フランシスコ・フランコ
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| フランシスコ・フランコ Francisco Franco |
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| 任期: | 1939年4月1日 – 1975年11月20日 |
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| 任期: | 1938年1月30日 – 1973年6月8日 |
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| 出生: | 1892年12月4日 ガリシア州ラ・コルーニャ県フェロル |
| 死去: | 1975年11月20日(満82歳没) マドリード |
| 政党: | ファランヘ党 |
| 配偶: | カルメン・ポロ |
フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデ(Francisco Franco y Bahamonde、1892年12月4日 - 1975年11月20日)は、スペインの軍人、政治家、独裁者(総統)。
一般には、フランシスコ・フランコ(Francisco Franco、IPA: [fɾan'θisko 'fɾaŋko])と呼ばれる。フルネームはフランシスコ・パウリーノ・エルメネヒルド・テオードゥロ・フランコ・イ・バアモンデ・サルガード・イ・パルド・デ・アンドラーデ(Francisco Paulino Hermenegildo Teódulo Franco y Bahamonde, Salgado y Pardo de Andrade)。敬称として「カウディーリョ・デ・エスパーニャ」(Caudillo de España)と呼ばれる。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 軍人フランコ
フランコは、スペイン北西部ガリシア地方のフェロルに軍人の子として生まれた。トレドの陸軍士官学校を卒業して18歳で少尉となった。20歳の時、頑強な独立運動が展開されていたスペインの植民地モロッコに派遣され、この地で以後5年間、ベルベル人の独立を求める反乱の鎮圧に当たった。フランコは現地のアフリカ人部隊を指揮して反乱軍と戦い、その功績で陸軍少佐に昇進した。帰国後は、サラゴサの陸軍士官学校の校長を務めた。
1931年、スペインではボルボーン(ブルボン)王朝が倒されて第二共和政が成立し、王族は国外へと追放された。フランコは、共和政府からラ・コルーニャとバレアレス諸島の軍政官に任じられ、その間に陸軍少将に昇進した。1934年10月、右翼の内閣が成立し、左翼政党がこれに抗議してゼネラル・ストライキを呼びかけると、フランコはアストゥリアス地方でゼネストに決起した鉱山労働者を武力で鎮圧した。この功績により翌1935年、陸軍参謀総長に任命された。
[編集] スペイン内戦と総統就任
以前は「スペイン内乱」と呼ばれていたが、政権が転覆している事や反乱軍を支持した派閥も多いことから、現在では「スペイン内戦」の呼称がより一般的である。
1936年2月の総選挙で、左翼勢力を中心とする人民戦線内閣が誕生すると、フランコは参謀総長を解任され、カナリア諸島総督に左遷された。人民戦線政府は社会主義的理念に基づく改革を実行、教会財産を没収し、ブルジョワを弾圧した。これは農民層に支持されたが、地主・資本家・カトリック教会などの保守勢力とは対立した。
同年7月にスペイン領モロッコと本土で軍隊が反乱を起こすと、フランコはモロッコに飛んで反乱軍を指揮し、本土に侵攻した。保守勢力が反乱軍を支援したため、この反乱はスペインを二分する大規模な内戦に発展した。
反乱軍は、当初はエミリオ・モーラ・ビダル将軍が指導者であった。しかし、トレド陥落など戦功めざましいフランコはモーラに取って代わり、1936年10月1日ブルゴスにおいて、反乱軍(国民戦線軍と称した)の総司令官に指名され、国家元首に就任した。その際フランコは、軍総司令官として総帥(Generalísimo ヘネラリッシモ)、国家元首として総統(Caudillo カウディーリョ)の称号を用いた。また、フランコは総統就任以来、仮政府としてブルゴスに「国家行政委員会」を設置していたが、1938年1月30日にこれを改組して正式に内閣制度を導入、フランコは国家元首兼首相となった。
その後、フランコはドイツやイタリア軍の支援を受けて人民戦線政府勢力と戦った。反乱は陸軍主体で行なわれたため、モロッコ軍を本土に送れず、ドイツの輸送機が活躍した。人民戦線政府は内部に共和主義者、共産主義者、無政府主義者を抱えていたため、統一性に欠けた。フランスが人民戦線を支援するも国内の反発で即座に中止、また人民戦線はソ連や国際旅団(各国の義勇兵)の支援を受けるも、劣勢は覆せなかった。
