ベア川の虐殺

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ベア川の虐殺
Bear River massacre
南北戦争インディアン戦争)中
1863年1月29日
場所 ワシントン準州南東部(現在のアイダホ州フランクリン郡
結果 アメリカ陸軍の勝利
衝突した勢力
アメリカ陸軍 ショショーニ族インディアン
指揮官
パトリック・エドワード・コナー ベアハンター酋長 †
戦力
200名の志願歩兵と騎兵 500名の宿営地、女性子供を含む
被害者数
戦死27名、負傷40名 200ないし400名

ベア川の虐殺(ベアかわのぎゃくさつ、英:Bear River massacre、またはベア川の戦い、英:Battle of Bear River、またはボア・オゴイの虐殺、英:Massacre at Boa Ogoi)は、1863年1月29日に、当時のワシントン準州南東部ベア川とビーバー・クリーク(現在のバトル・クリーク)の合流点で、アメリカ陸軍とショショーニ族インディアンとの間に起こった戦闘である。その場所は現在、アイダホ州フランクリン郡プレストン市近くに位置する。アメリカ陸軍分遣隊はショショーニ族酋長ベアハンターに対抗するベア川遠征の一部としてパトリック・エドワード・コナー大佐に率いられた。

目次

[編集] 背景と根本原因

ショショーニ族の典型的な住居、19世紀後半

当初「スーフベオゴイ」(ショショーニ語でヤナギ渓谷)と呼ばれていたキャッシュ・バレーは、伝統的に北西部ショショーニ族の狩猟場であり、特に穀物や草の種の集積場であると同時に、ウッドチャックやジリスのような小動物とシカエルクバッファローのような大型動物両方の狩猟、さらには川からのマスも獲れる場所だった[1]。この山岳渓谷は毛皮交易業者や罠猟師の注意も惹き付け、ジム・ブリッジャージェデッドアイア・スミスのような罠猟師や探検家がこの地域を訪れていた。「キャッシュ・バレー」という名前は、これら罠猟師が周辺の山脈における狩猟行の中心準備地域としてこの渓谷にその毛皮と物資の倉庫(すなわち毛皮の「キャッシュ」貯蔵所)を置いていたという事実から生まれた[2]

罠猟師達はこの地域に大変感銘を受けたので、ブリガム・ヤングモルモン開拓者の当初定着の場所として検討するよう推薦したくらいだった。ヤングはここではなく、ソルトレイク・バレーを選定したが、それでもモルモン開拓者はキャッシュ・バレーにも移動することになった[3]1847年7月31日には既に、約20名のショショーニ族代表団がモルモン開拓者と会見してユタ北部の土地所有権主張について検討した[4]

[編集] 移民の圧力によって生じたショショーニ族の飢餓

カリフォルニア・トレイルオレゴン・トレイルが確立され、1847年にはソルトレイクシティが設立されたことで、ショショーニ族は西進するアメリカ人移民と常に接触するようになった。1856年までに、ウェルズビルを初めとしてキャッシュ・バレーでは初の恒久的開拓地と農場が造られ、次第に北方へ延びていった[5]

当時ブリガム・ヤングが打ち立てた重要な政策によって、モルモン開拓者は周辺の先住インディアン部族と友好的な関係を築き上げることが推奨され、特に「戦うよりも食べさせる」政策となった[6]。しかし。この政策があったとしても、重要な食糧資源は消費されてしまい、開拓者達が取り上げる地域のために次第にショショーニ族は食料生産が限界のある地域に押しやられることになった。さらに、西へ向かう途上にある開拓者が食料調達したり狩猟を行うことで、ショショーニ族からさらに資源を取り上げることになった。1859年には既にユタ準州インディアン問題監督官ジェイコブ・フォーニーが認識するところとなり、「インディアンは...白人が入ってくることによって貧窮化が進んだ」と記していた。フォーニーはさらに、キャッシュ・バレーにインディアン居留地を造って、ショショーニ族にとって基本的な資源を守ることを提案した。この提案をアメリカ合衆国内務省とその上官は無視した[7]。ショショーニ族は絶望的に飢えてきており、報復のためではなく、生き残るために近くの農場や牛牧場を襲うようになった[8]

1862年早春、ユタ準州インディアン問題監督官ジェイムズ・デュアン・ドティはキャッシュ・バレーで4日間を過ごし、「インディアンはかなりの数がおり、飢えて貧窮した状態にある。私の前任者によって彼等のために何の対策もなされていないし、衣類や食料も無い。...インディアンの状態は生きていくために郵便駅に泥棒に入りかねない状況だ」と記した[9]。ドティは食料を買い求め、それを緩りと分配した。インディアン達に家畜を与えれば、乞食ではなく牛飼いにすることができると示唆した。

