ブラチスラヴァ

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ブラチスラヴァ
Bratislava

城塞から見たブラチスラヴァの旧市街
市旗 市章
愛称 : 「Beauty on the Danube, Little Big City」
位置
スロバキア内のブラチスラヴァの位置の位置図
スロバキア内のブラチスラヴァの位置
座標 : 北緯48度08分41秒 東経17度06分46秒 / 北緯48.14472度 東経17.11278度 / 48.14472; 17.11278
行政
スロバキアの旗 スロバキア
 州 ブラチスラヴァ州
 市 ブラチスラヴァ
市長 Andrej Ďurkovský
地理
面積  
  市域 367.584km2
標高 134m
人口
人口 (2006年現在)
  市域 426,091人
    人口密度   1,159人/km2
その他
等時帯 中央ヨーロッパ時間UTC+1
夏時間 中央ヨーロッパ夏時間UTC+2
郵便番号 8XX XX
市外局番 421-2
ナンバープレート BA
公式ウェブサイト : www.bratislava.sk
1830年、ハンガリー国王によるポジョニの学校訪問

ブラチスラヴァスロバキア語: Bratislava)は、スロバキア首都人口43万人を擁するスロバキア最大の都市。ドナウ川に面しており、オーストリアハンガリーとも国境を接する。名称はこれまで幾度も変わっており、現在の「ブラチスラヴァ」の名称は第一次世界大戦後の1919年に改名され使われ始めた。マジャル(ハンガリー)語では ポジョニ(Pozsony)、ドイツ語では プレスブルク(Preßburg)と呼ばれる。

目次

[編集] 概要

ブラチスラヴァは北緯48度9分、東経17度7分に位置する。

オーストリアハンガリーとの国境地帯に位置し、ウィーンまで60kmしか離れていない(ヨーロッパの首都同士では最短距離)。チェコ共和国との国境までも62km。

[編集] 歴史

新石器時代には、この地域への最初の定住の痕跡が見つかっている。紀元前400年にはケルト人が定住していた。紀元前125年頃、ケルト人がオッピドゥムをブラチスラヴァの丘に建造、ドナウ川一帯のケルト人の中心地の一つになる。1世紀からローマ帝国の北の辺境とし、その影響下に入り、リーメス、デヴィーン城が建設され、葡萄の栽培が盛んになる(今日まで続く)。

民族移動時代5世紀から6世紀)、スラブ人が定住。アヴァール人との衝突を経て、スラブ人がサモ王国(623年-658年)を建国、その一部となる。8世紀後半、ニトラ公国の一部となり、次いで、それを併合したモラヴィア王国に属する。907年ハンガリー王国に属する(短期の中断期間を挟む。1526年から1918年まで、ハンガリー王国はハプスブルク帝国の一部だった)。王国の国境の要として戦略上の重要拠点として成長する。神聖ローマ皇帝ジギスムント によりブラチスラヴァの独自の紋章の使用を許可される。1526年モハーチの戦いで、ハンガリー王国を撃破したオスマン帝国が、ハンガリー平原に進出、ブラチスラヴァを包囲、攻撃するも、防衛に成功。オスマン帝国がブダを支配したため、1536年にハンガリー王国の首都となる(1784年まで)。1542年にはハンガリー議会所在地となる。1563年からは聖マルティン大聖堂で7人のハンガリー国王・女王の戴冠式が行なわれた。18世紀以降は、スロバキア地方の中心都市となり、特にマリア・テレジアの治世下では、ハプスブルク家にとって最重要都市の一つになる。しかし、息子のヨーゼフ2世の時代は、聖イシュトヴァーンの王冠がウイーンに移動、ハンガリー王国の首都もブダに戻され黄金時代は終わる。1805年プレスブルクの和約が当地で結ばれる。1809年には、ナポレオン・ボナパルトの軍勢の侵攻を受け、荒廃。

