ヘルマン・ゲーリング

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ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング
Hermann Wilhelm Göring
1893年1月12日 -1946年10月15日
1945年5月9日、拘禁直後
渾名 「撃墜王」
生誕地 ドイツ帝国
バイエルン王国ローゼンハイム
死没地 連合軍占領下ドイツ
バイエルン州ニュルンベルク
所属政体 ドイツ帝国
ドイツ
所属組織 ドイツ空軍(Luftwaffe)
最終階級 国家元帥
指揮 空軍総司令官
戦闘/作戦 第一次世界大戦
賞罰 一級鉄十字章
プール・ル・メリット勲章[1]
黄金ダイヤモンド付きパイロット兼観測員章[1]
騎士鉄十字章[2]
大鉄十字章[1]
除隊後 ニュルンベルク裁判被告人
死刑判決(執行前に自殺
  

ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリングHermann Wilhelm Göring 1893年1月12日1946年10月15日)はドイツ政治家軍人国家元帥ナチ党政権下のドイツにおいて、ヒトラーの後継者に指名されるなど高い政治的地位を占めた。

目次

[編集] 前半生

1907年。リヒターフェルデ士官学校時代

[編集] 上流階級

ドイツ帝国領邦バイエルン王国南端のローゼンハイム植民地南西アフリカ帝国弁務官ハインリヒ・ゲーリングの子として生まれた[3]。「ヘルマン」の名前は代父であるヘルマン・リッター(騎士)・フォン・エーペンシュタイン(Hermann Ritter von Epenstein)が自らの名前を与えたものであった。エーペンシュタインは裕福なユダヤ人貴族であり、ゲーリングの母フランツィスカは彼の愛人だった[4]

少年期をエーペンシュタインの所有するマウテルンドルフ城とヴェルデンシュタイン城で過ごし、そこで後の華美な装飾への嗜好が培われた。内向的で自分の世界にこもりがちな息子を見た母は「この子は将来偉大な人物か大犯罪者になるだろう」と言ったという[4]1901年にベルリン・リヒターフェルデの陸軍士官学校に入学し、1911年に優秀な成績で卒業した。1912年3月、19歳の時に陸軍少尉に任官し、ミュールハウゼンのプリンツ・ヴィルヘルム歩兵連隊に入隊した[5]。その後ベルリン社交界で上流階級との交際を経験する[6]

[編集] 撃墜王

1917年のゲーリング

第一次世界大戦勃発後の1914年10月、航空隊に志願し、転属が認められた。まず観測員となり、続いて1915年6月から偵察飛行士となり、1915年秋からいよいよ戦闘機パイロットになる[5]1916年に初出撃し、技量・戦意ともに認められて、ドイツ軍パイロットの最優秀人物の一人に数えられるようになり、1917年5月には第27飛行中隊長となった。1918年6月2日には22機撃墜の功により皇帝ヴィルヘルム2世から一般軍人の事実上の最高武勲章であるプール・ル・メリット勲章戦功章を授与されている。さらに「リヒトーホーフェン大隊」の名前で名高い第1戦闘機大隊の指揮官に任じられた。この大隊の初代指揮官マンフレート・フォン・リヒトホーフェン男爵は80機を落として連合国から恐れられていた伝説的人物であった。リヒトホーフェンが1918年4月21日に落とされて戦死し、その後任ラインハルトも7月3日に落とされた。その次の指揮官として白羽の矢が立ったのがエースパイロットとして名声をあげていたゲーリングであった。ゲーリングがこの大隊の最後の指揮官となる。ゲーリングは大隊を率いて最後まで戦い抜いたが、ドイツ革命と敗戦が告げられて、11月には大隊をドイツへ戻すこととなった[6][7]。ゲーリングはこのリヒトホーフェン大隊で戦った戦友たちを生涯忘れることはなかった。1943年にルーターというリヒトホーフェン大隊で一緒に戦ったユダヤ人が逮捕されるとゲーリングはゲシュタポに圧力をかけて彼の釈放に尽力し、その後個人的保護下に置いている[7]