キャッシュ・バレーの出来事を最終的に沈静させるものとして、1862年7月28日、キャッシュ・バレーの真北にあるモンタナ準州南西部の山岳地、グラスホッパー・クリークでジョン・ホワイトが金を発見した[10]。このことで、地域に最も近い重要な物品と食料の供給点であるソルトレイクシティと鉱山キャンプの間にキャッシュ・バレーの中央を抜ける移民と物資供給の道ができた[11]

[編集] 南北戦争の勃発

1861年に南北戦争が始まったとき、エイブラハム・リンカーン大統領は、このとき州になっていたカリフォルニア州がアメリカ合衆国の他の部分から切り離されるのではないかと心配した。リンカーンは議会の承認を得て、カリフォルニア州民から数個連隊を起ち上げ、西部と東部を繋ぐ郵便配送経路と通信線を守るために資するよう具体的な命令を出した[12]。さらにブリガム・ヤングがユタ準州は連邦政府に対して忠実なままであると電報を打って保証したにも拘わらず、リンカーンも陸軍省もモルモン教徒がアメリカ合衆国に忠実であるかを信用しなかった[13]ユタ戦争やマウンテン・ミードーズの虐殺でモルモン教徒がとった行動はまだ軍隊参謀達の記憶の中に鮮明であり、連邦政府に対してではなくブリガム・ヤングの要請に応えたように見えるモルモン開拓者からなるかなり大きな民兵隊については言うまでもなかった[14]

パトリック・エドワード・コナー大佐[15]がカリフォルニア第3志願歩兵連隊の指揮に就き、山越えの郵便配送経路を守り、地域の平和を保つという具体的命令で部隊をユタに移動させた[16]。ユタに到着すると、モルモン神殿建設地とソルトレイクシティ中心街が見通せる場所にダグラス砦(現在のユタ大学があるところに隣接)を部隊の主要作戦基地として設立した[17]

[編集] キャッシュ・バレー開拓者に対する警告と紛争

1862年の夏と秋には幾つかの出来事が起こりこれらがベアハンター酋長とコナー大佐の間の衝突に繋がっていった。これらのできごとを一つ一つ見ていくと重要では無いように見えるが、一つに纏めるとミシシッピ川の西側ほとんど全体に関わる広範な闘争の姿が見えてくる。この時期アメリカ合衆国全体の注意は東部州で進展する戦い(南北戦争)に向けられていた。現代の歴史家達は、2つの異なる準州司法権(ワシントン準州とユタ準州)の境界が曖昧な地域で事件が起こったために、しばしばこれらの事件を見過ごしてきた。各事件は地理的に近接した所で起こったが、それらを取り扱う管理中心は互いに1,000マイル (1,600 km) 以上離れていた。実際に現在のアイダホ州フランクリン近辺や紛争の一般的な場所はユタ準州内と考えられ、フランクリンの住民は1872年までユタ準州議会に選出した代議員を送り、ユタ州キャッシュ郡の政治に参加していた。その1872年に1つの測量チームがフランクリンなどは実際にはアイダホの中にあることを指摘した[18]

[編集] パグウィーニー

サミット・クリーク(現在ではユタ州スミスフィールド)のある住人がその馬が居なくなっていることが分かり、サミット・クリークで釣りをしていた若いインディアンを馬を盗んだ廉で告発した。イギリス人移民でサミット・クリークの初めの住人であるロバート・ソーンリーは、インディアンの若者がクリークに浸けられヤナギに結びつけられたビクの中にまだ生きている魚を持っていたので、馬を盗み、それを隠し、また釣りに戻ってくる時間は無かったはずだと指摘して、若者を弁護した。しかし、地元の陪審はいずれにしてもそのインディアンの若者を絞首刑にした。この若者の名前は地元の歴史の中でパグウィーニーと伝えられてきた。後の情報では、パグウィーニーはショショーニ語で魚という意味であり、この若者は単に「私の魚を見ろ」か「私は釣りをしているだけだ」と言った可能性が強い。

このインディアンの若者は地元のショショーニ族酋長の息子であることが分かり、数日の内にインディアン達は近くの渓谷で木材を集めていたメリル家の1組の若者を殺すことで報復した[19]

[編集] ホール砦近くでの虐殺

1859年の夏、ミシガン州からの約19人の開拓者隊がホール砦に近いオレゴン・トレイルを旅していて、ショショーニ族と考えられる1群の人々がこの隊を攻撃した。銃撃戦は夜に起こり開拓者達の幾人かが殺され、生き残った者はポントヌッフ川に沿って逃れ、ガマの穂やヤナギの木立の中に隠れた。

3日後、ワラワラ砦のリビングストン中尉に率いられる竜騎兵1個中隊がこれら生存者達に出会って、事件の正式な調査を行い、攻撃の残忍さに関する記録を作った[20]

