フランシスコ会

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フランシスコ会(ふらんしすこかい)は、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会修道会の総称で、広義には第1会(男子修道会)、第2会(女子修道会)、第3会(在俗会)を含む。

また、狭義には第1会に当たる3つの会の事で、特にその中の主流派である改革派フランシスコ会のみを指す事もある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM)の名で知られる。聖公会でもフランシスコ会が組織されている。 染色を施さない修道服をまとった。

アッシジのフランチェスコ
生前にフランチェスコを描いたといわれる肖像

目次

[編集] 歴史

[編集] 教会改革と清貧運動

アッシジはイタリア中部ウンブリア地方の古市。フランチェスコは1206年サン・ダミアーノ教会の十字架から「早く行って私の壊れかけた家を建て直しなさい。」との声を聞き、まず教会の修復からはじめる。次第に互いに兄弟と呼ぶ同志が増え、「小さき兄弟の修道会」(Ordo fraterorum minororum)と名乗る。1215年にはキアラ(日本ではクララとして知られる)を中心に第2修道会(女子修道会)がたった。1221年には在俗の「償いの兄弟姉妹の会」(第3会、略称OFS)が承認された。

[編集] 修道会組織の形成と発展

1209年に「小さき兄弟の修道会」設立についてインノケンティウス3世より承認を受けた。この時の簡単な会則は「原始会則」と呼ばれるが、急速に発展する修道会内部の問題に対処するにはあまりに簡潔に過ぎたため、1221年には会則の改訂が行われた。しかしこの会則は教皇の認可を得ることができなかったため、新たにフゴリノ枢機卿(のちのグレゴリウス9世)などの協力を得て、教会法の規定をよく取り入れた会則を制定し1224年に認可された。

当初のフランシスコ修道会の組織は、終身の総長の下に全会員に対する責任と権限を持つ中央集権的なものであったが、第3代総長エリア・ボンバローネの時代に強権的な彼の修道会運営に反対運動が起こり、1239年の総会議からは各地の管区に大幅な裁量を認める地方分権的な組織体制が取られるようになった。この運動で指導的役割を演じたのが、ファバーシャムのハイモで、のちに第5代総長となった人物であるが、彼はこの地方分権体制をドミニコ会に倣ったという。

[編集] 修道会の聖職化

設立当初のフランシスコ会は修道士の割合が非常に多く、司祭や神学者などの教導職にある者はほんのわずかであった。しかしフランシスコ会は当初より説教活動を活動の中心に据えており、また当時の異端思想との対決の必要性から神学的知識が必要とされた。教皇庁もドミニコ会とともに異端撲滅への寄与をフランシスコ会に期待しており、ドミニコ会では当初から聖書研究や神学教育が盛んで、フランシスコ会もこの影響を受けた。1239年から第4代総長にあったピサのアルベルトは司祭である初めての総長であった。

聖ボナヴェントゥラ
フランシスコ学派を代表する神学者。第7代総長

ファバーシャムのハイモが総長となると、学問研究にますます力が入れられるようになり、各地の管区で研究機関や学校も徐々に整備されていった。しかし本来的な清貧運動を重視する原理主義的な会員の間からは、このような傾向に対する不満の声も上がり、これら少数派は後述する修道会内の異端運動を起こすようになる。

1235年パリ大学の教授であったヘールズのアレキサンダーがフランシスコ会に入会し、彼はのちにスコラ哲学の一潮流となるフランシスコ学派の祖となった。彼の下ではドミニコ会のトマス・アクィナスとフランシスコ会のボナヴェントゥラという著名な神学者が学んだが、後者のボナヴェントゥラはプラトン主義に基づいて範型論と照明論を唱え、アリストテレス主義に立脚する前者のトマス学派と二大潮流を築いた[1]。ボナヴェントゥラ以後では、ドゥンス・スコトゥスオッカムのウィリアムがこの学派の著名な神学者である。

さて13世紀中葉までに歴代教皇の恩顧によって、フランシスコ会は司牧活動における諸々の特典を認められており、それが各地の司教の反発を呼んでいたが、1279年に教皇ニコラウス3世が「エクジイト・クィ・セミナート」でフランシスコ会の司牧特典を擁護すると、これを巡って激しい論争が起こった。これが問題とされたのは、この時期の貨幣経済の進展によって司教たちが秘蹟の授与など司牧活動に収入源を大きく依存するようになったことと、フランシスコ会への特典がすべて教皇の恩顧によるもので、教会法上に規定されたもので無かったことにあった。1300年ボニファティウス8世は教勅「スーペル・カテドラム」を出してこの問題を決着させようとし、聴罪や葬儀に関わる限定的な一部の規定以外の特典を廃止する決定を下した。これに対するフランシスコ会側の反発は大きく、1304年に撤回されたが、クレメンス5世の時代に教会法へ取り入れられた。