第一次世界大戦中、ゲーリングは一級鉄十字章剣付きツェーリンク獅子勲章カール・フリードリヒ勲章剣付三級ホーエンツォレルン勲章プール・ル・メリット勲章など名だたる勲章を叙勲した。1919年末に復員した。大戦の英雄であるゲーリングは、戦後の人員制限のあるヴァイマル共和国軍にも残留できる可能性が高かったが、彼はドイツ革命に反対する反共和制論者であったため、ヴァイマル共和国に仕えることはよしとせず軍務を退いた[7]

戦後は、民間飛行士としてスウェーデン曲芸飛行ショーを興行したり、旅客機パイロットを務めるが、反ワイマール共和国的な国粋主義的信条は保ち続けた。スウェーデン時代に貴族未亡人カリン・フォン・カンツォフと恋に落ち、ドイツに帰国した後1922年結婚している。

[編集] 闘争時代

[編集] ミュンヘン一揆まで

突撃隊の服装をしたゲーリング

ドイツへの帰国後、ミュンヘン大学経済学歴史学を学びながら国粋主義に傾倒していき、1922年11月にミュンヘンのケーニヒ広場の政治集会で初めてアドルフ・ヒトラーと会見する機会を得た。ゲーリングは初対面でヴェルサイユ条約打破や「ユダヤ人と共産主義者による背後の一突き」説を熱く語るヒトラーに魅了された。ヒトラーもプール・ル・メリット勲章を叙勲したこの空の英雄に利用価値を見た[8]。ゲーリングは民族社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党し、1923年1月に突撃隊(SA)の指揮官に任じられ、その再編成をする仕事を任される[9]

1923年11月9日、ヒトラーとエーリヒ・ルーデンドルフミュンヘン一揆を起こし、突撃隊はミュンヘンの中心部オデオン広場(Odeonsplatz)へ行進を開始。先頭を進むのはヒトラー、ルーデンドルフ、そしてゲーリングであった。しかしオデオン広場のフェルトヘルンハレ(Feldherrnhalle)まで数メートルというところで警官隊から銃撃を受けた。この時にゲーリングは腰に銃弾を受けて倒れた。突撃隊員はゲーリングを車の中へ運びいれてその場を離れた。ゲーリングは、警察の追跡を振り切るため、妻カリンを伴ってオーストリアへ国外逃亡した。

[編集] 一揆後の療養生活

インスブルックの病院で治療を受けるが、銃弾は深くまで食い込んでおり、このとき麻酔のために用いられたモルヒネを常用するようになった。傷が治癒した後も長く依存症に苦しむ[10]

ドイツ国内ではヒトラーとルーデンドルフが逮捕されて投獄されていた。ゲーリングについてもバイエルン州警察は手配書を出しており、ゲーリングはドイツへ戻ることができなかった。ゲーリングのドイツ国内の財産もすでに警察に差し押さえられていた。しかもエルンスト・レームが突撃隊の偽装組織を作って再建を開始し、突撃隊の実権はすでに彼に移ろうとしていた。ゲーリングは、夫人の実家があるスウェーデンへ戻っていった。しかし負傷した傷の激痛に苦しみ続け、毎日のようにモルヒネを注射した。薬物の大量投与によってホルモンバランスの異常をおこし、美男子だったゲーリングの容貌はどんどん変貌して見るも無残な肥満体となってしまった[1]。薬物の禁断症状で精神的な障害も起こすようになった。妻カリンに支えられて精神病院に入ったものの、結局モルヒネ依存を抜け出すことはできなかった。ゲーリングの失望の時期であった[9][11]

[編集] 政治活動再開

1927年秋のヒンデンブルク大統領政治犯に対する恩赦によりドイツへ帰国した。ヒトラーから再度迎え入れられてナチス党での政治活動を再開した。ヒトラーもゲーリングも完全に合法的な選挙活動によって政権を取る路線に立場を変更していた[12]1928年国会議員選挙ではナチス党は12議席しか取れなかったが、ゲーリングは当選者の一人であった[13]

さらにゲーリングは、ブルジョア出身であることやプール・ル・メリット勲章の叙勲者であることを利用して社交界で活発に運動した。下層階級出身者の多いナチス党幹部には近づき難かった上流社会財界人と接触し、人脈の構築に尽力した。ゲーリングの働きによってクルップメッサーシュミットのような大企業が党に献金するようになり、ヒンデンブルク大統領とヒトラーの初会談が実現した[14]1930年にはヒトラーの公式な相談役になるなど、ナチ党最重要人物の一人となった。1930年9月の選挙ではナチス党は一気に107議席を獲得。ゲーリングはこの107人のナチ党議員団のトップとなった。このナチ党の躍進を予想していたのはナチ党内でもゲーリング一人であったという[15]