[編集] ルーベン・ヴァン・オーナムとプロビデンスの戦い

アメリカ軍に救出された"ルーベン・ヴァン・オーナム"の写真(前列中央の少年)。左は叔父のザキアス

1860年9月9日、イライジャ・オッターがオレゴン・トレイル上で1群の移民を引率しているときに、バノック族とボイシ・ショショーニ族と考えられる1群の者達に攻撃された。これらのインディアンを沈静化させようと努めたにも拘わらず、攻撃が続き移民隊のほとんど全員が殺され、家畜が追い散らされた。アレクシス・ヴァン・オーナム、その家族および他の約10人は死を避けるために所有物も放り出して逃げ出し、近くの下藪に隠れたが、虐殺されるだけだった。後に彼等はF・T・デント大尉の率いるアメリカ軍1個中隊に発見された。この中隊の士官の一人、マーカス・リノ中尉がヴァン・オーナム家の6人の切り刻まれた遺体に出くわした。ヴァン・オーナム家の子供達のうち4人は明らかに攻撃してきた戦士達に捕虜として連れて行かれていた[21]

この事件の直接の結果として、現在のアイダホ州ボイシができた場所近くに軍隊の砦が築かれ、そこでジョージ・ライト大佐は5個中隊を維持していくことができる軍事基地を造るために連邦政府に15万ドルを要請した[22]

アレクシス・ヴァン・オーナムの兄弟であるザキアスはオレゴン・トレイルに行ってきたばかりのある親戚から、ザキアスの甥と同じ年頃の小さな白人少年が北部ショショーニ族の集団に連れて行かれ、キャッシュ・バレーに居るらしいという話を聞いた[23]。ザキアスはそれが甥のルーベン・ヴァン・オーナムだろうと考え、友人の小集団を集め、準州政府から何らかの援助を得るためにソルトレイクシティに行った[24]。ソルトレイクシティに着くと、ダグラス砦にコナー大佐を訪ね、その甥を取り戻すための援助を請うた。コナー大佐は援助することに同意し、エドワード・マクギャリー少佐の指揮する騎兵分遣隊をキャッシュ・バレーに派遣し、プロビデンスの町近くでヴァン・オーナムと落ち合うように手配した[25]

ヴァン・オーナムはベアハンターが率いるショショーニ族戦士の小集団が居る場所を突き止めてから、間もなくマクギャリーの部隊と合流し、ショショーニ族が近くのプロビデンス渓谷に後退するのを追った[26]。マクギャリーは、「見付けることのできたインディアンなら誰でも殺せ」という命令を出していた[27]。ショショーニ族が渓谷の中で防御的陣地を構築した後で、ショショーニ族とアメリカ軍の間の小競り合いが約2時間続いた[28]。その後、ベアハンター酋長は丘に登り白旗を振って降伏の合図を送った[24]

ベアハンター酋長と約20名の戦士達は捕虜になって、プロビデンス近くのアメリカ軍宿営地に連れて行かれた。ベアハンター酋長は白人の少年の所在を尋ねられたとき、その少年は数日前に遠くへ送られたと言った[27]。マクギャリーはベアハンターに対し、部族員数名を派遣してその白人少年と共に戻ってこさせ、その間ベアハンターは4人の戦士と共に人質にすると言い渡した。翌日の正午までにショショーニ族は小さな少年を連れて戻ったが、その少年はルーベン・ヴァン・オーナムの容姿書きに合致していた[26]。ザキアスはその少年を保護し、長い間行方が分からなくなっていた甥だと宣言して、少年をオレゴンの自分の家に連れ帰った[29]

ショショーニ族はこの行動に抗議し、その少年はフランス人毛皮罠猟師で、別のショショーニ族酋長であるワシャキーの姉妹の息子だと主張した。アメリカ軍はヴァン・オーナムと少年のことは放っておき、勝利を宣言して、コナー大佐には「人命も馬も些かも失われることなく」少年を救出したと報告した[30]。ベアハンター酋長はその後、キャッシュ・バレーの開拓者達に苦情を言い、開拓者達はアメリカ軍に対して自分達を助けることについて、より前向きであるべきだったと主張した。ベアハンター酋長とその部隊の戦士達と、約70名のキャッシュ・バレー民兵隊との間に紛争が起こった後で、開拓者達はその状況を解決するために「最良で最も安価な政策」として、2頭の牛と幾らかの小麦粉を提供した[30]

