フランツ・フォン・パーペン
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| フランツ・フォン・パーペン Franz von Papen |
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| 任期: | 1932年6月1日 – 1932年12月3日 |
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| 出生: | 1879年10月29日 |
| 死去: | 1969年5月2日 |
| 政党: | なし(中央党を離党) |
| 配偶: | マルタ・フォン・ボッホ=ガルハウ |
| フランツ・フォン・パーペン | |
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| 所属組織 | 帝政ドイツ陸軍 オスマン・トルコ陸軍 |
| 軍歴 | 1900~1919 |
| 最終階級 | 陸軍中佐 |
| 部隊 | オスマン・トルコ第4軍 |
| 戦闘 | 第一次世界大戦 |
| 賞罰 | 騎士鉄十字章 |
| 除隊後 | 政治家 |
フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペン( 音声 Franz Joseph Hermann Michael Maria von Papen, Erbsälzer zu Werl und Neuwerk、1879年10月29日 - 1969年5月2日)は、ドイツの軍人、政治家、外交官。ヴァイマル共和政末期に首相を務めた。ヒトラー内閣で副首相。ニュルンベルク裁判で主要戦争犯罪人として起訴されたが、無罪とされた。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 軍人
ヴェストファーレンヴェルルに、製塩業で富をなしたErbsälzerと呼ばれる名家に生まれる。両親の希望で陸軍幼年学校に入学し、軍人への道を進む。ドイツ皇帝の側近くに仕えたのち、第5槍騎兵連隊付きを経て参謀本部に入り、1913年に大尉に昇進。そこでクルト・フォン・シュライヒャーと知り合う。当時パーペンは巧みな馬術で名声を得ていた。1905年に製陶業で有名なビレロイ&ボッホ社の創業家の娘と結婚して工場の一つを相続し(現存)、一女をもうける。
皇帝ヴィルヘルム2世の学友だった父のコネもあり、第一次世界大戦中の1915年までアメリカ大使館付き武官。フランクリン・ルーズベルトやダグラス・マッカーサーといった、後年のアメリカ合衆国指導者の知遇を得た。武官としてアメリカ国内でさまざまな諜報活動に従事し、また兼轄国であるメキシコをドイツ寄りにすることに努めた。結局1916年に国外退去を命じられドイツに帰国する(翌年アメリカはドイツに宣戦)。帰国の際不用意に別送した荷物がイギリス海軍の臨検を受け、パーペンがアメリカ国内に構築したドイツの諜報網が暴露された。
ドイツ帰国後に皇帝から鉄十字章を授与され、西部戦線で大隊長に転じる。その後参謀本部に戻りトルコに派遣され、トルコ軍大佐となる。パレスチナ戦線のトルコ第4軍で司令官エーリッヒ・フォン・ファルケンハインの参謀長となり、そこでヨアヒム・フォン・リッベントロップと知り合う。のちにナチ党のアドルフ・ヒトラーが、リッベントロップの説得によってカトリック教徒や貴族層への敵愾心を抑えてパーペンと手打ちし政権を握ることを思えば、この出会いは運命的なものであった。ドイツへの帰路では、のちにドイツ大統領となるパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とも同道して知遇を得ている。
[編集] 首相就任
第一次世界大戦の敗北後、ドイツ革命により成立したヴァイマル共和政の軍隊で働くことを潔しとせず、1919年に中佐を最後に退役する。同年中央党(カトリック系)に入党。1920年にカトリック系労働組合の委員長に就任。保守系の農民組合の指導者であった。1921年にプロイセン州議会議員に当選するも、与党に属するにも関わらず社会民主党(SPD)首班のオットー・ブラウン政権を支持せず不信任案提出を繰り返し、世間の注目を集めるとともに、保守派との親交を重ねる。1925年の大統領選挙でも、自党のヴィルヘルム・マルクスではなくヒンデンブルクを公然と支持した。中央党執行部は彼を除名したがったが、パーペンは党機関紙「ゲルマニア」の大株主で監査役に就任していたため、出来なかった。1928年にいったんプロイセン州議会議員を辞したのち、1930年に復帰。中央党とSPDの大連立に反対し、ドイツ国家人民党との連立を主張した。
