.S.バッハの対位法の影響を反映する。彼の大叔母は、大バッハの息子のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの弟子であり、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの未亡人には経済的援助を行った。この大叔母は多くのバッハの自筆譜を蒐集していた。またメンデルスゾーンの音楽の先生のツェルターは、19世紀にはそれほど知られていなかったJ.S.バッハとその音楽を、深く尊敬していた。

1829年にメンデルスゾーンは、友人らの助けを得て、バッハのマタイ受難曲のベルリン公演を実現させた。オーケストラと聖歌隊は、ベルリン声楽アカデミーのメンバーが出演し、ツェルターが指揮者を務めた。1750年のバッハの死以来、最初のマタイ受難曲演奏の成功は、全ヨーロッパにおけるバッハ復興につながる重要な事件であった。それは、20歳のメンデルスゾーンの名声を高めた。また当時「世界で最も偉大なキリスト教音楽をユダヤ人が復興させた」と評された。メンデルスゾーン自身もルーテル派であり、バッハの作品を「この世で最も偉大なキリスト教音楽」と見なしていた[1]

メンデルスゾーンは、またフランツ・シューベルトの音楽も復興させた。シューマンは発見したシューベルトの第8(9)交響曲の楽譜をメンデルスゾーンに送り、この曲は作曲者の死から10年以上経った1839年3月21日、メンデルスゾーンによりライプチヒで初演された。

[編集] 年譜

  • 1815年(6歳) 母からピアノを学ぶ。
  • 1817年(8歳) 父親がパリに赴いた際に同行して、合唱団ジングアカデミーの指揮者マリー・ビゴーのレッスンを受ける。子供の頃から、音楽に限らずフェリックス少年の才能を伸ばそうという親の配慮が常に見られた。この年からベルリンでカール・フリードリヒ・ツェルターに作曲を学ぶ。

[編集] Bartholdyの名について

12使徒の一人バルトロマイの「Bartholdy」という名は父アブラハムがつけたもので、メンデルスゾーン家の中ではキリスト教に改宗したことを表す意味合いがあったといわれている。もとはフェリックスのおじが最初に「Bartholdy」を名乗ったのが始まりとされている。フェリックスは父のためにその名前をつけていたが、彼自身はその名に必要性を感じず、単に「フェリックス・メンデルスゾーン」と名乗っていた。また彼はエクトル・ベルリオーズの不敬虔にショックを受けるほど敬虔なキリスト教徒であったが[1]、文化的な背景はユダヤ的な影響を強く受けており、自分自身がユダヤ人という意識を持っていたという。

[編集] 脚注

  1. ^ P・カヴァノー『大作曲家の信仰と音楽』教文館

[編集] 参考

ライプツィヒにあるメンデルスゾーンの家は改修されメンデルスゾーン記念館となっている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ


先代:
クリスティアン・アウグスト・ポーレンツ
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長
1835 - 1847
次代:
ユリウス・リエッツ

最終更新 2009年11月21日 (土) 07:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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