ヘンリ・トイヴォネン

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ヘンリ・トイヴォネンHenri TOIVONEN,1956年8月25日 - 1986年5月2日)は、フィンランド・ユバスキラ出身のラリードライバー。血液型はRh+のO。父親のパウリ・トイヴォネン、弟のハリ・トイヴォネンはともにラリードライバーであった。これといった愛称はないが、弟のハリはヘンカと呼んでいる。妻と2人の子供がいた。

WRCで通算3勝しか挙げていないにもかかわらず、長年史上最年少勝利の記録を保持したこと、全力を尽くしたドライビング、そして悲劇的な最期なども相まって「伝説のラリードライバー」「夭折の天才」として世界的にも語り継がれ、また日本でも特別な存在として扱われている。

あまり口数の多い人間ではなかったこともあり、人柄についてはあまり知られていないが、実弟ハリいわく相当の頑固者で、ラリーに自身の全てを傾けていた人物であったらしく、その走りは常に全開、後続といかに差が開いていても手を抜くことなく走り続けたという。そして、未だ誰も乗りこなせたものがいないじゃじゃ馬、ランチア・デルタS4を乗りこなせた唯一の人物である(マルク・アレンですら性能の4-6割しか出せていなかった)。現在様々なドライバーが腕を競うレース・オブ・チャンピオンズは、ミシェル・ムートンがトイヴォネン追悼のために開催したイベントである。

目次

[編集] 概略

父パウリの影響を受け、早々からラリードライバーの道を目指していたヘンリ・トイヴォネンは、カートミカ・ハッキネンに後にこのカートを売った)、ツーリングカーなどのサーキットレーシングを経て、1975年の1000湖ラリーにてWRCデビューを果たす。初優勝はタルボサンビーム ロータスに乗り参戦した1980年のRACラリー。当時トイヴォネンは24歳。WRC史上最年少での勝利であり、2007年まで破られていない記録であったが、2008年2月10日、ラリー・スウェーデンにてヤリーマティ・ラトバラが22歳11か月で勝利したことにより、破られた。しかし、この記録が破られても、ラトバラの搭乗車両が最強と謳われることもあるワークスマシンであることなど、トイヴォネンの実力を否定するものではない。

その後オペルポルシェと渡り歩き、1985年ランチアワークスと契約。最も大きなチームとの契約であったが、これが最後の契約となってしまう。

[編集] 1986年5月2日 ツール・ド・コルス SS18 コルテ-タベルナ

1985年のRACラリーで勝利し、そして1986年ラリー・モンテカルロで圧倒的な勝利を挙げたトイヴォネンは、ツール・ド・コルスへと臨むこととなる。しかし首位でレグ1を終えたトイヴォネンは「このラリーはすべてがうまくいっているのに、なにかおかしい。問題が起きたら、きっと死ぬだろう」と、自らの運命を暗示するかのような言葉を残している。

5月2日、レグ2。SS18 コルテ-タベルナ。スタートから7km付近の左カーブでトイヴォネンの乗ったランチア・デルタS4はコースオフ、そのまま崖下へ転落。車体側面に木の幹が貫く状態となり炎上する。後続のブルーノ・サビーとミキ・ビアシオンは車を停め救助を試み、それぞれのコドライバーが必死に救援を求めるも、周囲は木の枝で覆われ脱出は不可能に近く、マグネシウムホイールを装着しケブラー樹脂とプラスチックで覆われたデルタS4の車体は瞬時にして焼け落ち、救護班が駆けつけた頃には既にパイプフレームとサスペンションを残し全焼。ヘンリ・トイヴォネンと、この年からコドライバーを勤めていたセルジオ・クレストは帰らぬ人となった。

さほどきつくないカーブであったにも関わらず、何故トイヴォネンがコースオフしたのか、今となっては知るよしもない。後日、ワルター・ロールは「トイヴォネンはインフルエンザを発症し薬を飲んでいた」と証言したが、事故との因果関係は不明である。ただ、問題のカーブにはブレーキ跡が一切なかったということだけは確かである。事故現場は、数年にわたって黒い焦げ跡が残っていたという。

事故の直前、トイヴォネンはツール・ド・コルス特有の狭く曲がりくねり、片方は山、もう片方は深い崖という危険極まりないコースと、グループBカーの相性の悪さを訴えていた。「この危険なコースにこの車はあまりにも速すぎる」と。くしくも前年、ツール・ド・コルスではランチア・ラリー037で参戦していたアッティリオ・ベッテガが衝突事故で亡くなっている。


現在、ツール・ド・コルスにおいてコルテ-タベルナのステージは使用されていない。そして、事故現場の近くには、トイヴォネンとクレストへ向けた小さな慰霊碑が建てられており、今なお多くのラリー関係者およびラリーファンが訪れている。

[編集] グループBの終焉

1985年のベッテガの死亡事故、アルゼンチン・ラリーでのアリ・バタネンの重傷事故、1986年のラリー・ポルトガルにおけるヨアキム・サントスによる多数の観客死傷事故などがあっても、グループB廃止論は表沙汰にはならなかった。しかし、トイヴォネンおよびクレストの死という事態を受け、FISAは緊急に会議を開き、2日という異例の速さで以後のグループBカーのホモロゲーション申請を却下し、1986年をもって世界選手権におけるグループBカテゴリーの廃止を決定した。

[編集] 戦績

ヘンリ・トイヴォネンのWRCでのキャリアは40戦3勝、11回の表彰台と183回のステージトップタイム、そして22回のリタイアを記録している。キャリアが頂点に達した瞬間に迎えた死であるため、生きていればさらに記録が伸びたであろうとする見方が強い。 また、事故が起きたSSの1つ前のSSでは、他の天才たちを抑えて、そのSSだけで2位との差を46秒も広げるという神業をやっている。

[編集] サーキットレースでの活躍

ヘンリ・トイヴォネンはグラベル、ターマックのどちらでも走れるドライバーであったが、これは前述のとおりサーキットでの経験を積んだのちにラリーに進んだが故である。彼はラリーを選ぶかサーキットを選ぶかで非常に悩んだという。

ラリー参戦後も、何回か世界耐久選手権(のちのスポーツカー世界選手権)に出場していた。このときトイヴォネンが所属していたチームの監督、エディ・ジョーダンはトイヴォネンの走りをアイルトン・セナと比較しても「信じられないものだ」と賞賛し、トイヴォネンの死後、F1でもトイヴォネンはきっと成功していただろうと推測した。

こんな逸話も残っている。1986年、F1モナコGPが開催されるモンテカルロ市街地コースをランチア・デルタS4でエキシビジョン走行した際、トイヴォネンは当時の予選グリッドで6位に相当するタイムを出した。

[編集] 日本での影響

  • 漫画家のサラ・イネスはサラ・イイネス時代の作品「大阪豆ゴハン」の中でヘンリ・トイヴォネンをモデルにした人物を登場させている。この作品のほとんどの登場人物は1980年代から1990年代のラリー関係者をモデルにしている。また、某モータースポーツ誌の編集部に現れてはトイヴォネンの写真を失敬していくという奇妙な行動が目撃されている。なお、「水玉生活」単行本裏表紙は、ランチア・ラリー037とヘンリのイラストである。

最終更新 2009年9月3日 (木) 15:23 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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