後列一番右にシュライヒャー
1932年6月1日、ハインリヒ・ブリューニング内閣が瓦解すると、ヒンデンブルク大統領側近であったクルト・フォン・シュライヒャーの推薦を得て首相となる。パーペン内閣はドイツ国家人民党に近い無所属右派の官僚や専門家から構成され、貴族出身者が多かったことから「男爵内閣」と渾名された。直ちに中央党はハーペンの除名を決定するが、その直前の6月3日に自ら中央党を離党。翌日ヒンデンブルク大統領は議会に解散を命じ、総選挙が行われることになった。また6月16日にはブリューニング内閣により行われたナチス突撃隊・親衛隊の非合法化を取り消した。同月行われたローザンヌ会議で、ドイツはヴェルサイユ条約で定められた連合国への賠償金支払い義務を事実上停止された。
就任前の1932年4月、プロイセン州の州議会選挙で社会民主党を中心とするオットー・ブラウンの連立政権は敗北していたが、暫定内閣として存続していた。プロイセンに中道右派政権樹立を目論んだパーペンはナチスとの共闘を探ったが、ナチス側は自らの完全な政権獲得を主張し協議は不調に終わった。そのためパーペンは7月14日にヒンデンブルクの了承を得て、「治安維持の危機に対処するため」国防軍を出動させてプロイセン州政府を解体し、自らプロイセン総督(国家弁務官、Reichskommissar)を兼任した[1]。このやり方は後のナチスの強引なやり口の前例、あるいは「相対化」させたものとして非難されている。
[編集] ナチスの台頭と退陣
7月31日に投票が行われた総選挙では、ナチスが第一党に躍り出て、ナチスのヘルマン・ゲーリングが国会議長に選出される事態になった。パーペンは議会で所信表明演説をしようとしたが、ドイツ共産党が内閣不信任決議を提出、ゲーリング議長はパーペンを登壇させず先に不信任決議案の採択を行った。決議は可決されたが、パーペン側は選出されたばかりの議会を解散させることで対抗した。11月に行われた総選挙でナチスは議席を減らしたものの、依然として第一党にとどまった。
この結果に失望したパーペンはヒンデンブルク大統領に、国防軍を出動させて議会を半年間停止し、その間に改憲を行って大統領権限を強化する、つまりはクーデターを提案し、ヒンデンブルクも賛成した。ところが国防軍のトップでありパーペンの旧友であるシュライヒャー国防相は、むしろナチスの一部を取り込んで分裂を誘うべきと主張してこの案に従わなかった。こうして12月1日にヒンデンブルクのお気に入りだったパーペン内閣は更迭され、シュライヒャーが後継首相となった。
半年の首相在任中、「ボルシェヴィキに死を」を標語にしていたパーペンは、フランスに対して共産主義(ソビエト連邦)の脅威に対抗する独仏同盟を秘密裏にもちかけたが、フランス側は拒絶しソ連政府に通知された。内政では議会の支持を全く得ていなかったので、大統領権限による緊急立法のみで政権を維持する有様だったが、高い失業率への対策として雇用創出策を始めており、効果が見え始めたところであった。大規模なアウトバーン建設や徴兵制度といったより大規模な失業対策はヴェルサイユ条約の取り決めにより見送られたが、のちにヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄してこの政策を実現し、失業問題が劇的に解決されることになる。
[編集] 副首相
1933年1月4日と1月22日、パーペンはヒトラーと密談してナチスの政権参加について協議する。シュライヒャーへの報復のため、アドルフ・ヒトラーと組んでヒトラー=パーペン政権樹立を図ろうとし、ヒンデンブルクの承認も得た。ヒトラー内閣が成立すると、パーペンは副首相に就任。彼は「二ヶ月もすればヒトラーは内閣の端でわめくだけになる」と考えていたといわれる。しかし非ナチの民族派の支持を得ればヒトラー勢力を抑えられるというこの見込みは外れることになる。1933年7月、ドイツ全権代表としてローマ教皇庁との政教条約に調印している[2]。
パーペンは秘書に保守革命の代表的な思想家であるエドガー・ユリウス・ユングを起用するなど、思想的にナチスと一線を画しており、次第にヒトラーとの溝は深まりつつあった。この頃ヒンデンブルク大統領は瀕死の重病であり、この後の事態は予断を許さなかった。パーペンはナチスに対抗する手段として帝政復活を考えており、ヒンデンブルクに帝政復活を希望する遺言状を書かせ、彼の死後に帝政復帰を実現する計画を建てていた。