[編集] 修道会内の異端運動、スピリトゥアル主義

1241年ないし1243年にフィオーレの司教が皇帝フリードリヒ2世に圧迫されて、ピサのフランシスコ会修道院に逃れてきたとき、フィオーレのヨアキムの著作を持ち込んだと言われている。ここからヨアキム主義がフランシスコ会修道士の一部に蔓延するようになったらしい。1255年にフランシスコ会士ボルゴ・サン・ドンニーノのゼラルドによってヨアキム主義的な『永遠の福音入門』が出版された。教皇アレクサンデル4世によってヨアキム主義が公式に断罪されると、第6代総長パルマのヨハネはヨアキム主義に好意的であったことから断罪され、ボナヴェントゥラが総長となった。

13世紀後半に北イタリアと、特に南フランスで、このヨアキム主義の影響を受けたフランシスコ会の少数派が清貧の厳格な実践を唱えるようになった。これをスピリトゥアル主義と呼ぶ。北イタリアのスピリトゥアル派は1280年以降フランシスコ会内部で弾圧されたが、のちに許されて教皇ケレスティヌス5世によって「教皇ケレスティヌスの貧しき隠遁者」として分離したものの、ボニファティウス8世により弾劾された。北イタリアのスピリトゥアル派は指導者アンゼロ・クラレーノの名前から「クラレーニ」と呼ばれ、のちにオブセルヴァンテス改革派に合流した。南フランスのスピリトゥアル派はクレメンス5世の好意的な態度によって、他の会員たちとは異なった生活を続けていたが、1317年にヨハネス22世により弾劾されると、フランシスコ会主流派のみならず教会に対しても公然と反抗するようになった。教会とフランシスコ会はこれに監禁や火刑で応え、さらに彼らの修道院を破壊するなど弾圧を加え、反抗は1354年になって終息した。

[編集] コンヴェントゥアル主義とオブセルヴァンテス改革運動

1378年から1417年にかけてのいわゆる「教会大分裂」の時代には、フランシスコ会もそれぞれの教皇を支持して分立する状態となった。教会大分裂がおこったときの総長はレオナルド・ロッであったが、アビニョンの教皇クレメンス7世を支持したために、ローマの教皇ウルバヌス6世はルドヴィゴ・ドナティを総長代理とした。1409年にピサで公会議派の教皇アレクサンデル5世が選出されると、当時のローマ派の総長アントニオ・ヴィニティはピサ派に同調し、ローマは別の総長を立て、フランシスコ会も三分した。分立した各教皇は自派にフランシスコ会を引き込むため、さまざまな恩典を付与したために、フランシスコ会内部の腐敗が進み、清貧は弛緩した。それぞれの総長も自己の基盤を確実にするためにこれに乗じてさまざまな特典を会士たちに与えたので、規律の乱れはますます増長された。

14世紀後半からこのような修道会内部の腐敗に厳しい批判を向け、会則を厳格に守ろうとする運動が起こった。彼らの標語「会則の正規の遵守(レグラーリス・オブセルヴァンチア、Regularis observantia)」から、このような改革派をオブセルヴァンテス派といい、対する保守派を改革派に対してコンヴェントゥアル派[2]という。コンヴェントゥアルとは、「Convent」(共住・修道院)という意味合いに由来されるもので、当時、都会の修道院や修道院に定住する会員を指した。1517年に保守派と改革派は正式に分割され、それぞれ「コンベンツァル聖フランシスコ修道会」と「オブセルヴァンテス小さき兄弟会」(改革派フランシスコ会)となった。その後1525年には後者からマテオ・ダ・バッシによる「カプチン小さき兄弟会」が分かれたが、当初はコンベントゥアル小さき兄弟会の庇護の元にあった。

[編集] 宣教

フランシスコ会は設立間もない頃から、東方宣教に力をいれ、すでにフランチェスコ在世時にエジプト等で活動する修道士がいたことが知られる。東方教会の根拠地である旧オスマン帝国領内などにあるカトリック教会は、多くフランシスコ会によってその運営を支えられている。エルサレムの聖墳墓教会、ベツレヘムの生誕教会などはその好例である。

[編集] 日本への宣教

[編集] 現在

[編集] 日本での活動

16世紀のキリスト教伝来初期、フランシスコ会はすでに日本人の修道者会員、在世会員を獲得していた。1862年、これらの殉教者の一部が聖者に列せられた。また、2004年新潟教区長を引退し、2005年1月に死去したフランシスコ・佐藤敬一司教は、フランシスコ会の出身だった。

また、聖書研究所ではカトリックの公認日本語訳聖書であるフランシスコ会訳聖書を作成している。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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  1. ^ ジャン・ピエール・トレル『カトリック神学入門』によれば、ボナヴェントゥラをアウグスティヌス主義、トマス・アクィナスをアリストテレス主義と一面的に断じるのは適切ではなく、また両者の思想がそれぞれの学派を代表したというのも微妙に事実と異なる。
  2. ^ あるいは改革派に対して「緩和派」ともいう。

[編集] 参考文献

執筆に当たっては以下の諸文献を参照している。

  • 川下勝著『フランシスカニズムの流れ』聖母文庫、聖母の騎士社 1988年。
  • M・D・ノウルズほか著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史4 中世キリスト教の発展』講談社、1991年。
  • C・S・クリフトン著、田中雅志訳『異端辞典』三交社、1998年。
  • ジャン・ピエール・トレル著、渡邉義愛訳『カトリック神学入門』白水社、1998年。

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月20日 (金) 23:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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