1931年10月17日、カリン夫人を亡くすが、悲しみながらもますます活発な活動を行っていく。1932年7月31日の選挙でナチス党が更に躍進して230議席を掌握し、社民党を抜いて第一党となった。そのためゲーリングが新たに国会議長に就任することとなった。ナチ党はパーペン内閣への不信任案を可決させた。

[編集] ナチ党政権掌握後

[編集] プロイセン州統治

1933年1月30日アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された。ヒトラーは、ゲーリングを自らの内閣無任所相に任じ、さらにプロイセン州内相を兼ねさせた。プロイセン州内相職を得たことによってゲーリングは、親衛隊在郷軍人組織「鉄兜団」のメンバーを補助警察として採用し、プロイセン州警察のナチ化に努めた。

ゲーリングは1933年2月6日にプロイセン州警察の政治警察部門「1A課(Abteilung 1A)」(ゲシュタポの前身)の課長にルドルフ・ディールスを任じた。ディールスはナチ党員ではなかったが、ゲーリングの有能な片腕として働いた。ディールスは、1933年2月27日国会議事堂放火事件で迅速に事態を収拾し、共産党員ルッベを犯人と断定した。さらに翌28日には4000人のドイツ共産党員を逮捕に成功している[16]。国会議事堂放火事件は事件自体がナチ党の自作自演だともされ、もしそうならばゲーリングがその演出にも深く関わっていた可能性が大きい。

1933年2月24日にはヴァルター・ヴェッケ警察少佐(Walther Wecke)の下に政治的に信用できる警察官400名を集めて「ヴェッケ特殊任務警察大隊(Polizeiabteilung z.b.V. Wecke)」を創設させている。大隊はベルリン=クロイツベルク近郊に基地を構え、ゲシュタポの逮捕の実行部隊として活躍した。この部隊は拡張再編成されて「ゲーリング将軍州警察集団(Landespolizeigruppe General Göring)」、さらにその後「ゲーリング将軍連隊(Regiment General Göring)」と改名されてゲーリングの空軍司令官就任に伴い、空軍の部隊となった[17]

1933年4月10日にはフランツ・フォン・パーペンから譲られてプロイセン州国家代理官(Reichsstatthalter)となった。1933年4月26日、ゲーリングはプリンツ・アルブレヒト街8番地にあったホテルを接収して、ここにプロイセン州秘密警察局(Preussisches Geheimes Staatspolizeiamt)を新設し、プロイセン州の政治警察の一本化をはかった。1A課もここに吸収され、その中核となった[18]。これが「ゲシュタポ」という略称で有名なナチスの秘密警察の創始であった。ゲシュタポ局長(Leiter der Geheimen Staatspolizeiamt)には1A課課長ルドルフ・ディールスが就任し、トップである長官(Chef der Geheimen Staatspolizeiamt)はゲーリング自身が務めた[19][20]。 1933年5月にゲーリングは航空相、林野・狩猟庁長官となり、さらに大きな権力を握った。ゲーリングは称号を非常に好んだため、年を経るごとに称号は増え続け、生涯に数十の役職を兼務している。

ゲーリングはゲシュタポを個人的指揮下に置くことを図り、ドイツ国内相ヴィルヘルム・フリックから切り離していった。プロイセン州は「ゲーリング王国」の様相を呈したが、これを快く思わなかったフリックは、ゲーリングへの対抗として1933年11月から1934年1月にかけてプロイセン州以外の各州の警察権力を親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーにゆだねていった。ヒムラーはプロイセン州の警察権力の掌握も狙い、ゲーリングに様々な圧力をかけるようになった。ゲーリングは折れた。1934年4月20日、ゲシュタポ局長の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理(Inspekteur und stellvertretender Chef der Geheimen Staatspolizeiamts)」を新設し、これにハインリヒ・ヒムラーを任じた。これをもって実質的なゲシュタポの指揮権をヒムラーに引き渡すこととなった。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポ長官の座にとどまったが、形式的な存在であった[21]。以降ゲーリングのプロイセン州国家代理官や内相の地位も形骸化していった。