1934年6月17日にマールブルク大学で過激ナチスおよびSAなどを批判する講演を行った。この演説原稿は秘書ユングともう一人の秘書ヘルベルト・フォン・ボーゼ(de:Herbert von Bose)、交通省海事局長エーリヒ・クラウゼナー(de:Erich Klausener)の協力を得て執筆されたものだった。これを受けたヒトラーらは激怒し、宣伝相ゲッベルスは講演録の発表や予定されていたラジオ放送を禁止する措置をとった。しかしパーペンは事前に原稿を外国人記者や外交官に渡しており、内容は広く知られることになった。20日、パーペンはヒトラーに対し、演説の発表ができない場合は辞職すると抗議した。ヒトラーは善処を約束して慰留している。
6月30日、ヒトラーによる突撃隊の粛清である「長いナイフの夜」事件が発生した。粛清を知らされていなかったパーペンはゲーリングに抗議したが入れられず、自宅に戻らされ軟禁された。その頃「マールブルク演説」に関係した秘書ユング、ボーゼは副首相官邸で親衛隊により射殺された。またクラウゼナー海事局長もゲシュタポ本部で殺害されている。パーペンはその後自宅に軟禁されつづけ、外部との連絡を絶たれたが、ヒンデンブルク大統領の個人的な信任が厚かったため、殺害はされなかった。
[編集] 外交官
1934年7月25日、オーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースがオーストリア・ナチス党によって暗殺された。この暗殺はヒムラーの部下がクーデターを計画して行ったものだったが、クーデター自体は失敗に終わった。ドルフースはイタリアのムッソリーニ首相と親しく、オーストリアの独立はイタリアにとって重要であったため、事態が明らかになると独伊関係が崩壊するおそれがあった。ムッソリーニはイタリア軍四個師団を伊墺国境に配備し、介入の姿勢を見せた。
26日午前2時、ヒトラーはパーペンに連絡を取り、ウィーン公使就任の要請を行った。翌日ヒトラーと面会したパーペンは要請を受諾したが、オーストリア側のアグレマンが得られず、ウィーンには向かえなかった。その間の8月2日にヒンデンブルク大統領は死去。ヒンデンブルクは公式の遺言状に帝政復活の希望を記しておらず、ヒトラーが「国家元首兼首相」(総統)としてドイツを支配する独裁体制が完成し、パーペンの企図した帝政復活計画は潰えた。8月7日、オーストリア政府からアグレマンが行われ、パーペンは副首相を辞任して正式にウィーン公使となった。パーペンは8月15日にウィーンに赴任し、ヒトラー関与の隠蔽と事態の収拾に努めた[3]。
1936年からは駐オーストリア大使に任じられ、オーストリア併合に暗躍した。後にパーペンは、回想録で全ヨーロッパ紛争の回避のためと弁明している[4]。1939年からはトルコ駐在大使を務め、第二次世界大戦で中立を保つトルコを中央同盟時代のようにドイツ側にする工作に従事、ソ連のエージェントによる暗殺未遂事件にも遭遇する。1941年にはドイツ・トルコ相互不可侵条約が締結されたもののトルコは中立を維持し続け、1944年にドイツとの外交関係を断絶しパーペンは帰国した。ローマ教皇庁への大使起用が検討されたが、ベルリン司教の反対で実現しなかった。同年7月のヒトラー暗殺未遂事件で友人知己が逮捕され助命に努力したが、成功しなかった。以降、ドイツに連合国軍が迫る中もゲシュタポの監視を受けていた。
パーペンは娘婿であるマックス・フォン・シュトックハウゼン伯爵がメシェンデに所有する城に隠棲していたが、1945年4月にはアメリカ軍がメシェンデを占領。彼は狩猟小屋に隠れているところを逮捕された。1946年10月のニュルンベルク裁判では無罪。1947年2月の非ナチ化裁判で労働刑8年を宣告されたが、上告及び恩赦の結果1949年釈放。その後西ドイツの政界に進出しようとしたが成功しなかった。1959年7月24日には、教皇ヨハネ23世とアンカラ駐在時代に親交があったため、教皇によって教皇侍従(Papal Chamberlains)に叙せられた。また、マルタ騎士団のメンバーにもなっている。1969年、バーデン=ヴュルテンベルク州の隠棲先で死去。
[編集] 脚注
[編集] 参考資料
[編集] 外部リンク
- http://www.us-israel.org/jsource/Holocaust/Papen.html
- http://www.infoplease.com/ce6/people/A0837533.html
- ドイツ歴史博物館経歴紹介(ドイツ語)
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最終更新 2009年11月24日 (火) 11:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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