ブロニスラヴァ・ニジンスカ
ブロニスラヴァ・ニジンスカの最新ニュースをまとめて検索!
ブロニスラヴァ・ニジンスカ (波:Bronisława Niżyńska, 露:Бронислава Фоминична Нижинская, 1891年1月8日 - 1972年2月22日) はロシア帝国、ミンスク (現在はベラルーシの首都) 出身のバレエダンサー・振付家。
[編集] 生涯
ポーランド人の舞踏手一家の生まれで、ヴァーツラフ・ニジンスキーの妹。4歳の時、ニジニ・ノヴゴロドの劇場で初舞台を踏む。その後帝室バレエ学校に学び、17歳でマリインスキー劇場のダンサーとなった。革命後の1921年にロシアを去り、『牧神の午後』 などで兄と共演するなどバレエ・リュスを代表するダンサーの一人として活躍した。
1920年代より振付に取り組む。代表作にロシアの民俗的色彩の濃いストラヴィンスキー作曲 『結婚』 (1923年)、ジャズエイジの上流階級を風刺したプーランク作曲の 『牝鹿』 (Les Biches, 1924年)などがある。パントマイムや小道具を排して舞踊のみで構成する作品として知られている。
バレエ・リュス消滅後の1937年、ポーランド政府筋の要請でワルシャワのポーランド・バレエ団 (Balet Polski) のバレエ・ミストレスとなる。半年足らずのうちにショパンのピアノ協奏曲1番による 『ショパン協奏曲』 など5つの作品を作り、隣国ドイツを巡演するなど順調な滑り出しであったが、1938年に突然解任される。このときの記譜やノートは大戦の勃発で全て失われてしまった[1]。
1938年に米国に移住し、ロサンゼルスでバレエを教えた。彼女の生徒で知られるのは、マリア・トールチーフである。2度結婚し1男1女をもうけ、長男は交通事故で亡くしたが、長女のイリーナは長じて舞踏手となった[2]。生涯で最も愛した男性はロシアのバリトン歌手フョードル・シャリアピンであった。1972年、心不全のため81歳で死去[3]。
[編集] 脚注
- ^ Arkin, Lisa C., "Bronislava Nijinska and the Polish Ballet, 1937-1938", Dance Research Journal, 24/2 (Fall 1992), p.10
- ^ Irina Nijinska Raetz, 1913年 - 1991年。1966年、英国ロイヤル・バレエ団での 『結婚』 の復元に尽力した。
- ^ Obituaries, TIME, 06 Mar. 1972
最終更新 2009年9月20日 (日) 11:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【ブロニスラヴァ・ニジンスカ】変更履歴

