フランコ・バレージ

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フランコ・バレージ
名前
本名 フランチェスキーノ・バレージ
愛称 ピッシニーン
ラテン文字 Franco BARESI
基本情報
国籍 イタリア
生年月日 1960年5月8日(49歳)
出身地 トラヴァリアートブレシア県
身長 176cm
体重 70kg
選手情報
ポジション DF(CB)
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ App (G)
1977-1997 ACミラン 532(16)
代表歴
1982-94 イタリア 81(1)
1. 国内リーグ戦に限る。現在。
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

フランコ・バレージFrancheschino "Franco" Baresi1960年5月8日 - )は、イタリアの元サッカー選手

イタリアカルチョ界を代表する名ディフェンダーとして、1980年代から90年代にかけて活躍。その現役生活のすべてをACミランに捧げた。ACミランで長年彼が背負った背番号「6」は、引退後クラブの永久欠番となっている。

2007年現在は同クラブのヴェレッティ(19歳以下のユースチーム)で後進の指導にあたっている。

実兄のジュゼッペ・バレージ(Giuseppe Baresi)も元インテル所属、家族は妻と長男の他に、養子が一人いる。元イタリア代表のサッカー選手。

目次

[編集] 経歴

1960年5月8日イタリアロンバルディア州ブレシア県トラヴァリアートに生まれる。

1974年、セリエAの下部組織への入団を希望し各クラブのテストを受けるが、最初に受験したアタランタBCは当時164cmで華奢だった彼を不合格とした。次に実兄ジュゼッペが所属していたインテルを受けるが、再び身体が小さいという理由で不合格。そこをACミランの関係者に誘われ、ミランのプリマヴェーラに入団する。高いディフェンス能力を買われてということもあったが、当時のACミランに若いディフェンダーが不足していたという事情もあったという。これで念願叶ったと思った矢先、同年に父が交通事故により急死する悲運に見舞われる。幼少時に母を亡くしていたバレージは14歳の若さで両親を失った。

1978年、下部チームで実力を増したバレージはトップチームに昇格。同年4月23日に対エラス・ヴェローナ戦でプロデビューを飾る。

1979年、2年目にしてレギュラーポジションを奪取しリーグ戦30試合に出場。期待の若手として注目を集め、当時の主将でありこのシーズン限りで現役を退いたジャンニ・リベラと共にリーグ優勝に貢献した。リベラ引退後バレージは一躍クラブの主役となったが、翌1980年、大規模な不法賭博スキャンダルが発覚し、事件に関与したとされたACミランはSSラツィオと共にセリエBへの降格処分となった。

思わぬ形で2部リーグでのプレーを余儀なくされたが、1981年に1シーズンで這い上がる。しかし、スキャンダルの余波で有力選手が次々と移籍。クラブ自体の人気も落ち、収益も減収した。またこのシーズンはさらに追い討ちをかけるように、バレージ本人もウイルス性疾患を患い数ヶ月戦列を離れた。これによりミランは14位でシーズンを終え、処分ではなく、実力不足によるセリエB降格となった。オフシーズン、バレージの元に複数のクラブから魅力的な移籍話が届くが、その一切を断りミランに残留。この決断によりバレージはミラノのファンの心を掴んだ。

1982年W杯スペイン大会の代表メンバー(背番号2)に選ばれ優勝を経験するが、自身の出場機会はなかった。

1983年にミランはセリエAに復帰したが、トップグループに一歩及ばない成績が続き人気も下降。当時のインタビューによれば、選手たちへの給料配布も週給となり、経営難から支払いが止まることもあったという。

1986年、実業家シルヴィオ・ベルルスコーニがミランの会長に就任するとクラブの経営状況は一変。豊富な資金力で翌1987年に2人のオランダ人フォワード、ルート・フリットマルコ・ファン・バステンを獲得、さらに当時無名であったアリゴ・サッキを監督に就任させた。サッキ監督の提案するゾーンプレスに、独創的なパスサッカーを目指すイタリア選手は当初懐疑的であったが、バレージはサッキ戦術のキーマンとしてチームを牽引。マウロ・タソッティや当時若手だったパオロ・マルディーニアレッサンドロ・コスタクルタとともに強固なバックラインを形成した。このシーズン早くもチームは機能し、ディエゴ・マラドーナを擁したSSCナポリを押さえスクデットを獲得した。