ゲーリングがゲシュタポ指揮権をヒムラーに譲った理由は諸説あり定かではない。緻密さが要求される警察業務に飽きてしまったとも、自らの名声を秘密警察業務で汚したくなかったともいわれる。1934年6月のエルンスト・レーム以下突撃隊の隊員たちの粛清(長いナイフの夜)に備えるため、親衛隊と手打ちする必要があったのではないかともいわれる[19][22]

[編集] 空軍総司令官

警察権力を諦めたゲーリングであったが、続いて軍事権力を狙った。1935年3月、ドイツ再軍備にともなって新設された空軍司令官に任命され、四カ年計画を立案して自らも巨大鉄鋼財閥の総帥となって軍備拡張を急速に進めた。また同年4月10日、女優エミー・ゾンネマンと再婚した。エミーとの間に生まれた娘は尊敬するムッソリーニの娘にちなんでエッダと名づけられている。

1938年オーストリア併合ではヒトラーさえ出し抜いて指導的な役割を演じ、シュシュニック首相を脅迫、軍隊の進駐を決定した。ミュンヘン会談の際には媒介役をつとめたが、戦争のリスクを負ってまでも対外進出に賭けるヒトラーの姿勢について行かれなくなり、徐々にヒトラーとの関係を悪化させた。そのため、この頃から政策決定に対するゲーリングの影響力は次第に薄れ、1939年3月のチェコスロバキア併合の際には完全に政策決定から外されていた[23]

ますます称号にこだわるようになったゲーリングは国防相の座を狙って策動し、ハインリヒ・ヒムラーラインハルト・ハイドリヒらの協力を得て国防相ブロンベルク元帥と陸軍総司令官フリッチュ上級大将を失脚させる(ブロンベルク罷免事件)。しかし、この事件後、ヒトラーは国防相の職を廃止して国防軍最高司令部を置き、統帥権を自らが掌握した。

航空整備に関して、ゲーリングはユンカースJu-87に代表される急降下爆撃機に絶大な自信を持つ反面、雷撃機には関心が無かった。当時の日本駐在武官との会話で、『イギリス艦艇を全て爆撃で沈める』と豪語したが、上部構造物に爆撃しても船は沈まないとの武官の反撃に沈黙している[要出典]。ドイツ空軍は単発の魚雷攻撃機を一部改造はしてみたが、結局作ってはいない。さらに長距離重爆撃機の開発にも不熱心だった。このため戦争中、特にイギリスとの戦い(バトル・オブ・ブリテン)でドイツ空軍は戦略爆撃を行えず苦戦に陥り、イギリス上陸作戦を断念している。命中精度の高さ故に急降下爆撃に固執し、双発爆撃機のユンカースJu-88のみならず、4発重爆撃機ハインケルHe 177にさえ急降下性能を要求するなど、ドイツ空軍は適切さを欠いた方針を示した。

[編集] 経済における活動

1936年8月、ヒトラーは四ヵ年計画(Vierjahresplan)の覚書を書き上げた。1936年9月9日のニュルンベルク党大会での総統告示で「ドイツ軍は四年後には戦闘能力を身につけてなければならない。ドイツ経済は四年後には戦争能力を身につけていなければならない」という四ヵ年計画宣言が行われた。こうしてはじまった四ヵ年計画の全権責任者に、1936年10月、ゲーリングが任じられた。ゲーリングは、ヒトラーの命を受けてドイツの外国資源への依存を減らし、自給自足経済(アウタルキー)の確立を急いだ。また軍備支出を大幅に増やしていった。結果、国家負債は激増し、国民の生活水準の成長率も半減したが、戦争経済体制の構築は進んだ[24]。この四ヵ年計画において実質的な実権者はゲーリングと親密な関係にあったIG・ファルベンのカール・クラウホ(Carl Krauch)であった。計画の役員もIG・ファルベンの社員で占められていた。そのため計画の全投資の三分の二はIG・ファルベンに割り当てられている[25]

