フェルキッシャー・ベオバハター

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フェルキッシャー・ベオバハター』(: Völkischer Beobachter, 「民族の観察者」の意)は、ドイツで発行された新聞国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)の機関紙1920年に創刊された。最初は週刊で発行され、1923年2月8日より日刊となった。25年間に渡りナチ党の公式メディアの一役を担った。

「大ドイツ民族社会主義運動の戦う機関紙」(Kampfblatt der nationalsozialistischen Bewegung Großdeutschlands)と称した本紙は、1918年、トゥーレ協会が週刊紙『ミュンヒェナー・ベオバハター』(Münchner Beobachter)を買収し、1919年8月に『フェルキッシャー・ベオバハター』に改名したことに始まる。ナチ党は1920年12月にディートリヒ・エッカートの主導で本紙を買い取り、彼は初代編集長に就任した。

発行部数は最初約8,000部だったが、1923年秋のルール占領中強い要望により25,000部に増えた。この年、アルフレート・ローゼンベルクが編集長に就任した。1923年11月9日のミュンヘン一揆の後ナチ党が非合法化されたのにともない本紙もまた休刊となったが、1925年2月26日に党が再結成されると復刊した。発行部数はナチズムの台頭により増加し、1931年には12万部に、1944年までには1,700万部に達した。

本紙の記事の中で、おそらくもっとも悪名高いものといえば、1940年6月6日の占領下ポーランド総督ハンス・フランクへのインタビューである。

チェコスロバキアで7人のチェコ人学生への死刑宣告が広く公表された件に関して、彼はこう語った。「もし私が7人のポーランド人の銃殺を命じたというようなことを毎回ビラを配って通知しなければならないとしたら、必要な紙を用意するだけの木がポーランドの森には無い。」[1]

Józef Czapski (1987). The Inhuman Land. London: Polish Cultural Foundation. ISBN 0 85065 164 6.  306ページ

1945年4月20日に発行されたアドルフ・ヒトラーの56歳の誕生日を祝ったのがフェルキッシャー・ベオバハターの確認できる最終号であり、その10日後にヒトラーは自決している。

[編集] 付記

『フェルキッシャー・ベオバハター』はマイクロフィルムで入手することができる。Mikropress

[編集] 脚注

  1. ^ Norman Davies (2003). Rising '44. London: Macmillan, 84. ISBN 978-0333905685. ではオリジナルの引用が翻訳されている: 「プラハでは、大きく赤いポスターがその7人のチェコ人が今日射殺されたことがわかるように掲示される。私は自分自身に言う。『もし私が7人のポーランド人を射殺する度にポスターで公表しなければならないなら、ポーランドの森はその紙を作るに充分でない。』」

[編集] 関連項目


最終更新 2009年5月23日 (土) 20:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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