1988年フランク・ライカールトを加えより厚みを増したミランは、主将バレージ率いる守備陣と「オランダトリオ」によって見事な機能美を見せ、圧倒的な強さでUEFAチャンピオンズカップを奪取。以降1990年代半ばまでの数年間、ACミランはリーグ優勝、チャンピオンズカップなど多くのタイトルを獲得する黄金期を築きあげ、バレージは不動のディフェンスリーダー、キャプテンとしてチームを纏め上げた。

イタリア代表としてもバレージはその能力を発揮し、1990年W杯イタリア大会では全7試合にフル出場し3位。1994年アメリカ大会は大会中に膝を痛め一時戦線離脱するもすぐに手術を行い、決勝の対ブラジル戦で復帰。病み上がりとは思えないパフォーマンスでブラジル攻撃陣を零封したが、PK戦でバレージ自身も失敗しチームは敗れ準優勝に終わった。バレージが代表キャリアを終えることになるのは、同大会決勝の次の試合となった欧州選手権・予選スロベニア戦においてである。この試合を最後にバレージは代表から退き、主将の座はパオロ・マルディーニが引き継ぐことになる。

1997年6月23日、自身の体力の衰えを理由に現役引退を発表。最後のシーズンは36歳というサッカー選手では高齢でありながらシーズン26試合に出場したが、クリスティアン・ヴィエリの突破を許すなど、体力の衰えは顕著となっていた。同一クラブにおける通算試合出場数「541」は、セリエA歴代3位の記録である(2008年11月現在。1位はパオロ・マルディーニ、2位はインテルのハヴィエル・サネッティ)。バレージは94-95シーズン限りで現役を引退する決意を固めていたが、周囲の説得でその後2年間現役を続行した。また、94-95シーズンの開幕戦では当時ジェノアに所属していた三浦知良がバレージとの競り合いで鼻骨を骨折する一幕があった。

引退後バレージはACミラン・プリマヴェーラ(20歳以下)のコーチとクラブの名誉副会長職に就任。またバレージの功績に敬意を表し、彼の代名詞ともなっていた背番号「6」は永久欠番とされた。 2006年からはACミラン・ヴェレッティ(19歳以下)のコーチを務めている。

[編集] プレースタイル 

冷静ながらも、内に計り知れない情熱をもったジョカトーレ。DFラインを統率しながら後方から味方を鼓舞しクラブ、はてはイタリア史上最高のキャプテンと称される。

身長176cmと体格や身体能力に恵まれている訳ではないが、駆け引きに長けており、間合いの取り方、ストライカーのスピードを殺すなどマークの仕方などが巧みであった。1対1にも強かったが、仲間を指揮して相手のボールの出所を封殺する。そのため、選手の調子で守備力が左右されないことから、彼の所属したチームは非常に安定した守備力を誇り、当時ACミランで提唱されたゾーンプレス・システムの要だった。年を重ねても瞬発力の衰えをまったく感じさせないプレーを引退まで続けていた。

94年の米W杯決勝では大会中に怪我をし、その怪我をおして舞台に立ったにもかかわらず、大会最強のツートップと言われていたブラジルのベベットとロマーリオを封殺した上に、機を見てオーバーラップをかけてブラジルゴールを狙うなど、戦略眼の優れた選手だった。

[編集] エピソード

キャリア晩年のバレージは偉大な選手として審判からも一目おかれる存在だった。サッカーではルール上、シャツの裾は常にパンツの中に入れる事を義務付けられており、時にそのルールを厳密に適用する審判もいた。だが、「もそもそするから嫌なんだ」という理由でそれを嫌うバレージだけは事実上黙認されていた。

現役生活の中で数々のタイトルを獲得したバレージだが、地味な「裏方」のイメージが強いディフェンダーであるが故か、唯一ヨーロッパ最優秀選手(バロンドール)だけは縁がなかった。そんなバレージの現役引退セレモニーの中で、バロンドールそっくりのレプリカトロフィーが贈られた。これは、チームオーナーにしてバレージの一番のファンであったベルルスコーニ会長がバレージに対する最大級の敬意と感謝を込めた、粋な計らいであった。バレージはそのレプリカトロフィーを観客席のスタンディング・オベーションに包まれながら掲げて見せ、多くのファンに感謝の意を現した。

1982年のスペインワールドカップのメンバーに選ばれるなど、早くから代表に呼ばれていたが、同じポジションに当時、世界最高のリベロと言われたガエタノ・シレアがいた為、代表キャップ数は代表で活動していた期間に比べ少な目である。

[編集] 獲得タイトル

[編集] クラブ

[編集] 代表

最終更新 2009年10月22日 (木) 08:27 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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