鉄鉱石の不足から四ヵ年計画に反して輸入の拡大を望んでいた既存の鉄鋼資本に対抗するため、ゲーリングは、1937年6月16日に国内鉄鉱石の開発とそれを基盤とする鉄鋼プラントの建設計画を打ち上げた。こうして7月15日にザルツギッターにおいて全額政府引き受けによる資本金500万マルクで「ヘルマン・ゲーリング鉱山・製鉄」を設立させた。合同製鋼(Vereinigte Stahlwerke)など既存の鉄鋼資本も最終的にはゲーリングと妥協していった[26]。 1937年11月から1938年2月にかけてヒャルマール・シャハトに代わって経済相に就任し、経済省を四ヵ年計画の執行機関にかえていった[23]。1938年2月の増資で「ヘルマン・ゲーリング鉱山・製鉄」はIG・ファルベン、合同製鋼に次ぐ大企業となった。1938年7月に同社は「国家工場ヘルマン・ゲーリング」に改組され、その下に鉱山・製鉄、兵器・機械、内陸水運の三部門を置く体制へと変更された[26]

[編集] ヒトラーの後継者

ゲーリングはドイツ国民から広い人気があり、財界との橋渡し役もできるなど強い国内統合効果を持っていた。対外的にもナチ政権成立後から大戦勃発に至るまでは、リッベントロップらと対比され穏健派と見られていた。そのためヒトラーはゲーリングを非常に重視していた。1934年12月13日、ヒトラーは極秘裏に「首相兼総統の後継者に関する法」を定めて、ゲーリングを後継者に指名している。ゲーリングの政策決定力が落ちた後でもこの姿勢は変わらず、1939年9月1日のポーランドへの開戦に際しての国会演説でヒトラーはゲーリングを第一の後継者に指名している[23]

[編集] 第二次世界大戦

[編集] 国家元帥

国家元帥の元帥杖と所持していた拳銃

後継者に指名されると同時に始まった第二次世界大戦では空軍総司令官として急降下爆撃機と戦車を関連させた電撃戦の一端を担い、ワルシャワ爆撃などで大戦果を上げた。さらに占領したポーランド経済をドイツの軍需生産システムに組み込み、労働者を徴集するなどして軍備拡張に拍車をかけ、ナチス幹部では貴重な戦争のプロとして電撃戦を成功させるなどし、これらの功績により翌1940年7月19日の叙勲でゲーリングは空軍元帥よりも上の階級「国家元帥」に昇進する。また、1941年6月29日には、ヒトラーが任務に堪えられなくなった場合、ゲーリングが総統職を代行するという総統布告が出されている。

しかし、戦争のプロといえどゲーリングは第一次大戦当時の観念から抜け切れず、兵站や長距離の航空機を軽視した。1940年5月末のダンケルクの撤退では、陸軍の進撃を自らの空軍の面目の為に遅らせ、この戦域での英仏軍の撃滅の機会を逃し、続く8月~9月の「バトル・オブ・ブリテン」ではドイツ空軍爆撃隊は予想外の大損害を被り、イギリス上空の制空権獲得を放棄。さらに1942年末から1943年、スターリングラード攻防戦における無謀な空輸作戦(兵站の全てを空輸に頼ろうとした)の失敗で、多数の輸送機とパイロットを失い、ゲーリングの権威は傷つき、政治・軍事への影響力は激減する。以後彼は公の場にはあまり姿を見せなくなり、美術品蒐集などの趣味に没頭した。また自らの失敗を、ウーデットに押しつけたりするなど、問題の多い情緒的行動から、部下の信頼を早期に失っている。 

またゲーリングは海軍の航空部隊を空軍の管轄へと強引な線引きを行なわせた為に、空中哨戒機をはじめ海軍独自の航空隊の育成が行えず、艦隊の編成や作戦に重大な支障を生じさせ、例えば、大西洋でのUボートの空中哨戒を困難にさせたり、空母ツェッペリンの就役を困難にした一因を作っている。ドイツ海軍航空隊がないのは実に彼のためである。

