ヘンリエッタ・マリア
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| ヘンリエッタ・マリア Henrietta Maria of France |
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| イングランド王妃・スコットランド王妃 | |
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| 在位 | 1625年3月27日 - 1649年1月30日 |
| 別号 | アイルランド王妃 |
| 出生 | 1609年11月25日 |
| 死去 | 1669年9月10日 フランス、カロンブ城 |
| 埋葬 | サン・ドニ大聖堂 |
| 配偶者 | チャールズ1世 |
| 子女 | チャールズ2世 メアリー・ヘンリエッタ ジェームズ2世 ヘンリエッタ・アン |
| 王朝 | ステュアート朝 |
| 父親 | アンリ4世 |
| 母親 | マリー・ド・メディシス |
ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(Henrietta Maria of France, 1609年11月25日 – 1669年9月10日)は、イングランド王チャールズ1世の王妃。フランス名アンリエット・マリー・ド・ブルボン(Henriette Marie de Bourbon)またはアンリエット・マリー・ド・フランス(Henriette Marie de France)。チャールズ2世とジェームズ2世の母。
目次 |
[編集] 生い立ちから結婚まで
1609年11月25日にパリのルーヴル宮殿でフランス王アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスとの第6子として誕生した。ルイ13世は兄に当たる。1歳で父アンリ4世が暗殺され、厳格なカトリック教徒だった母によって育てられた。このためアンリエット自身も長じて熱心なカトリック教徒となるが、このカトリック信仰はイングランドにおいて大きな軋轢を生むこととなる。
そんな彼女に縁談が持ち上がったのは1623年のことである。相手はイングランド王ジェームズ1世の息子で9歳年上のチャールズ王太子(のちのチャールズ1世)であった。当初、チャールズの縁談は、スペイン王フェリペ3世の王女マリア・アナとの間で持ち上がっていた。しかし、この縁談の交渉のためマドリードに派遣されていたジェームズ1世の寵臣バッキンガム公の傲慢な振る舞いがスペイン側の反感を買い、交渉が決裂したのである。そこでアンリエットに縁談が回ってきたのだった。縁談は無事まとまり、1625年6月13日に2人は正式に結婚した。アンリエット15歳の時のことである。
[編集] 結婚生活と9人の子供達
結婚当初のチャールズ1世とヘンリエッタの関係は、王妃に随行してフランスからやってきた女官や侍従達をバッキンガム公が1626年8月に強制帰国させたことによって、ぎくしゃくしたものであった。しかしバッキンガム公が1628年8月に暗殺されると、王は王妃を溺愛するようになり、政略結婚とは思えぬ幸福な夫婦関係を築き、以下の9人の子を儲けた。
- チャールズ・ジェームズ(コーンウォール公)(1629年3月13日) 出産直後死亡。
- チャールズ2世(1630年5月29日 - 1685年2月6日)
- メアリー・ヘンリエッタ(1631年11月4日 - 1660年12月24日)
- 1648年にオラニエ公ウィレム2世と結婚。ウィリアム3世の母。
- ジェームズ2世(1633年10月14日 - 1701年9月16日)
- エリザベス(1635年12月29日 - 1650年9月8日)
- アン(1637年3月17日 - 1640年12月8日) 3歳で病死。
- キャサリン(1639年1月29日) 出産直後に死亡。
- ヘンリー(グロスター公)(1640年7月8日 - 1660年9月18日) 天然痘で死亡。
- ヘンリエッタ・アン(1644年6月16日 - 1670年6月30日)
- オルレアン公フィリップ妃
[編集] カトリック信仰とその政治問題化
ヘンリエッタは外交特権として彼女および彼女の家臣(修道士など聖職者含む)については、イングランド国内で禁じられたカトリック信仰を許されていた。このためヘンリエッタは王宮にある自分の礼拝堂でのミサなどでは、礼拝堂を開放してロンドンに住む隠れカトリック教徒を儀式に参加させていた。さらに宮廷では王妃に影響された女官や貴族女性たちが、質素で味気ない国教会よりも、荘厳できらびやかなカトリックの儀式・信仰に魅かれてカトリックに改宗することが頻繁に起きた。
また夫のチャールズ1世が当時の国際関係を重視してローマ教皇庁との断交状態を解いたのも、ヘンリエッタの進言によると国内では受け取られた。プロテスタントのイングランドではカトリックを公に信仰する王妃の態度に批判が相次ぎ、特にピューリタンの勢力がこれに強く反発した。ピューリタンは王妃を中心とするカトリック勢力が国王を利用してイングランドを再カトリック化しようとしていると警告し、プロテスタント国家体制が危機にあると社会に意識させていった。こうした危機意識が、のちに内乱(清教徒革命)を起こす引き金の一端となったと考えられる。
内乱が勃発すると、議会派の憎悪の的となっていたヘンリエッタは、1642年に王家のメンバーとしては一番早く国外へ脱出した。パリのルーブル宮で亡命生活を送り、1649年この地で夫チャールズ1世の処刑を聞かされた。1660年イングランドがチャールズ2世を迎えて王政復古時代に入ると、王母として帰国し、サマセット・ハウスに居を構えて余生を送った。晩年も礼拝堂を開放していたが、お付きの修道士には、ロンドン民衆がテロリストの代名詞として憎悪するイエズス会を避け、オラトリオ会及びカプチン会から選んでいた。
夫チャールズのいないイングランドは居心地が悪く、1665年にはフランスに帰国し、カロンブに移り住んだ。その後、1669年8月31日に死去した。
[編集] 秘密結婚
ヘンリエッタ・マリアの夫、チャールズ1世は生涯に関係した女性はヘンリエッタのみであったとされているが、ヘンリエッタは夫の死後、自身の寵臣セント・オールバンズ伯ヘンリー・ジャーミン(1604年 - 1684年)と秘密結婚をしたとされている(森護著「英国史のティータイム」)。
ジャーミンは、ヘンリエッタがイングランドへの輿入れが決まった際、駐フランス大使の御用係としてフランスに滞在していた。その時にヘンリエッタの侍従次長に抜擢され、それ以後、内戦中もフランスに亡命した彼女に仕え、王政復古と共にイングランドへ帰国している。しかし、ヘンリエッタ自身、夫チャールズと結婚し、内戦が起こるまでの間が最も幸せであったと回想している。
最終更新 2009年11月8日 (日) 11:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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