[編集] ベア川渡河

1862年12月4日、コナーはマクギャリーをキャッシュ・バレーへの新たな遠征に送り出したが、この時は以前に盗まれていた家畜をショショーニ族の宿営地から取り戻すことが目的だった。隠密に事を進めたにも拘わらず、ショショーニ族は宿営地を払いアメリカ軍が到着する前に逃亡することが出来、川の渡し場に繋がれていた船の綱を切っていた。マクギャリーはその部隊を川向こうに渉らせることができたが、馬はできなかった[11]。明らかに事態を察知していなかったショショーニ族4人が捕まり人質として拘束され、マクギャリーはもし家畜が翌日の正午までに返されなければ、これら4人は射殺しろと命じた。ショショーニ族酋長達はこれに反応するにキャッシュ・バレーのさらに北に移動することで応え、捕虜達は射撃班によって処刑され、その遺体はベア川に投げ込まれた[31]。「デザート・ニューズ」の論説では、この処刑がショショーニ族を最も敵対的で報復的なものにしてしまうという心配を表明した[32]

[編集] モンタナ・トレイルでの出来事

モンタナの鉱山キャンプとソルトレイクシティの間で荷物運搬業を営んでいたA・H・コノバーが、ショショーニ族戦士達の集団に襲われ、コナーに随行していた他の2人の男、すなわちジョージ・クレイトンとヘンリー・ビーンが殺された。この事件のあとでコナーがソルトレイクシティに到着したとき、「デザート・ニューズ」の記者に、ショショーニ族は「マクギャリー少佐とその部隊に殺された仲間の血に対して恨みを返す決心をし」、「十分に報復できたとみなす時までベア川の北岸で出会った白人全てを殺す」つもりだと告げた[33]

[編集] モンタナ・トレイルでの攻撃

コナーがキャッシュ・バレーに遠征することに繋がった最後の出来事は、やはりモンタナの道筋で8人の鉱山師集団が関わっていた。彼等は不運にもフランクリンの北、ショショーニ族主要冬営地からちょうど2マイル (3 km) 以内に入ってしまった。

この鉱山師達はモンタナ・トレイルの通常の道を下っていて、曲がり角を見過ごしベア川の西岸で沼地に突き当たり道に迷った。川は水深が深かったので渉れなかった。隊員のうち3人が泳いで川を渡り、リッチモンドに行って開拓者達から食料や案内人を得ようとした[34]。この3人が戻ってくる前に、残っていた隊員達がショショーニ族に襲われ、ワラワラのジョン・ヘンリー・スミスと何頭かの馬が殺された。リッチモンドの住人と3人の隊員が間もなく戻り、ジョン・スミスの遺体を見付けて、リッチモンド市の墓地に埋葬した[33]

鉱山師達は最終的にソルトレイクシティに向かった。その中の1人、ウィリアム・ベビンズが首席判事ジョン・F・キニーの前に現れ、ジョン・スミスの殺害について宣誓供述を行った。ベビンズはまた、鉱山から別の10人がソルトレイクシティに向かっている時に、スミスが殺される3日前に殺されたと報告した[35]。キニーはベアハンター酋長、ナピッチおよびサグウィッチの逮捕令状を発行し、準州保安官には「罪人であるインディアンを逮捕する」ためにコナー大佐の軍隊から助力を求めるよう命令した[33]

この法的書類は確かにコナーの動機を高める要因にはなったが、後に法的根拠はコナーがショショーニ族に対する遠征隊を発するのに厳密に必要なものではないと語った。作戦前に陸軍省に宛てたコナーの報告書は次のようだった。

私は、ここから140マイル (220 km) 北のベア川にいるインディアン大集団の宿営地に関する様々な情報源から受け取った情報を報告することを栄誉だと感じる。ショショーニ族はこの冬の間にロッキー山脈の東、ベア川の鉱山までこの渓谷にある開拓地をあちこち動いている数人の鉱山師を殺してきた。このインディアン達は過去15年間に山岳地郵便配送路で移住者を殺してきたのと同じ部隊の一部であり、かつこの前の夏に恐ろしい虐殺を行った主要人物と指導者達であることにも満足している。冬季気候で雪が深いために軍隊が遠征するには向いていない季節ではあるが、可能な限り彼等を懲らしめることにした。[36]

[編集] キャッシュ・バレーでの軍事行動

多くの意味でダグラス砦に駐屯する兵士達は戦闘に対して役に立たなくなっていた。兵士の間の規律の問題に加えて、小さな「反乱」もあり、カリフォルニア志願兵の大半による合同請願では、その給与の中から3万ドル以上を保留して、水路を東部州に向かう旅費に充て、「思慮深い局地戦の中で食料を食べたり凍えて死ぬよりも裏切り者を撃って国のために尽くす」ために使うことを要求していた。さらに彼等は「ポトマック川に行って撃たれるという『栄誉』のために」この金を喜んで遣うとも言っていた。この要請は陸軍省が辞退した[37]