[編集] 逮捕

拘禁された際の写真

1945年4月20日、ヒトラーは国防軍最高司令部陸軍総司令部・空軍総司令部の機能をオーバーザルツベルクに移す許可を与えた。オーバーザルツベルクにはヒトラーの山荘ベルクホーフやゲッベルスなどの高官達の別荘が建ち並んでおり、空軍総司令官であるゲーリングも自らの別荘に移った。この時、ゲーリングはベルリンの広大な屋敷「カリンハル」を爆破し、所有していた莫大な美術品はオーバーザルツベルクに移した。

4月23日、総統地下壕を脱出したカール・コラー空軍参謀総長が、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将の伝言を携え別荘を訪れる。ヨードルの伝言は「総統が自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任だと言った」という内容だった。ゲーリングは不仲であったマルティン・ボルマンの工作を疑い、総統地下壕に1941年の総統布告に基づく権限委譲の確認を求めた電報を送る。電報を受け取ったボルマンは、ゲーリングに反逆の意図があるとヒトラーに告げる。ヒトラーは激怒し、ゲーリングの逮捕とナチ党からの除名、そして別荘への監禁を命じた。

しかし、4月25日にはオーバーザルツベルクが空襲を受け、ゲーリングの別荘やベルクホーフを含む施設が焼失したために監禁命令は実効性を失い、ゲーリングとその家族はオーストリアのマウテルンドルフにあるゲーリング所有の城へ疎開することになる。5月7日、投降しようとしていたゲーリングはラートシュタット近郊でアメリカ軍に逮捕されヒルシュホルン城に拘禁される。この時のゲーリングは「ぶくぶくとだらしなく太り、際限なく薬を欲しがるモルヒネ中毒の男に過ぎなかった」とアメリカ軍側に記録されている。

[編集] ニュルンベルク裁判

ニュルンベルク裁判では一貫して無罪を主張した。

「私は戦争を望んでもいませんでしたし、それを始めもしませんでした。外交交渉によって戦争を阻止する為に全力を尽くしました。しかし、いったん戦いの口火が切られた後には、勝利のために全力を尽くしました。地球上の三大国が、他の国々と一緒に、私達に対して戦いを挑み、結局、私達は、圧倒的な敵の優位に屈しただけなのです。私は、私が行なったことで被告席に立っていますが、戦争手段によって、他国民を服従させようとか、彼らを殺害しようとか、彼らを略奪しようとか、彼らを奴隷としようとか、虐殺犯罪を犯そうと願って、行動したのではないと断言します。」(1946年8月31日のニュルンベルク国際軍事法廷(NMT)最終陳述)

ホロコーストに関しては、自分は知らなかったと主張している。代父エーペンシュタイン伯爵をはじめとして、ゲーリングにはユダヤ人の友人がおり、彼が個人的にはユダヤ人に対する差別感情を持っていなかったのは間違いないとされている。また一部報告を受けた事は認めたが、「その数が余りに膨大なために信じなかった。また数百万のユダヤ人虐殺は技術的に不可能だ」と裁判では主張している。たしかに、国民や幹部軍人のほとんどがユダヤ人虐殺の事実は知らなかったのだが、彼ほどヒトラーに近い人間でナチス党の古参幹部が知らなかったとの主張を、あまり信じる人はいない。また彼は他民族に対する抑圧や、文化財の押収も「イギリスやフランス以上の責任は」なかったと主張した(現にナチスはエジプトの独立運動を軍事的理由で支援している)。法廷では彼の雄弁な主張に対し、多くの検事がたじたじになるなか、イギリスの検事がドイツ人による証人を用いて有力な攻撃を行い、彼の敗北を決定づけた。

戦争に関して、彼はこう証言している[27]

「……もちろん、国民戦争を望みませんよ。運がよくてもせいぜい無傷で帰って来る位しかない戦争に、貧しい農民が命を賭けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じ事です。政策を決めるのはその国の指導者です。そして国民は常に指導者の言いなりになるように仕向けられます。
……反対の声があろうがなかろうが、人々を政治指導者の望むようにするのは簡単です。
国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。そして国を更なる危険に曝す。このやり方はどんな国でも有効ですよ。」

裁判中にゲーリングのモルヒネ中毒は治癒し、病的な肥満も解消され、戦時中の無気力ぶりから一転した自信満々の態度で、勝利者のように堂々と陳述している。しかし判決は絞首刑に決まり、ゲーリングは絶望した。死刑をたとえ容認したとて軍人らしい銃殺刑が許されず絞首刑が宣告されたためだった。この後、厳しい監視のなかで、服毒自殺を行い刑の執行は不能となった。

