フランク・ザッパ

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フランク・ヴィンセント・ザッパ
フランク・ザッパ(1977年)
フランク・ザッパ(1977年)
基本情報
出生名 Frank Vincent Zappa
出生 1940年12月21日
学歴 アンテロープ・ヴァリー短期大学
出身地 アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア
死没 1993年12月4日(満52歳没)
ジャンル ロック
プログレッシヴ・ロック
ジャズ
ブルース
実験音楽
職業 作曲
作詞
指揮
プロデュース
担当楽器 ボーカル
ギター
ベース・ギター
キーボード
ヴィブラフォン
シンクラヴィア
ドラムス
活動期間 1950年代~1993年
レーベル ビザール
ライコディスク
ディスクリート
ザッパ
バーキング・パンプキン
共同作業者 キャプテン・ビーフハート
ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション
影響 イーゴリ・ストラヴィンスキー
ジョニー・"ギター"・ワトソン
ハウリン・ウルフ
アントン・ヴェーベルン
エドガー・ヴァレーズ
公式サイト zappa.com
  

フランク・ヴィンセント・ザッパFrank Vincent Zappa, 1940年12月21日 - 1993年12月4日)は、アメリカ合衆国の男性音楽家ロックジャズ・フュージョン現代音楽)。ピエール・ブーレーズに認められた現代音楽作家でありつつ、ロックギタリストとしても評価が高く、エイドリアン・ブリューテリー・ボジオヴィニー・カリウタ、ローウェル・ジョージ、ジョージ・デュークスティーヴ・ヴァイ他を輩出したバンドのリーダーでもある。多作で知られ、一生涯で60枚以上のオリジナルアルバムを発表した。息子ドゥイージル・ザッパもロック・ギタリストである。ローリング・ストーン誌の2003年8月号のカバーストーリー、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第45位。

目次

[編集] 生い立ちと初期の経歴

1940年12月21日、フランク・ヴィンセント・ザッパはメリーランド州ボルティモアで生まれた。彼の祖先はシチリア島イタリアギリシャアラブフランスアイルランド、そしてドイツと様々な土地の混合であった。1951年1月に一家はフランクの喘息療養のためカリフォルニア州サンフランシスコから100マイル南のモンタレーに転居した。一家はその後ポーモーナ、エルカホンと転居を重ね、1950年代初めにサンディエゴに移り住んだ。1955年には再びランカスターに転居した。15歳の時までにフランクは六つの異なる高校に通った。12歳でドラムスを始め、17歳でギターに転向する。自らのバンド活動を始めたのもこの頃である。

フランクの父親はシチリア島出身の科学者および数学者で、エドワーズ空軍基地の近くにある連邦政府化学戦研究施設に勤務した。一家はエドワーズ空軍基地の近くに暮らしたため、事故に備えて家庭には防毒マスクが常備されていた。

高校を卒業したザッパは、いくつかの会社勤めをしながら地元サン・バナディーノのクラブに出演し、キャリアを積んだ。1959年には、彼の英語教師ドン・セルヴェリスが脚本を書いた西部劇映画「Run Home Slow」の映画音楽を担当し、19歳にして現代音楽作曲家としてのキャリアをスタートさせた。1963年には、ポール・バフが自主設立しながら資金難で手放したパル・レコーディング・スタジオを買い取り、スタジオZと名づけている。なおこの時期に、ザッパは地元刑事のおとり捜査にひっかかってポルノ・テープを作成し(実際には女友達と笑いあっているだけの内容だった)、サン・バナディーノ刑務所で10日間の拘留刑に服している。

[編集] ザ・マザーズ・オブ・インベンション

1964年、ザッパはレイ・コリンズがリーダーを勤め、既にジミー・カール・ブラックが在籍していたバンド、ザ・ソウル・ジャイアンツに加入する。このバンドが後述するマザーズの前身となった。1965年、バンドはMGMレコードと契約し、翌1966年ザ・マザーズ・オブ・インベンションのデビューアルバム『フリーク・アウト!』がリリースされた。当時としては異例の2枚組、かつ明確なコンセプトを持ったトータル・アルバムであったという点で、現在でもロック史に残る名盤の一枚に数えられている。