1863年1月の大半、ダグラス砦の兵士達は北のショショーニ族に向かう長くなる遠征行のための準備をした。コナーは到着したときにショショーニ族を急襲できるよう、その遠征を秘密にして置くことも欲した。このために、部隊を2つの分遣隊に分け、キャッシュ・バレーまで行く間に定期的に落ち合うこととした。コナーの主要な思いは、マクギャリーが先の遠征で直面したように、ショショーニ族がアメリカ軍の到着する前であっても移動したり分散したりするという問題を繰り返さないことだった。

この軍事作戦に対する反応は様々だった。ジョージ・A・スミスは、公式の「末日聖徒イエス・キリスト教会の歴史」の中で次のように書いた。

コナー大佐はワシントン準州の金鉱に至る道で移住者を殺してきたインディアンを絶滅させる決心をした。数日の間に北へ向かって小さな分遣隊が出発していった。もしこの遠征が以前のものと同じ事をやるならば、友好的なインディアンを幾らか捕まえて殺し、罪有る悪党はその山岳の隠れ場に残ってしまう結果になる[38]

一方「デザート・ニューズ」はその論説で次のように述べた。

普通の幸運があれば志願兵隊は「彼等を掃討できる」だろう。この地域社会はそのような集団全てを除くことを望み、もしコナー大佐が、平和で法を守る市民の命を弄ぶろくでなし集団にたどり着くことに成功すれば、我々の義務を受けて喜ばしいことになるだろう[39]

ダグラス砦を最初に出発した部隊はサミュエル・W・ホイト大佐が指揮する約80名の歩兵中隊であり、15両の輜重車と2門の「山岳榴弾砲」を伴った。1863年1月22日に出発した[40]

第2の部隊はコナー大佐自らが率いる220名の騎兵であり、1月25日に出発した。この作戦固有の命令として、コナーは兵士のそれぞれに「40発のライフル銃弾と30発の拳銃弾」を持たせるよう命令した。この作戦全体では16,000発近い数になった。さらに榴弾砲には200発近い砲弾が準備された[41]。偽装工作の一部として、騎兵は夜に行軍し、歩兵は日中に動いた[39]。コナーには元連邦保安官でモルモン教徒の斥候、オーリン・ポーター・ロックウェルが付いた[42]

1月28日の夜、ホイト大尉の歩兵隊がフランクリン町近くに到着し、町の開拓者達から食糧補給を受けようとしていたショショーニ族3人を発見した。このショショーニ族は3つの袋に9ブッシェル(300リットル)の小麦を受け取っていた。ショショーニ族を援助していた開拓者、ウィリアム・ハルは後に次の様に言った。

我々は3頭の馬のうち2頭にそれぞれ3ブッシェルずつ乗せていた。...そのとき見上げると南から近付いてくるアメリカ軍兵士を認めた。私はインディアンの少年達に「あそこに『トクアシーズ』(ショショーニ語でアメリカ兵)が来ている。お前達は皆殺されるぞ」と言った。彼等は「恐らくトクアシーズも殺される」と答えたが、3頭目の馬に荷を乗せるまで待たずに、馬に跳び乗り3頭の馬を連れて遠くに消えた。[43]

これらショショーニ族が持っていた小麦袋は、後に第3カリフォルニア志願兵隊が翌日の進軍中に発見したが、これは明らかにショショーニ族が宿営地に戻ろうとしている間に落として行ったものだった。

コナー大佐はその夜にホイトと出逢い、急襲を行うために翌朝午前1時に行軍を開始する命令を出したが、その地域の斥候として地元の開拓者を雇おうとしたことで、実際には午前3時まで待つことになった[44]

この軍事行動はキャッシュ・バレーでも一年間で恐らく最も寒い時期に起こされた。地元の開拓者達はユタの北部でも通常ではないほど寒かったと言い、攻撃が始まった29日の朝はマイナス20 °F (-30 °C) だった可能性がある。何人かの兵士は凍傷や酷寒に起因する問題に罹り、第3志願兵連隊はダグラス砦を出たときのおよそ3分の2の勢力しかなかった[45]。この作戦の間兵士達に配給された食料の中には水筒に入れたウィスキーもあり、数人の兵士はこのウィスキーが攻撃前の夜に凍っていたと証言した[46]

[編集] ショショーニ族の戦闘準備

ショショーニ族の酋長達はコナー大佐の部隊と衝突する可能性について、意識しないはずは無いことが明らかであり、同時に幾らかの小さな準備が行われた。その大半は上記リッチモンドの住人との出来事に近いやり方で、周辺のモルモン教徒開拓者達から食料を集めることだった。

攻撃のときにショショーニ族が持っていた武器の大半は様々な小戦闘で捕獲したもの、毛皮罠猟師、白人開拓者達および他のインディアン種族と交易したもの、あるいは単に長年にわたって1つの世代から次の世代に受け渡されてきた骨董品だった[47]。明らかにそれらはアメリカ軍がカリフォルニア志願兵隊の兵士達に発給していた銃と比べて標準化されてもいないし、作りも好くないものだった。