1918年チェコスロバキアが誕生すると、ブラチスラヴァは、チェコ軍団とドイツ・ハンガリー勢力の間で争奪戦が起こる。1919年にチェコ軍団が制圧、チェコスロバキアの一部となる。公式都市名が“Prešporok”からブラチスラヴァ(スロバキア語: Bratislava)となる。1938年ナチス・ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)。1939年、ナチス・ドイツの従属国として独立スロバキア(スロバキア第一共和国)が誕生、その首都となる。15,000人以上のユダヤ系市民が強制収容所に送られた。1944年には連合国軍の空爆を受け、1945年ソビエト連邦赤軍に占領された。1948年チェコスロバキア共産党によりチェコスロバキア人民共和国が生まれると、その一部となる。1968年プラハの春ワルシャワ条約機構軍による軍事介入を受けると、ブラチスラヴァも軍事制圧される。1969年チェコスロバキア社会主義連邦共和国を構成するスロバキア社会主義共和国の行政府所在都市となる。1989年ビロード革命ではその運動の中心地となり、1993年に連邦が解体(ビロード離婚)、新生のスロバキア共和国の首都になる。2005年にはジョージ・W・ブッシュウラジーミル・プーチンの米ロサミットが開かれるなど国際的な都市に成長している。

[編集] 気候

ブラチスラヴァの平均気温
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C (°F) 2 (36) 5 (41) 11 (52) 16 (61) 22 (72) 24 (75) 27 (81) 27 (81) 22 (72) 15 (59) 8 (46) 4 (39) 15 (59)
平均最低気温 °C (°F) -3 (27) -2 (28) 1 (34) 5 (41) 10 (50) 13 (55) 15 (59) 14 (57) 11 (52) 6 (43) 1 (34) -1 (30) 6 (43)
降水量 mm (inches) 42 (1.7) 37 (1.5) 36 (1.4) 38 (1.5) 54 (2.1) 61 (2.4) 52 (2) 52 (2) 50 (2) 37 (1.5) 50 (2) 48 (1.9) 557 (21.9)
出典: World Weather 2009-01-04

[編集] 人口構成

ブラチスラヴァの人口は、2001年の調査で428,672人であり、平均年齢は38.7歳である。

  • 地区別 ブラチスラヴァ I区 44,798、ブラチスラヴァ II区 108,139、ブラチスラヴァ III区 61,418、ブラチスラヴァ IV区 93,058、ブラチスラヴァ V区 121,259
  • 民族別 スロバキア 391,761、ハンガリー 16,451、ロマ 417、チェコ 7,972、ドイツ 1,200、モラビア 635、クロアチア 614、ロシア 461、ウクライナ 452、ポーランド 339
  • 宗教別 ローマ・カトリック 243,048、プロテスタント(ルーテル派) 24,810、ギリシャ・カトリック 3,163、プロテスタント(カルビン派) 1,918、ギリシャ正教 1,616、エホバの証人 1,827, プロテスタント(メソジスト派) 737、ユダヤ教 700、バプティスト派 613
  • 年齢別: 0 – 5歳 : 4.1 %、6 – 14歳: 9.8 %、生産年齢人口: 62.9 %、高齢者: 19%

[編集] 史跡

ブラチスラヴァ城
ドナウ川を見下ろす高台の上にあり、かつてマリア・テレジアの居ともなっていた古城で、城内からはドナウ河や付近の林野、ブラチスラヴァの市街が一望できる市内随一の観光名所となっている。城の四隅に配されている塔をテーブルの脚に見立てて、「ひっくり返したテーブル」という愛称を持つ。城内は国立歴史博物館になっている。高台の上まではなだらかな坂が続き、徒歩で到達することができる。
聖マルティン大聖堂
1563年から1830年まで、マリア・テレジアを含むハンガリー王国歴代の国王や王妃たちの戴冠式が行なわれた。
ミハエル門
かつて旧市街の入口だった門の一つ。内部は武器博物館となっており、世界各国の剣、槍、大砲などが展示されている。
フンメル記念館
ブラチスラヴァ出身の音楽家、ヨハン・ネポムク・フンメルの生家。記念館として公開されている。
ジェヴィーン城(デヴィーン城)
ブラチスラヴァ郊外、ドナウ川とモラヴァ川の合流点に位置する城塞跡。

[編集] 交通

  • ブラチスラヴァ空港
    • ブラチスラヴァはウィーンに非常に近い。そのため乗り入れが多いウィーン国際空港から、バスでブラチスラヴァに入る方法もよく用いられる。ウィーン国際空港からブラチスラヴァまでは凡そ30kmほどである。
  • ブラチスラヴァとウィーンの間は、鉄道、バスの他にドナウ川を使った高速船で結ばれている。
  • ブラティスラヴァ・ペトルジャルカ駅 新市街地にあり、主にオーストリア方面の列車が発着する。
  • ブラティスラヴァ本駅 Bratislava hlavná stanica  旧市街地にある。

[編集] 姉妹都市


[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ


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最終更新 2009年12月3日 (木) 16:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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