[編集] 自殺

自殺後

執行の当日1946年10月15日、ゲーリングは、青酸カリカプセルを飲み込んで自殺した。青酸カリをどこから手に入れたかは長い間歴史の謎とされてきたが、2005年2月7日、当時19歳の看守だった元アメリカ陸軍兵士が、「毒物を渡したのは自分だ」とロサンゼルス・タイムズに名乗り出た。証言によると“街角で出会ったドイツ人女性から2人のドイツ人男性に引き合わされて「ゲーリングは病気で薬が必要」と説明を受け、カプセルを忍ばせた万年筆を渡され、これを薬と信じてゲーリングに渡した”という。元兵士は懲罰を恐れて長期間黙っていた。

諸君は我らの遺骨をいつの日か大理石に納めるだろう」と生前語っていたゲーリングだが、遺灰はイザール川の支流に撒かれた。

またゲーリングは、刑が確定した直後、面会に訪れた幼い娘の手を取って泣いたとも伝えられており、この事から重光葵は、彼が死亡したとの一報を受けて、「男泣く 淋しき秋や ゲーリング」と歌に詠んだ。

[編集] 人物像

ゲーリングの軍服
ゲーリング夫妻の結婚式

[編集] 性格

第一次世界大戦での英雄であり、野心にも富んでいたが、政治的能力には欠けていた。たとえばヨーゼフ・ゲッベルスはその日記で、ゲーリングの事を“無能だ”と徹底的に非難していた。ヒトラー政権でも彼は徐々に浮き上がり、実際の政治面や軍事面での影響力は徐々に弱くなっていった。

また、彼はモルヒネ中毒者であり、戦時中にかけて症状が悪化していった。アルベルト・シュペーアは、挙動不審でかなり傲慢な性格であったと著書に残している。また、松岡洋右が彼の屋敷を訪れた際、通訳シュミット(de:Paul-Otto Schmidt)に「海外では彼は狂人だと言われているのをご存じか?」とささやいている。

しかし、ニュルンベルク裁判時には、モルヒネ中毒を克服し、それまでのゲーリングとは別人であるように堂々と振舞い、死刑宣告を受けても微動だにしないほど落ち着き払っていたという。シュペーアは「元帥の時にこの精神力があれば」と語り、支持者達は彼を「太った鋼鉄」と賞賛した。

[編集] 貴族趣味

貧しい青年時代を送ったヒトラーとは対照的に、裕福な育ちを反映して貴族的で豪華な生活を好んだ。派手好きな性向は時に幼児的なほど大胆で単純なものであったが、ドイツ国民にはしばしば「憎めない奴」という一種の好印象さえ与えた。亡き妻カリンを偲んで建てたベルリン郊外の豪邸「カリンハル」はサウナ映画館・トレーニングジム・迎賓ホールなどを備えた宮殿のような館だった。ペットライオン「ツェーザー」や巨大鉄道模型、特注のメルセデス・ベンツホルヒオープンカーの装飾が施されたルガーP08もまたゲーリングの派手好きな性向をさらけだすおもちゃのひとつだった。また彼は貴族的な趣味として狩猟を好んだ。専用の猟場を持ち、空軍の部下にも自分の猟場とそこの獲物を提供している。彼の狩猟熱に親衛隊の隊長ヒムラーは「あんな可愛い目をした鹿を撃ち殺すなんて彼は残酷だ」と眉をひそめたという。

[編集] 華美な生活

また、服飾に対する執着も非常に強く、何種類もの制服や前近代的なほど華美な服装は、しばしば周囲の物笑いの種となった。ナチ政権幹部達と共に写っている写真でも、独特の白い軍服(ゲーリング自らがデザインしたとも伝えられている)を着用しているのはゲーリングだけで、他の政権幹部の服装とは明らかに浮いている。ゲーリング自身は「私はルネサンスの人間なのだ」と語っている。美食家であったためにまるまると太っており、減量に取り組んだこともあったが失敗している。