ベアハンターとその他のショショーニ族酋長達は、まず一般的に守りやすい陣地を選ぶことに加えて、その宿営地周囲に防御的な手配を行った。ヤナギの枝を編んで即席の遮蔽物にし、ショショーニ族の陣地やその勢力を隠した。またビーバー・クリーク東岸やベア川沿いには一連の「射撃壕」を掘った[48]

おそらく最も皮肉なことは、キニー判事から逮捕令状が発行されていたサンピッチ酋長(逮捕令状で名指しされていた)が、北西部ショショーニ族のために休戦交渉を行う目的でソルトレイクシティに居たことだった。「サクラメント・ユニオン」の通信員は、「予言者(ブリガム・ヤングのこと)がサンピッチに、モルモン教徒はキャッシュ・バレーのショショーニ族から十分に痛い目に遭っており、さらに多くの血が流されるならば、モルモン教徒はアメリカ軍の「立場に立ち」彼等を助けるだろうと伝えた」と報告した[49]

コナーが戦闘に参加させる兵士の数を隠そうという偽装は成功したように見えたが、ショショーニ族はこれらの兵士達と直接武装闘争に及ぶことすら予測していなかった。その替わりに、交渉による決着の準備をし、酋長達がアメリカ軍の士官達と話し合って、理解に達することができると考えていた[48]

[編集] ベア川の戦い

戦闘が起こった場所。現在は史跡として登録されている

マクギャリー少佐と第2カリフォルニア騎兵隊の第1部隊が午前6時に戦場に到着した。ちょうど朝日が山陰から現れたときだった。そのとき気象条件と深い積雪のために、コナーが兵士達を戦闘隊形に付かせるまで幾らかの時間を要した。ショショーニ族宿営地から6マイル (10 km) 地点の雪の吹きだまりに遮られて、大砲が戦場に到着することは無かった[44]

サグウィッチ酋長は、その孫のモロニ・ティンビンブーの証言に拠れば、アメリカ軍が接近してきたときに、「あそこの尾根に何かが上がってきているように見える。雲のようだ。おそらく馬から発せられる蒸気だ。おそらく兵士達が話し合うときの蒸気だ」と言った[50]。それから間もなく、この出来事の第1砲が発せられた。

当初コナーはショショーニ族陣地に対して正面攻撃を掛けようとしたが、間もなくショショーニ族からの反撃に圧倒された。カリフォルニア志願兵隊が直接の戦闘で被害を被ったその大半はこの最初の襲撃時である。

コナーは一時的に後退して再集合させ、マクギャリーと幾つかの小部隊を派遣して、集落の両側と後方から攻撃するように仕向け、歩兵の1横隊はショショーニ族が戦場から逃げ出すのを遮るように立ち塞がるものとされた。

約2時間後、ショショーニ族の弾薬が尽きた。後の幾つかの報告に拠れば、戦闘の最中に何人かのショショーニ族が鉛を鋳て弾を作ろうとしているのが目撃され、その手に鋳型を持ったまま死んでいる者もいた。ショショーニ族戦士達の弾薬が尽きたとき、戦いは急速に虐殺に変わった。

[編集] アメリカ軍の虐殺と行動

ショショーニ族がトマホークや弓矢を使うことを含め、アメリカ軍と死に物狂いで戦うようになると、兵士達は自制も規律も全て失ったように見えた。大半の者が殺された後、兵士達は宿営地に入って女性を強姦し陵辱した。子供達の多くも撃たれて殺された。ある場合、兵士達は赤ん坊の踵を掴んで、「やつらの頭を殴って見付けられる固形物を叩き出した。」兵士に降伏を拒んだ女性は射殺された。一人の地元住人、アレクサンダー・ストーカーは、このとき多くの兵士が拳銃を抜いて至近距離からショショーニ族の者数人を撃ったと述べた。兵士達は手に入れられる物の大半を慎重に燃やした。特にショショーニ族が寝ていた住居を燃やし、まだ中にいた者も全て殺した[47]

[編集] 損失と直後の動向

ショショーニ族の死亡者数は大変大きなものだったが、幾らかの生存者もいた。最も有名なのはサグウィッチ酋長であり、残った生存者を集めて、その社会を生き残らせることができた。サグウィッチ酋長自身は手に2発の銃弾を受け、馬に乗って逃げ出したが、乗っていた馬も撃たれて死んだ。最終的に谷を駆け下り、ある熱水泉の近くでベア川に転げ込み、夜が来るまで木片に掴まって浮いていた。