初期マザーズは1969年まで活動を継続し、7枚のアルバムを発表した。さらにこれと並行して『ランピー・グレイヴィ』(1968年)『ホット・ラッツ』(1969年)の2作のソロを発表するなど、この頃から既にザッパの多作振りは群を抜いていた。『ランピー・グレイヴィ』ではオーケストラと共演し、マザーズ名義の『アンクル・ミート』(1969年)では純室内楽的なアプローチを多用するなど、技法の斬新さも特筆すべきものがある。『ホット・ラッツ』は、イギリスのヒットチャートで永らく上位を占め、1969年のメロディ・メイカー誌における「Album Of The Year」においてベスト・アルバム賞に輝いている。

自らの音楽活動に従事するかたわら、ザッパはプロデュース業にも力を注いだ。高校からの友人であるキャプテン・ビーフハート(ドン・ヴァン・ヴリート)のアルバムで、ビーフハートの最高傑作の呼び声も高い『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)は、彼のプロデュースのもと製作されたものである。

[編集] 1970年代

オリジナルのマザーズ・オブ・インベンションは『いたち野郎』を最後に解散することになるが、1970年代のザッパはますますジャンルの多様化をとげつつも、強烈な独創性に裏打ちされた質の高いアルバムを次々に発表する。リンゴ・スターがザッパ役をこなした映画のサウンドトラック『200 Motels』(1971年)、元タートルズのフロー&エディをフィーチャーした20分を超える大曲「ビリー・ザ・マウンテン」を収録した『ジャスト・アナザー・バンド・フロム L.A.』(1972年)などはその一例にすぎない。

1971年の末、深刻なアクシデントがザッパを襲う。モントルーでのライブ時の火災(後述)の直後、マザーズのロンドンでの公演中に聴衆の一人がザッパをステージから突き落とすという事件が起こったのである。全身に複雑骨折を負い、生命すら危ぶまれたザッパだったが、ツアーに出ることもままならないその静養期間中に彼はスタジオ音楽の可能性に目覚める。その成果は、翌年立て続けに発表されたビッグバンドによる二枚のジャズ・ロックアルバム、『ワカ/ジャワカ』『グランド・ワズー』(ともに1972年)として結実した。

ただし、この静養期間中ザッパは当然バンドを維持することが出来ず、マザーズは再び解散の憂き目に会う。これ以降ザッパは自らのソロ名義でアルバムを発表すると共に、ザッパ本人も「自分は絶対に受からない」と言ったとされる程の厳格なオーディションにより高い演奏技術を持ったミュージシャンを集めるようになり、期せずして「ザッパ・スクール」が形成されることとなった。

その後もアルバムリリースの勢いは衰えを見せず、ジャズロック路線とブラックミュージックへの傾倒をミックスした『オーヴァーナイト・センセーション』(1973年)、『アポストロフィ (')』(1974年。このアルバムは全米ヒットチャートの10位にまで駆けのぼり、ザッパの代表作として記憶する人も多い)、高度な演奏テクニックに裏打ちされた名曲「インカ・ローズ」などを収録した『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(1975年)などのアルバムが続々とリリースされた。 この時期のザッパはジョージ・デュークキーボード)、ルース・アンダーウッド(パーカッション)、ジャン=リュック・ポンティ(ヴァイオリン)、チェスター・トンプソン(ドラムス)、テリー・ボジオドラムス)、ブルース・ファウラー(トロンボーン)などの錚々たる実力派ミュージシャンに支えられた。

[編集] 1980年代

ギターソロのみを収録したShut Up 'N Play Yer Guitarを発売。JAZZ FROM HELLではシンクラヴィアをフィーチュアし、グラミー賞を受賞。その他、数々の名作を発表。