最終的にフランコ政権軍は1939年3月27日にマドリードを陥落させて人民戦線政府を倒し、31日にはスペイン全土を制圧、4月1日にフランコ総統は内戦終結宣言を発した。これにより数十年にわたるスペインの混乱は一応の終息を迎えたが、内戦による国土の荒廃は著しかった。フランコは統一されたスペインの国家元首(総統)となり、同年8月8日に公布された「国家元首法」によって緊急立法権が付与され、強大な権限を持って国家の再建に取り組むこととなる。
[編集] 中立を維持
スペイン内戦終結直前の1939年3月27日、フランコは日独伊防共協定に加入したが、同年9月に第二次世界大戦が勃発すると、フランコは国家が内戦により荒廃したために国力が参戦に耐えられないと判断して中立を宣言した。しかし、アントニオ・サラザール率いる隣国のポルトガルと同様、緒戦におけるドイツ及びイタリアなどの枢軸国の優勢を見て枢軸国側に近づく。
ドイツがフランス全土を占領し、連合国がヨーロッパ大陸から追い出された直後の1940年10月には、スペイン内戦時代からの盟友であるナチスの指導者でドイツ総統のアドルフ・ヒトラーと、当時はドイツの傀儡政権であるヴィシー政府が統治していたフランスとスペインとの国境のアンダイで会談し、その蜜月関係を世界中に対し誇示した。
ただし、この時ヒトラーが要求したイギリス領ジブラルタル攻略作戦(フェリックス作戦)のための地上ルート提供や、スペインの大戦への参加は「莫大な戦略物資の不足」を理由に頑として認めていない。このため、ヒトラーはドイツの勝利を期待しないかのようなフランコの態度に不快を隠さなかったとも言われる。
1941年に、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後、アメリカの植民地だったフィリピンに日本軍が進攻し、ホセ・ラウレル政権が樹立すると、フランコ政権はラウレル大統領に祝電を送り、アメリカの怒りを買った。
しかし、1943年頃より連合国が優勢になると、再び中立を誇示するという日和見な姿勢に終始した。フランコは持論として、『欧州の戦いは米英対独の戦争であり、スペインは中立を維持する。太平洋の戦いは西欧文明国対野蛮国日本の戦いであり、スペインはアメリカ(連合国)寄りの政策を執る』という考えをアメリカの駐スペイン特命全権大使に語っている(この発言に見られるように、フランコも日本を含む有色人種に対して人種的偏見が少なからずあったと思われる)。
その反面、当時の列強の中でフランコ政権を一番早く承認したのは日本であり、他の日本の同盟諸国もそれにならった。フランコ政権が満洲国を承認したのはその見返りであるとされている。この巧みな外交により、結果としてスペインは第二次世界大戦の戦禍を完全に免れた。
[編集] 独裁者フランコ
フランコ政権は、彼が内乱中に組織したファランヘ党の一党独裁の政権であり、その成立時からドイツとイタリアの支援を受け、軍隊とグアルディア・シビルによる厳しい支配を行った。そのため、第二次世界大戦終結後に成立した国際連合は、1946年12月の国連総会で、ファシズムの影響下にあるスペインを国連から排除する決議を採択した。
しかし、第二次世界大戦後の東西冷戦の激化により、西側諸国は反共産主義という共通点と、スペインが地中海の入り口という地政学的にも戦略的にも重要な位置にあるという理由で、スペインとの関係の修復を模索し始めた。
1953年9月に、アメリカはスペインと米西防衛協定を締結した。この協定によるアメリカの軍事援助と、国際的孤立から抜け出したことによる観光収入の増大で、スペインの国際収支は黒字に転じ、遅れていた主要産業も発展し始めた。こうして、スペイン史上初めて中産階級と呼べる層が出現した。フランコは、中産階級をバックに高まる自由主義運動を厳しく抑圧する一方、亡命者のメキシコやスイスなどからの帰国を認めた(1958年)。
また、1959年12月にはアメリカ合衆国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会見する。第二次世界大戦時には「中立国の指導者」という立場ながら一貫して親ドイツの立場を保っていたフランコと、そのドイツを敵に連合国軍の司令官として戦っていたアイゼンハワーの会見は、序盤こそぎこちなかったものの、お互い軍人出身という出自や、上記のようなアメリカ側の事情もあり、最終的には2人とも打ち解け、別れの際に抱擁をかわした程だった。これにより、アメリカとの関係は飛躍的に改善される。
その後、任命制の議員の一部を選挙制に切り替えるなど(1966年)、冷戦の影響下、左右に揺れ動くスペイン国内の社会不安の緩和に努めた。
[編集] スペイン王国の復活と後継者指名
