ベトナムに平和を!市民連合

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ベトナムに平和を!市民連合(ベトナムにへいわを!しみんれんごう、略称「ベ平連(ベへいれん)」)は、日本における代表的なベトナム戦争反戦平和運動団体。

「運動団体」といっても規約も会員名簿もなく、何らかの形で平和運動に参加した人や団体を「ベ平連」と呼んだ。

目次

[編集] 概要

[編集] 発足へのいきさつ

南ベトナム解放戦線による南ベトナム市民への無差別爆弾テロの現場(1964年)

アメリカによるベトナムにおける有事への本格軍事介入自体は、ジョン・F・ケネディ大統領によって「南ベトナム軍への軍事顧問団の派遣」という形で1960年代初頭から相当な規模で行われ、さらに、北ベトナム政府の指揮下にあった南ベトナム解放民族戦線による南ベトナム市民に対するテロが頻発し、多くの犠牲者も出ていた。

しかし、この頃は日本のマスコミによるベトナム情勢の報道があまり行われておらず、日本国内においてベトナム情勢は大きな話題になっていなかったため、べ平連の発起者をはじめとするその後の「反戦運動家」達はこれを問題視せず、他にも大きな反戦運動は行われていなかった。

しかし、トンキン湾事件以後アメリカの軍事行動が拡大し、1965年2月7日に開始されたアメリカ軍による北ベトナムへのいわゆる「北爆」で一般市民の犠牲者が増えたことがマスコミで報道されると、ようやく「反戦運動」が始まった。

なお、これと時を同じくして、当初南ベトナム解放戦線を「ベトコン」と表記し、南ベトナム政府に対する反政府テロ組織として報道していた日本のマスコミも、アメリカ軍による「北爆」が開始されて以降は急激に北ベトナム政府と南ベトナム解放戦線に同情的となり、「北ベトナムや解放戦線による市民へのテロ」といった立場の報道がほとんどなされなくなった。

[編集] 発足

これらのベトナム情勢の変化と、それに対する上記のようなマスコミの報道の増加を受けて、日本の政治学者の高畠通敏哲学者鶴見俊輔が、作家小田実を代表に担ぎ出して1965年4月24日に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」の名で発足させたのが始まりである。同年、久保圭之介に代わり吉川勇一が事務局長になる。

「反アメリカ」であるものの、既存政党とは一線を画した無党派の反戦運動であり、基本的に「来る者は拒まず・去る者は追わず」の自由意思による参加が原則で、その「いいかげん」とも評された程の自由な雰囲気により、学生から社会人や主婦など、職業や社会的地位、保革などの政治的主張を問わず、多くの参加者を呼び寄せる事になった。その後1966年10月16日に名称を「ベトナムに平和を!市民連合」に変更し、全国に活動が広がって行った。

[編集] 解散

べ平連は、1974年1月にパリ協定調印後の経済が不況の中でアメリカ軍のベトナムからの全面撤退を受け解散した。

[編集] 主な活動

[編集] デモと「反戦広告」

発足直後の1965年4月に東京駐日アメリカ合衆国大使館へのデモ行進を行ったのを始まりに、アメリカ政府や軍、日本政府を断罪する多くのデモを行ったほか、同年11月には作家の開高健の発案でアメリカの有力紙の1つである「ニューヨーク・タイムズ」への全面での「反戦広告」を掲載、1967年4月には画家岡本太郎・筆の「殺すな」と大書された文字の下に英文のメッセージをデザインした反戦広告を「ワシントン・ポスト」に掲載するなど、その活動規模も運営資金も既成の「市民運動」の枠を大きく超えたものであった。

アメリカ国内の反戦運動団体とも連帯を形作った。上記の「反戦広告」に対しては、アメリカの読者や反戦運動団体から、新聞に全面広告を出せるほどの膨大な資金を一反戦運動が運営していることへの驚きが持たれたといわれる。

なお、膨大な運営資金については、カンパを呼びかけて資金調達した。

[編集] 「JATEC」

イントレビット

小田ら運動の中核となった少数の幹部はアメリカ軍の「良心的脱走兵」の逃走支援も行い、これらの活動はベ平連とは別に「JATECJapan Technical Committee to Aid Anti War GIs反戦脱走米兵援助日本技術委員会)」として運営された。

1967年に、アメリカ海軍航空母艦イントレビット」からの4人の脱走兵をソ連の支援を受け、横浜港でソ連極東部のウラジオストックへ向かうソ連の定期船に違法に乗船させ、モスクワ経由でスウェーデンに入国させたことから、「イントレビット4人の会」が結成され、さらに脱走を援助する組織として「JATEC」が武藤一羊により命名された。栗原幸夫が指令役になり、吉岡忍山口文憲阿奈井文彦などの若手メンバーが実動役を請け負った。

だが、1968年にアメリカの情報機関のスパイであるラッシュ・ジョンソンが脱走兵のふりをして侵入したことにより、同行して釧路に飛んだ脱走兵のジェラルド・メイヤーズが、11月5日に日本の警察に逮捕され、アメリカ海軍に引き渡された。メイヤーズの乗ったレンタカーを運転していた山口文憲は、モデルガンを所持していてメイヤーズにそれを見せていたため、翌1969年2月15日、「銃刀法違反」で逮捕された[1]。また、メイヤーズが隠れていた高橋武智宅も家宅捜索をうけた。