[編集] 1990年代以降

遺作となったThe Yellow Sharkを発売後、93年12月4日、ガンのため死去。

[編集] エピソード

「鬼才」、「天才と狂人は紙一重」と呼び習わされることだけあり、ユニークなエピソードには事欠かない。

  • 『フランク・ザッパ自伝 (The Real Frank Zappa Book) 』によると、彼は長らく自分の名前は「フランシス」だと思い込んでおり、どうしても好きになれない名前なので愛称の「フランク」を名乗っていたという。海外ツアーに向けてパスポートを取得するために出生証明書を取り寄せてみたところ、そこに記されていた名前は実際に「フランク」であったので、そのことを知る前にリリースした『ランピー・グレイヴィ』ら初期のアルバムに「フランシス・ヴィンセント・ザッパ」の名を使ってしまったことをかなり後年まで悔やんでいた[1](後の再発版では修正されている)。現在でも、「アルバムジャケットにそう書かれているから」という理由で彼の名を「フランシス」であると誤って主張する者は多い。
  • ザッパの音楽的ルーツは、現代音楽R&Bの二本柱であると言ってよい。彼がエドガー・ヴァレーズの作品集を初めて購入し舐めるように聴いていたのは14歳のころであり、同時期にイゴール・ストラヴィンスキーアントン・ウェーベルンのレコードもよく聴いていた。それらと並行して、膨大な量のR&Bのレコードを聴き漁っていたことを自伝で記している。
  • 手元に何の楽器も持たず、空港でも五線紙を持って作曲を続けた(チャド・ワッカーマン談)ほどの作曲の鬼であった。
  • 1971年12月モントルーカジノでライブを行っていた際、観客の一人が会場の天井に向けてフレア・ガンを発射して火災事故が起こり、ザッパとマザーズはその機材すべてを失った。レマン湖の対岸でそれを目撃していたディープ・パープルの、代表曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター」にこのエピソードが引用されている。(ディープ・パープルは、そのカジノでアルバムをレコーディングする予定だった。その数時間前にザッパ&マザーズがライヴをするので、パープルのメンバー[2]が(同じワーナー・ブラザーズ・レコード所属という事もあって)特別席で観る事が出来た。ショウが始まって1時間過ぎた頃に「いかれた野郎」がフレア・ガンを天井に向かって発射。天井は竹で出来ていたので燃えやすかった。火事場は十数時間以上燃え続け、クロード・ノブス[3]の必死の尽力で負傷者は出なかったが、パープルはレコーディング場所を失なった。最終的にオフシーズンとなったグランド・ホテルを借り、ホテルから見えるレマン湖上に浮かぶカジノの燻ぶった煙をイアン・ギランロジャー・グローヴァーが見続けていて、イアン・ギランがノートに歌詞をまとめたのが真相である。)
  • 一般的には奇人というイメージが強いが、音楽に対する取り組みは厳格と言ってもいいほど極めて真面目である。古い作品をCD化する際にアナログマスターをそのままデジタル・マスタリングするミュージシャンが大半であった中、彼は過去の作品全てを自らリミックスリマスターした。さらには亡くなる直前の1993年に一部のアルバムのリマスタリングを行った。この1993年盤は本人が数あるマスターから最終的なOKを選んだ「承認マスター」と呼ばれ、1995年以降の再発CDではこのマスターが使用されている(1998年に一部オリジナルLPマスターに再度差し替えられたものがある)。それゆえにコアなマニアの中には、同一作品を「アナログ盤」、「オリジナルCD」、「1990年UMRKリミックスCD」、「1993年マスターCD」、「1998年マスターCD」の他、LPボックス「THE OLD MASTERS BOX」等、複数所有する者もいる。
  • 真面目が故に海賊盤に対して非常に批判的だった。1991年にはマニアの間で評判の高い海賊盤を8作品選び、同じタイトル、ジャケットデザインでライノ・エンタテインメントより"Beat the Boots"シリーズとして発売した。更に翌年"Beat the Boots II"も発売した(7作品)。
  • 最後のワールドツアーは1988年に行われたが、その際のレパートリーは数百曲であったという。同一ツアー中は、ほとんど同じ曲を演奏するミュージシャンが一般的だが、ザッパのツアーでは毎日演奏される曲が異なり、未発表曲も多かった。バンドメンバーはリハーサルに半年をかけ、その間のギャラも支払ったため、このツアーの収支は大赤字だったらしい。なお、このツアーはベースのスコット・チュニスと他のメンバーとの間の確執により、途中でキャンセルとなってしまった。このツアーの模様は『ブロードウェイ・ザ・ハードウェイ』『ザ・ベスト・バンド』『メイク・ア・ジャズ・ノイズ』などのアルバムで聞くことができる。
  • 生前の多作もさることながら、逝去後も毎年コンスタントに新譜がリリースされている珍しいミュージシャンでもある。彼の家の地下室には、未発表曲が収められた膨大な量のマスターテープがあると言われ、未亡人のゲイル・ザッパを中心とした遺族によって管理されている。
  • 親日家でもあった。生前には1976年に来日ツアーで4公演を行っただけであった。京都大学西部講堂での公演時に「雑派」という印章を贈られており、その後アルバムジャケットにもこの印章が使われた事がある。東京タワービル2階にある観光名所の蝋人形館には、等身大のフランク・ザッパの蝋人形が展示されている。特設の売店には、CDから書籍まで揃っているという充実ぶりである。『シーク・ヤブーティ』収録のDancing Foolのアウトロには日本語で「キニシナーイ」というコーラスが入っている。
  • 生前、「宇宙には普遍的なものが2つある。水素と愚かさである」という言葉を残していた(出典:マーフィーの法則)。