フランコは政権のあり方について、最終的には王制に移行するべきだと考えていた。これは、フランコ政権が「個人的独裁制」なので、フランコ没後、政権の枠組みをそのままの形で継承することはあり得ないからである。議会制民主主義はこの当時のスペインでは失敗を続けてきたので採用はできず、王制が最良だとしたのである[1]。ただし、新王朝を開くのかボルボーン王朝による王政復古とするのかはフランコも決めかねていた。
1947年、フランコ総統は「王位継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが国家元首として「王国」の終身の「摂政」となること、フランコに後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。この「王位継承法」は7月16日の国民投票で成立し、フランコは終身国家元首の地位を得た。
70歳を越え健康状態が悪化すると、フランコの後継者問題が表面化した。フランコは、前国王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスを1969年に後継者に指名し、長い闘病生活の後、1975年に83歳で没した。
[編集] フランコ没後のスペイン
ヨーロッパにおいてドイツとイタリアのファシズム政権と同盟関係を結び、自らも国内にファシズム体制を築き上げた独裁者フランコは、ドイツとイタリアのファシズムが崩壊した後も、実に30年間にわたってその独裁体制を維持し続けた。フランコの支持基盤であった陸軍内部には王の帰還を求める声も強く、自身の没後は王族を擁き政治の実権は腹心のルイス・カレロ・ブランコに与えようとした。しかし、1973年にETAのテロでブランコが死ぬと、この計画は頓挫した。
1975年にフランコが死ぬと、フランコの遺言どおりにスペインにボルボーン王朝が復活した。フアン・カルロス1世は、即位前にフランコの指示で帝王学の教育を受けていたこともあり、そのまま独裁体制を取るかと思われた。しかし即位後は、一転してフランコの独裁政治を受け継がずに政治の民主化を推し進め、急速に西欧型の議会制民主主義および立憲君主制国家への転換を図る。
その後スペインは、国民からの圧倒的な支持を受けた国王の後援もあり、1977年に総選挙を実施し、1978年に議会が新憲法を承認。正式に民主主義体制へ移行した。この様な議会制民主主義及び立憲君主制への速やかな移行は、その順調さから「スペインの奇跡」と呼ばれた。
また、1981年2月23日に発生した軍部右派のアントニオ・テヘーロ中佐によるクーデター未遂事件「23-F」では、国王独裁の復活を求める軍部右派勢力により議会が占拠され、内閣閣僚と議員350人が人質に取られたが、国王は軍部右派勢力の呼びかけを拒否して民主制の維持を図った。また、陸軍反乱部隊やテヘーロらも国王の呼びかけに応じて投降したため、国民から国王への信頼は不動のものとなった。
2007年10月31日、スペイン下院議会はスペイン内戦とフランコ政権下の犠牲者の名誉回復、公の場でのフランコ崇拝の禁止などを盛り込んだ「La Ley por la que se reconocen y amplían derechos y se establecen medidas en favor de quienes padecieron persecución o violencia durante la Guerra Civil y la Dictadura(内乱と独裁期に迫害と暴力を受けた人々のための権利承認と措置を定めた法)」通称「Ley de Memoria Histórica(歴史の記憶法)」を与党社会労働党などの賛成多数で可決(Historical Memory Bill)。同年、上院でも可決成立した。2008年より、「歴史の記憶法」に基づき、バルタサル・ガルソン判事は内戦被害者調査に着手した。
なお、スペインには数多くのフランコ像があったが、2008年12月、サンタンデール市の広場の7メートルのブロンズ像(1964年建立)を最後に、本土からすべて撤去された[2]。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
- スペイン内戦
- アーネスト・ヘミングウェイ
- フアン・カルロス1世 (スペイン王)
- ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ
- フアン・ペロン
- アドルフ・ヒトラー
- ベニート・ムッソリーニ
- 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年10月23日 (金) 09:01 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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