サグウィッチの息子、ベシャップ・ティンビンブーは少なくとも7発の銃弾を浴びたがなんとかして生き残り、家族に救出されるまで生きていた。隊の他のメンバーはベア川のヤナギの木立に隠れ、あるいは死んだ振りをして生き延びた。アメリカ軍士官が戦いは終わったと考えた後に、兵士達はフランクリンに近い一時的な宿営地に戻った。このことで、サグウィッチ酋長やショショーニ族の生き残りは負傷者を回収し、まだ生きている者のために火をおこすことができた[51]

フランクリンの住民はその夜負傷した兵士達のために自分達の家を開放し、他の兵士達が寒さに曝されるのを避けるために教会の集会所に毛布や干草を持ち込んだ。コナーは幾人かのフランクリン住民を雇って橇を引っ張らせ、負傷兵をソルトレイクシティに連れ帰らせた。

カリフォルニア志願兵隊は5人の士官を含め27名を失った。ショショーニ族の部隊は200名ないし400名を失ったが、これには少なくとも90名の女性と子供が含まれており、アメリカ軍当局は死者272名と報告した。デンマークからの移民ハンス・ヤスパーソンが1911年に書いた自伝では、死体の間を歩いて493体のショショーニ族の死体を数えたと主張している。

1918年、サグウィッチの息子、フランク・ティンビンブー・ワーナーは「当時いた者の半分は逃げた」と言い、156名が殺されたとしていた。さらに2人の兄弟と1人の義理の姉妹は「生きており」、多くの者は後にユタ開拓地のワシャキー、ウィンドリバー・カントリーのホール砦居留地など他の場所で生活したとも付け加えた[52]

多くのインディアンは冬の間その幼い子供達を白人開拓者のところに置いて行くようになり、彼らの何人かは実際にモルモン教徒の家族となって、キャッシュ・バレー初期に他の家族と一緒に写った写真が残されている。

[編集] キャッシュ・バレー開拓への影響と長期的影響

この戦いはキャッシュ・バレーとそれに隣接する地域のショショーニ族に最終的に重要な影響を与えた。キャッシュ・バレーの北部をモルモン教徒開拓者に開放したことに加え、アイダホ州南東部にさらに開拓地を開く踏み段も提供した[53]。モルモン教徒とコナー大佐との間の摩擦はさらに何年も続き、ユタ準州内で非モルモン教徒に対する嫌がらせの告発や、コナーがユタの中に鉱業を始めようとしたことに対するモルモン教徒による批判があった[54]

サグウィッチ酋長とその多くの部族員はモルモン教徒とさらに正式な同盟を結び、彼らの多くが洗礼を受けて末日聖徒イエス・キリスト教会に入会した。サグウィッチ自身はメルチゼデク司祭職における長老職に叙任された。最終的にこの部族員は、ショショーニ族酋長の名前を冠したユタ州ワシャキーの町を設立するのに貢献した。ショショーニ族北西部の隊に残っていたメンバーは末日聖徒イエス・キリスト教会の後援で農場や家を建設し、その子孫は大半が教会の本流に集約された。この開拓地に関わることの無かったショショーニ族はホール砦インディアン居留地に移り住んだ[55]

コナー大佐とカリフォルニア志願兵隊の方は、出版された新聞記事に拠れば、ダグラス砦やさらにカリフォルニア州の出身地の住民によって英雄扱いされた。この軍事作戦の直接の結果として、コナーは少将の位に昇進した[56]。コナーは南北戦争の残り期間、インディアンに対する作戦を継続し、その中でもスー族とシャイアン族に対するパウダー川遠征と呼ばれるものが著名である[57]