  • ザッパは、政治宗教・社会構成などに対してユニークな思想と主義を持っており、それらの事柄に関して独自の意見を述べることでも有名であった。彼は資本主義ビジネスの自由競争の強い支持者であった一方で、現存の教育制度と組織化された宗教または宗教団体を痛烈に批判した。しかし、ザッパの政治的な活動で最も知られるのは、言論の自由を守ることの重要さを大々的に訴え、検閲に反対する姿勢を貫いたことであろう。1985年8月、アメリカ上院議会に於いて行われた、PMRC(Parents Music Resource Center 、後にアメリカ合衆国副大統領になるアル・ゴア夫人のティッパー・ゴアを中心につくられた検閲委員会で、性表現や暴力・ドラッグを美化したような描写の強いレコード・CDに"Parental Advisory: Explicit Lyrics"の表示をするよう、アメリカ国内のレコード会社に要請したことで知られる)の意見公聴会にザッパは反対側の参考人として招かれ、委員の前で導入前の制度を批判した(なお、同公聴会には、フォーク・ミュージシャンのジョン・デンバーと、ヘヴィメタル・バンド、トゥイステッド・シスターヴォーカリストであるディー・スナイダーも招かれ、意見を述べた)。のちにザッパは、この公聴会のやり取りの音声記録をサンプリングした"Porn Wars (ポルノの戦争)" という曲を書いている(1985年発表のアルバム『ミーツ・ザ・マザーズ・オブ・プリヴェンション』に収録。このアルバムのジャケットは、"Parental Advisory: Explicit Lyrics"ステッカーのパロディーになっている)。
  • テレビ番組で特別番組を制作し、ウォーレン・ククルロ(デュラン・デュランにも在籍していた)の家に突然押しかけてホームパーティーを中継するという企画をやってのけた事がある。
  • ジミ・ヘンドリクスがステージ上で燃やしたフェンダー・ストラトキャスターを所有している。ネックが折られていた為新しい物に交換され、各部のパーツが交換されていたが、焼け焦げた跡が生々しく残っている。生前エイドリアン・ブリューがレコーディングで借りた他、子息のドゥイージル・ザッパが使用していた。
  • アルバム「レザー」は、レコーディング自体は1970年代に済ませており、あとはリリースするだけという段階にあったのだが、レコード会社側の一方的な要求に憤りを感じたフランクが、リリース寸前にこのアルバムに収録した曲を全曲ラジオで放送するという強硬策に打って出た。「レザー」収録予定曲を契約上の都合でバラバラのアルバムとして発表した「スタジオ・タン」「スリープ・ダート」「オーケストラル・フェイヴァリッツ」の三作や、「ザッパ・イン・ニューヨーク」「シーク・ヤブーティ」「ジョーのガレージ」など、収録予定曲の含まれたアルバムは発売されたものの、1996年にCD化されるまでは長らくお蔵入りとなっていた。90年代のCD化にあたって当該三作の大胆なアレンジが行われた(インストゥルメンタルにヴォーカルがオーヴァーダブされるなど)のは、「レザー」発売のための布石であったと思われる。なお、「レザー」収録曲の中で既発の曲はすべてヴァージョン違いである。
  • アルバムタイトルといい、楽曲といい、マヌケな邦題がしばしば付けられていた。直訳した物もあれば、適当な物など多種多様である。アルバム「たどり着くのが遅すぎて溺れる魔女を救えなかった舟」は当初「フランク・ザッパの〇△口」、「ユートピアから来た男」は「ハエ・ハエ・カ・カ・カ・ザッパ・パ!」、オフィシャル・ブートレッグである「ビート・ザ・ブーツ」シリーズに至っては「雑派大魔神~」(~の後にはライヴ収録の地名と「激憤」「憤慨」「激昂」など怒り繋がりの熟語が続き、しかも帯の応募券を使った懸賞企画では『大魔神』のヴィデオをプレゼントするというオマケがついた)という悲惨な邦題が付けられていた。曲名においては(括弧内は原題)、「まっすぐ突っ込め(Shove It Right In)」「口の中にはもうやらないよ(I Promise Not to Come In Your Mouth)」「豚空(とんくう)(Hog Heaven)」「拷問は果てしなく(The Torture Never Stops)」「突っ込め拳骨(Beat It With Your Fist)」「ハニー、俺みたいな男はどうだ?(Honey, Don't You Want a Man Like Me?)」「舟だがや(Ship Ahoy)」「おっぱい印のビール(Titties n' Beer)」「鼻クソマン(The Booger Man)」「娘17売春盛り(Teen-Age Prostitute)」)」「致命的突起物がついてる女(The Girl in the Magnesium Dress)」「ゲロの王者(Spew King )」「まるであてにならないバカヤロども(Treacherous Cretins)」「自分たちのことを、マジに考えてみようか(Shall We Take Ourselves Seriously?)」「なんでションベンすると痛いんだろう(Why Does It Hurt When I Pee?)」「アレを洗ったことがないのかよ?(Don't You Ever Wash That Thing?)」「俺の髭の臭いをかいでみな(Smell My Beard)」「懐かしの名文句を、たっぷりと(Wistful Wit a Fist-Full)」「昔はいい子だったのに(He Used to Cut the Grass)」「芸術における海軍飛行(Naval Aviation in Art?)」「絶望のクソッタレ(Broken Hearts for Assholes)」「生きたボツリヌス菌(Botulism on the Hoof)」「イリノイの浣腸強盗(The Illinois Enema Bandit)」「ギターと予算不足のオーケストラのために改訂された音楽(Revised Music for Guitar and Low-Budget Orchestra)」等、直訳意訳超訳を問わず、実に愉快でややもすると悪ノリに満ちた邦題が目白押しである。
  • 晩年は前立腺癌との闘病生活を送っていた。

