フレドリク1世 (スウェーデン王)

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フレドリク1世
フレドリク1世

フレドリク1世Fredrik I, 1676年4月23日 - 1751年3月25日)は、スウェーデン王(在位:1720年 - 1751年)。1代限りのヘッセン王朝の国王となった。ドイツのヘッセン=カッセル方伯カールの子で、ヘッセン=カッセル方伯も兼ねた(在位:1730年 - 1751年)。ドイツ語名はフリードリヒ1世Friedrich I.)。母はクールラント公ヤーコブの娘マリー・アマーリエ。

フレドリクは1676年にドイツ中部のカッセルで誕生した。1700年ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(プロイセンフリードリヒ1世、翌1701年に即位)の娘で従妹であるルイーゼと結婚したが、5年で死別する。1715年にスウェーデン王女ウルリカ・エレオノーラと再婚した。

国王時代は全くの傀儡の君主であったとされているが、1720年以前はカール12世の義弟として、ウルリカ・エレオノーラ女王の王配として、隠然たる実力があったとも言われている。当時のスウェーデンは大北方戦争の最中であったが、ロシアとの勝敗は決していた。そのため、フレドリクは強い反ロシア感情を持っていたと言う。ノルウェーに固執するカール12世の行動は、親西欧派の立場を取る彼にとっては脅威となりかねなかった。カール12世の死には暗殺説も取り沙汰されており、フレドリクの関与も疑われている。親ロシア派のホルシュタイン=ゴットルプ家とは戦後も対立する事になる。即位直後のストックホルム条約において、プロイセン王国などとの戦争は終了していた。しかしロシアは戦闘を継続し、スウェーデン本土に直接攻撃を仕掛けてきていた。結局これが圧力となり、翌1721年ニスタット条約において、ホルシュタイン派に主導権を握られてしまった。

1720年にウルリカ・エレオノーラが退位すると、スウェーデンの元老院から推戴されてスウェーデン国王となった。しかしスウェーデンは大北方戦争でロシアに敗北を喫するなど、国力を低下させている時代でもあった。権力は議会の下にあり、フレドリクは絶対王政を否定する新憲法の制定を条件として王位に即いた。1730年には新しく統治法が制定され、王権は極度に制限された。国王は議会を尊重する無害な存在となり、立憲君主制となった。以降1771年までスウェーデンは「自由の時代」となった。なお1731年には東インド会社1739年にはスウェーデン王立科学アカデミーが設立された。

スウェーデンの国政は、有力貴族のメッソナ党とハッタナ党が交互に政権に就いた。初期はメッソナ党のアルヴィド・ホルンの指導のもと、大北方戦争後の国家復興に努め、国力をある程度回復する。やがてメッソナ党は親ロシア派ということで失脚し、ハッタナ党が政権を握る。ハッタナ党は親西欧派で、特にフランスとの結び付きが強く、フランスの支持のもとに対ロシア復讐戦に打って出たが、無惨にも敗北し(1741年)、フィンランドの南東部カレリア地方の一部を奪われた(この時、スウェーデン王位継承権はホルシュタイン=ゴットルプ家に与えられた)。それでもハッタナ党は国民の愛国心を高めさせ、政権を維持する事に成功した。敗北にめげることもなく、ハッタナ党は国防と福祉に力を入れ、重商主義を取り、スウェーデンの国力回復に邁進した。

フレドリクは1751年に死去した。すでに没していたウルリカ・エレオノーラとの間にも、先妻ルイーゼとの間にも子はなく、ヘッセン=カッセル方伯は弟ヴィルヘルム8世が継承した。また、スウェーデン王位継承者は政権を担うハッタナ党によってホルシュタイン=ゴットルプ家のアドルフ・フレドリクに決められていた。スウェーデンの「自由の時代」は以後も存続し、メッソナ党とハッタナ党の政権争いも継続した。

ウィキメディア・コモンズ
先代:
ウルリカ・エレオノーラ
スウェーデン国王
1720年 - 1751年
次代:
アドルフ・フレドリク
先代:
カール
ヘッセン=カッセル方伯
1730年 - 1751年
次代:
ヴィルヘルム8世

最終更新 2009年11月4日 (水) 11:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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