1935年4月10日の女優・エミー・ゾンネマンとの結婚式は国を挙げた盛大なもので、3万の空軍将兵・最新鋭の戦闘機隊を動員して一大スペクタクルを演出し、私事では質素なヒトラーに代わって国民の虚栄心を満足させた。

戦時中も華美な生活は止まず、権力の中枢から排除されるとその分一層奢侈への嗜好を強めていった。パリに出かけては親衛隊がユダヤ人から没収した美術品をかき集め、「国家社会主義の使命」として最良の美術工芸品の私物化に励んだ。中にはいわゆる退廃芸術とされる作品もあったが、そのような美術品も密かにムッソリーニと交換したりしている。

[編集] 実直な女性関係

ゲーリングの生活は退廃的、享楽的な色彩で彩られているが、女性関係に関しては実直で夫人以外の女性と関係を持つことはなかった。ヨーゼフ・ゲッベルスをはじめとして女性スキャンダルが多いナチス指導者達のなかでは珍しいが、これはゲーリングの一種の騎士道趣味によるものと思われる。

ゲッベルスとの女性に対する接し方の違いが如実に現れているのは映画監督のレニ・リーフェンシュタールをめぐる話と思われる。記録映画『オリンピア』の撮影をことごとく妨害して泣かせてしまったゲッベルスに対し、ゲーリングは泣いている彼女を慰めた。

[編集] 映画

映画『魔王』(フォルカー・シュレンドルフ監督 ジョン・マルコヴィッチ主演 1996年独仏英)に登場するゲーリング(フォルカー・シュペングラー)には、彼のバロック的な奢侈を好む側面がよく再現されている。

なお、チャップリンの映画『独裁者』でトメニアの独裁者アデノイド・ヒンケル(役:チャップリン)の側近として登場するヘリング元帥(役:ビリー・ギルバート)は、ゲーリングのパロルである。映画でのヘリングは、地位こそ高く、虚栄心の塊ではあるが、行動では失敗ばかり繰り返し、ヒンケルからも侮られるという、喜劇的に誇張された人物として描かれている。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 脚注・出典

  1. ^ a b c d 『図解第三帝国』41ページ
  2. ^ 『鉄十字の騎士』33ページ
  3. ^ 『ゲシュタポ・狂気の歴史』51ページ
  4. ^ a b 『ヒトラーの共犯者 上』88ページ
  5. ^ a b 『ゲシュタポ・狂気の歴史』52ページ
  6. ^ a b 『ヒトラーの共犯者 上』89ページ
  7. ^ a b c 『ゲシュタポ・狂気の歴史』53ページ
  8. ^ 『ヒトラーの共犯者 上』92ページ
  9. ^ a b 『ゲシュタポ・狂気の歴史』57ページ
  10. ^ 『ヒトラーの共犯者 上』93ページ
  11. ^ 『ヒトラーの共犯者 上』94ページ
  12. ^ 『ゲシュタポ・狂気の歴史』58ページ
  13. ^ 『ゲシュタポ・狂気の歴史』59ページ
  14. ^ 『ヒトラーの共犯者 上』95ページ
  15. ^ 『ゲシュタポ・狂気の歴史』60ページ
  16. ^ 『ヒトラー全記録』221ページ
  17. ^ 『鉄十字の騎士』46ページ
  18. ^ 『ヒトラー全記録』233ページ
  19. ^ a b 『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』(学研)114ページ
  20. ^ 『ゲシュタポ・狂気の歴史』81ページ
  21. ^ 大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)90ページより
  22. ^ 『髑髏の結社 SSの歴史(上)』161ページ
  23. ^ a b c 『ドイツ史〈3〉1890年~現在 』(山川出版社)264ページ
  24. ^ リチャード・オウヴァリー著『ヒトラーと第三帝国』(河出書房新社)58ページ
  25. ^ 『ドイツ史〈3〉1890年~現在 』(山川出版社)236ページ
  26. ^ a b 『ドイツ史〈3〉1890年~現在 』(山川出版社)237ページ
  27. ^ Gilbert, G. (1995). Nuremberg Diary. New York: Da Capo Press. pp. 278–279. ISBN 0306806614

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ウィキメディア・コモンズ
軍職
先代:
(新設)
ドイツ空軍総司令官
1935年 - 1945
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プロイセン州首相
1933年 - 1945
次代:
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