[編集] ディスコグラフィ

詳細は「フランク・ザッパの作品」を参照


[編集] Beat the Bootsシリーズ (Official Bootleg)

[編集] Beat the Boots

  • As an Am (雑派大魔神ボストンで立腹)  (1991年)
  • The Ark  (雑派大魔神ニューヨークで憤激)  (1991年)
  • Freaks & Mother*#@%! (雑派大魔神フィルモアで逆襲)  (1991年)
  • Unmitigated Audacity (雑派大魔神ノートルダムで激怒)  (1991年)
  • Any Way the Wind Blows (雑派大魔神パリで逆鱗)  (1991年)
  • 'Tis the Season to Be Jelly (雑派大魔神スウェーデンで逆上)  (1991年)
  • Saarbrücken 1978 (雑派大魔神ザールブュッケンで激昂)  (1991年)
  • Piquantique (雑派大魔神ストックホルムで激憤+シドニーで憤慨)  (1991年)

[編集] Beat the Boots II

[編集] 脚注

  1. ^ ザッパ, フランク; オチオグロッソ, ピーター (2004). 『フランク・ザッパ自伝』. 河出書房新社, p. 320. ISBN 4-309-26719-X. 
  2. ^ ロジャー・グローヴァージョン・ロードはザッパを大変尊敬していた。又イアン・ギランはかつてミュージック・ライフ誌のインタビューで「一番好きなミュージシャンはフランク・ザッパ。毎日欠かさず聞いている」と答えた。
  3. ^ モントルー・ジャズ・フェスティバルの創始者。ワーナー・ブラザーズの連絡係りも務めていた。

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ


最終更新 2009年11月29日 (日) 16:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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