[編集] 記念

ユタ州開拓者の娘達によって建立された記念碑

ベア川の虐殺史跡はアメリカ国道91号線近くにある。この地は1990年にアメリカ合衆国国定歴史史跡に登録された。

[編集] 脚注

  1. ^ Sagwitch, p. 3-4
  2. ^ The History of a Valley, p. 23-26
  3. ^ Sagwitch, p. 23
  4. ^ Sagwitch, p. 14
  5. ^ A History of a Valley, p. 33
  6. ^ Shoshoni Frontier, p. 17
  7. ^ Sagwitch, p. 25
  8. ^ Shoshoni Frontier, p. 136
  9. ^ The Northern Shoshoni, p.35
  10. ^ Shoshoni Frontier, p. 159
  11. ^ a b Glory Hunter, p. 78
  12. ^ Glory Hunter, p. 48
  13. ^ Glory Hunter, p. 67
  14. ^ Shoshoni Frontier, p. 94
  15. ^ Major General Patrick Connor. http://www.militarymuseum.org/Conner.html
  16. ^ Glory Hunter, p. 51
  17. ^ Glory Hunter, p. 67-72
  18. ^ In God's Lap, p. 83-85
  19. ^ Timmins, Brighton, Thornley Family History; copy on deposit in the library of Utah State University, Logan, Utah
  20. ^ Deseret News, Sept 21, 1859
  21. ^ Shoshoni Frontier, p. 116
  22. ^ Shoshoni Frontier, p. 117
  23. ^ Bear River Massacre, p. 81
  24. ^ a b Shoshoni Frontier, p. 172
  25. ^ Glory Hunter, p. 76-77
  26. ^ a b Bear River Massacre, p. 83
  27. ^ a b Sagwitch, p. 42
  28. ^ Glory Hunter, p. 76
  29. ^ Bear River Massacre, p. 84
  30. ^ a b Glory Hunter, p. 77
  31. ^ Shoshoni Frontier, p. 174
  32. ^ Sagwitch, p. 44
  33. ^ a b c Shoshoni Frontier, p. 178
  34. ^ Sagwitch, p. 45
  35. ^ http://udn.lib.utah.edu/cdm4/document.php?CISOROOT=/deseretnews2&CISOPTR=11112
  36. ^ An Early History of Franklin
  37. ^ Glory Hunter, p. 56
  38. ^ Bear River Massacre, p. 112
  39. ^ a b Glory Hunter, p. 79
  40. ^ Bear River Massacre, p. 113
  41. ^ Shoshoni Frontier, p. 180-181
  42. ^ Shoshoni Frontier, p. 182
  43. ^ Shoshoni Frontier, p. 182-183
  44. ^ a b Shoshoni Frontier, p. 183
  45. ^ Bear River Massacre, p. 118
  46. ^ Shoshoni Frontier, p. 181
  47. ^ a b Sagwitch, p. 52
  48. ^ a b Sagwitch, p. 48
  49. ^ Shoshoni Frontier, p. 179
  50. ^ Sagwitch, p. 47-48
  51. ^ Sagwitch, p. 54
  52. ^ Massacre at Bear River p. 111
  53. ^ Bear River Massacre, p. 191
  54. ^ Bear River Massacre, p. 279-294
  55. ^ Sagwitch, p. 77-102
  56. ^ Glory Hunter, p. 86
  57. ^ Glory Hunter, p. 137-154

[編集] 関連項目

太平洋岸戦線 (南北戦争)

[編集] 参考文献

ウィキメディア・コモンズ
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  • Hart, Newell; The Bear River Massacre; Preston, Idaho; Cache Valley Newsletter Publishing Company; 1982; ISBN 0-941462-01-3
  • Madsen, Brigham D.; Glory Hunter: A Biography of Patrick Edward Connor; Salt Lake City, Utah; University of Utah Press; 1990; ISBN 0-87480-336-5
  • Madsen, Brigham D.; The Northern Shoshoni; Caldwell, ID; Caxton Printers Ltd.; 1980; ISBN 0-87004-266-1
  • Madsen, Brigham D.; The Shoshoni Frontier and the Bear River Massacre; Salt Lake City, Utah; University of Utah Press; 1985; ISBN 0-87480-494-9
  • Miller, Rod.; Massacre at Bear River; Caldwell, ID; Caxton Press: 2008; ISBN 978-0-87004-462-5
  • Simmonds, A.J.; In God's Lap: Cache Valley History as told in the newspaper columns of A.J. Simmonds; Logan, Utah; The Herald Journal; 2004; ISBN 1-932129-88-X
  • Ricks, Joel E. (editor); The History of a Valley: Cache Valley, Utah-Idaho; Logan, Utah; Cache Valley Centennial Commission; 1956
  • Bancroft, Hubert Howe; History of Utah, 1540-1886; (reproduction) Las Vegas, Nevada; Nevada Publications; ISBN 0-913814-49-0
  • Varley, James F.; Brigham and the Brigadier: General Patrick Connor and His California Volunteers in Utah and Along the Overland Trail; Tucson, Arizona; Westernlore Press; 1989; ISBN 0-87026-069-3
  • Madsen, Brigham D.; Chief Pocatello; Moscow, Idaho; University of Idaho Press; 1986; ISBN 0-89301-222-X
  • Shannon, David H.; The Utter Disaster on the Oregon Trail: The Utter and Van Ornum Massacres of 1860; Caldwell, ID; Snake Country Publishing; 1993; ISBN 0-9635828-2-8

[編集] マルチメディア

  • The Bear River Massacre (2000); producers: Michael Mill, Chris Dallin, and Richard James; Imagic Entertainment; 66 min.
  • The House of the Lord: Cache Valley and the Logan Temple (2003); producer: Dennis Lyman; Temple Hill Videos; 60 min.

[編集] 外部リンク

座標: 42°08′46″N 111°54′51″W / 42.146192°N 111.914034°W / 42.146192; -111.914034

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