JATECは、正規の出国手続きを踏まない形での国外逃亡の幇助などの、非合法活動も含むあらゆる手段を用いて日本から脱走兵を秘密裏に出国させたものの、その数は数人に留まり、多くの脱走兵はアメリカ軍へ帰還した[2]。なお、1968年2月15日の「山口逮捕、高橋宅捜査」以降、JATECは方針を変更し、高橋武智をリーダーとして「脱走兵の国内潜行援助」、パンフレット『脱走兵通信』『ジャテック通信』による宣伝活動、そして在日アメリカ軍基地周辺での「反戦GI運動支援」活動を行った。

[編集] ソ連からの支援

[編集] 違法活動に対する支援

小田や高橋らを中心としたべ平連の幹部、並びにJATECの構成員はソ連とその情報機関であるKGBなどの支援を受け、定期便やレポ船(ソ連のスパイ活動を行う日本の漁船)などを使い、少数の脱走兵を複数回、日本からスウェーデンなどの中立国に脱出させた[3][4]ものである。

これは他国に対する内政干渉であるばかりか、レポ船を経由した脱出幇助は、正規の出国手続きを経ない出国という明らかな違法行為である上、結果的にソ連からの金銭的、物資的援助を必要とする行為であったために、「単なる反戦運動」という一線を越えた違法活動として議論を呼んだだけでなく、外国人の違法出国の幇助という活動内容から日本の警察からの捜査を受けた上に、最終的にアメリカとソ連両国のスパイまでもが運動に食い込むようになってしまった。

そのような経緯から、ソ連の支援で脱走兵を北方領土へ違法出国させてスウェーデンなどの中立国へ出国させる手法は使えなくなった。そのため、高橋武智が単身でヨーロッパへ新たな密出国ルートの開拓に行ったものの、パスポート偽造などの違法手段で出国させることに成功した脱走兵は数人に留まる。

その後は、アメリカ本国での反戦運動と連携する道を模索し、脱走兵をアメリカ軍へ帰還させて、軍隊内で医療的・心理的認定を受けて、「最前線での任務が果たせない」との診断を得て、除隊へ至るという方法が取られることとなった。

[編集] KGBからの援助

KGB本部

そして1991年ソビエト連邦の崩壊によって、KGBがベ平連に資金的・物理的援助を与えていたというソ連共産党の機密文書が公開された[5]

公開されたソ連共産党機密文書(英訳版)によれば、ベ平連のKGBとの結び付きは、吉川勇一がKGBの日本における代表者に協力を依頼したことに始まる。当時のユーリ・アンドロポフKGB議長がソ連共産党中央委員会に提出した報告書には小田と吉川が名指しで登場しており、アンドロポフ議長は党中央委員会に、秘密裏にベ平連指導者ら(leaders, leadership)と接触し、反米プロパガンダ活動の拡大と脱走アメリカ兵を助ける為に必要となれば物質的サポートなどをすることを勧告した [6]。 さらにアンドロポフ議長は、この報告書を、KGBはベ平連にソ連に有利な影響を与えるべく、ベ平連指導部との極秘の接触を維持するための非公式手段を準備している、と締めくくった[7]

これだけでは実際に資金提供があったことは確認されないが、接触があったことは事実であり、現在では、当時在日ソ連大使館との折衝を担当した吉川勇一本人も、共同通信記者の春名幹男の取材に対して、「(ソ連大使館の)参事官や一等書記官と会ったが、恐らく、全員がKGB要員だった」「脱走兵の日本脱出に事実上の援助を与えてくれるところなら、KGBだろうがスパイだろうが手を借りたいという気持ちだった」とソ連政府との接触と援助の授与を認めている[8]

[編集] 参考文献

  • すが秀実『1968年』ちくま新書 2006年
  • 春名幹男 『秘密のファイル(下) CIAの対日工作』共同通信社 2000年

[編集] 脚注

  1. ^ 「日米地位協定第9条」は、脱走アメリカ軍兵士についての日本の国内法の適用除外を定めている。そのため、「脱走兵の逃亡幇助」を行っても日本の法律には触れず、このような「別件逮捕」しかなされない由縁である。ただし、活動を始めた時点で関係者はそのことを理解してはおらず、「違法行為をやっている」という自覚があった。また、下記のように、逃亡幇助を行う中で日本の法律に触れる行為を複数行っている。
  2. ^ 『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた…ベ平連/ジャテック、最後の密出国作戦の回想』(作品社、2007年11月、ISBN 978-4-86182-162-2
  3. ^ 「67年の横須賀から米兵4人亡命事件に、ソ連政府が関与--本社、秘密文書を入手」毎日新聞 1995.07.20
  4. ^ 『秘密のファイル(下) CIAの対日工作』, [1]
  5. ^ Koenker, Diane P., and Ronald D. Bachman (ed.), Revelations from the Russian archives : Documents in English Translation, Washington, D.C. : Library of Congress, 1997, pp699-700.
  6. ^ Exploiting the KGB's secret contact with the leaders of the Japanese committee "Peace to Vietnam," assist the committee to continue its activities including material support when needed to expand its propaganda activity and to accomplish illegal transportation of American military deserters from Japan to third countries.(英訳版原文)
  7. ^ the KGB is prepared through unofficial means at its disposal to assist in maintaining contact with the leadership of the Japanese committee "Peace to Vietnam" as well as in influencing it to the advantage of the Soviet Union.(英訳版原文)
  8. ^ 春名幹男・「秘密のファイル――CIAの対日工作(下)」

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月7日 (土) 22:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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