ベニグノ・アキノ

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ベニグノ・セルビアーノ・"ニノイ"・アキノ・ジュニアBenigno Servillano "Ninoy" Aquino Jr.,1932年11月27日-1983年8月21日)はフィリピンの政治家。通称が「ニノイ」であったため、ニノイ・アキノという呼び名で知られる。なお「アキノ」という姓から誤解があるがこの姓はラテン系のものであり(アクセントを考慮すると「アキーノ」の表記が近い)、また彼は血統的には華人系であり日系では全くない。事実上の独裁体制を敷いたフェルディナンド・マルコス大統領時代、国民に広く人気があったベニグノ・アキノはマルコス政権の最大の脅威にして大統領の最強のライバルであったが、逃れていたアメリカ合衆国から帰国の矢先、マニラ国際空港で暗殺された。この死が、やがてマルコス政権の崩壊とベニグノの妻コラソン・アキノ(コリー)の大統領就任へつながってゆく。

目次

[編集] 生涯

[編集] 人気政治家

ベニグノ・"ニノイ"・アキノはタルラック州コンセプシオンで地元の名士の家に生まれた。祖父はエミリオ・アギナルドの側近として活躍し、父ベニグノ・アキノ・シニアもホセ・ラウレル政権下で活躍した政治家であった。父ベニグノ・シニアが亡くなったとき、ニノイは10代だった。父はそのころ、戦争中の対日協力者としての批判の只中にいた。父の死はニノイの生き方に影響を与えることになった。思うところがあったニノイは大学を離れてジャーナリズムの世界に身を投じた。

1954年ラモン・マグサイサイ大統領の下で働いていたニノイに困難な任務が与えられた。反政府グループであるフクバラハップのリーダー、ルイス・タルクを説得して投降させるようにというものだった。4ヶ月にもわたる熱心な説得の末にタルクは無条件投降した。ニノイの名声は高まり、22歳にしてコンセプシオン市の市長に就任した。同年、後に大統領となるコラソン“コリー”・コファンコと大恋愛の末に結婚している。

ニノイは政治家として順調にキャリアを積んでいく。1961年、タルラック州の知事に当選し、1966年には自由党の官房長官に就任した。1967年には35歳で上院議員に当選。これは現代に至るまでフィリピン史上最年少での上院議員当選の記録としていまだ破られていない。

[編集] 投獄と追放

1972年、ニノイの運命を大きく変える出来事が起こった。マルコス大統領が全権を掌握すべく全土に戒厳令を敷いたのである。反政府側の危険人物とされたニノイは逮捕・投獄された。容疑は政府転覆の陰謀と武器の不法所持、殺人などであった。ニノイは1977年に死刑を宣告されたが、さすがのマルコスも国民に人気のあるニノイを本当に処刑することはできず、1980年に入って「アメリカ合衆国で手術を受けさせる」という名目でニノイをフィリピンから追放した。ニノイは妻と共にアメリカ合衆国に逃れることになった。

マルコス大統領とイメルダ夫人、中央はアメリカのロナルド・レーガン大統領

上院議員時代から、ニノイはマルコス大統領を脅かす存在として広く認められていたが、どちらかというと大地主の一族の出身で、フィリピンの伝統的支配階級の申し子といった観があった。さらにテレビ映りのいいニノイは国民に根強い人気があったが、政権を脅かそうとか、マルコスに取って変わろうというような気持ちを本人はそれほど持っていなかったと思われる。

そんなニノイを変えたのが獄中での生活であった。牢獄の中で、ニノイは初めてカトリック信仰から生きる力を得るようになった。同時にマハトマ・ガンディーマーティン・ルーサー・キングの著作からも大きな影響を受けた。いまやニノイは単なるお坊ちゃん政治家ではなく、強い信念を持った思想家となっていた。以後、ニノイは非暴力主義を掲げながら歯に衣着せずにマルコス政権を批判するようになる。彼はマルコス政権を厳しく批判しながらも、国民に対しては決して暴力に訴えないよう常に求めていた。突如としてキリスト教思想を全面に押しだすようになったニノイを冷やかな目で見ていた人もいたことは確かだが、ニノイが強い思想性を帯びるようになったことは後に妻のコリーの政治家としての姿勢に強い影響を与えることになり、ニノイが死後、現代の殉教者として称えられることになる基盤を作った。

[編集] 暗殺

外国生活の中でも、ニノイは常に反マルコスの筆頭であり続けた。そのニノイがついにフィリピンに戻る日がやってきた。1983年8月21日、戻ればどのような危険と困難が待ち構えているか、命を失うおそれすらあることをニノイは十分わかっていた。それでも彼は苦しんでいる国民のそばにいたいと願い、マルコスに対し政治改革と平和的退陣を直接訴えようと思っていた。

国軍の兵士たちが厳重に警戒にあたっていたマニラ国際空港に、ニノイは台北から乗ってきた中華航空機に乗り込んだ4人の兵士とともに降り立った。警戒は完璧なはずだった。にもかかわらず、ニノイは飛行機を降りてすぐにタラップの下で頭を撃たれて倒れた。即死だった。その場で「犯人」のロランド・ガルマンは射殺されたと政府は後に発表している。

彼に同行したTBSおよび海外のカメラが、ニノイがタラップに降り立った直後の銃声、そして事件後の彼の遺体を捉えていた。だが、彼らは飛行機の出口付近で足止めされたために発砲の瞬間を撮ることはできなかった。

ニノイの最後の言葉は、飛行機を降りる直前、同行していた記者に言った、「必ず何かが起こるから、カメラを回し続けておいてくれ」だった。直後、乗り込んだ兵士がカメラマンに「You just take seat! (お前は座っていろ!)」と言ったのが記録されている。そして、ニノイの言葉は数分後に現実になってしまった。

本当にガルマンが犯人だったのか、犯人ならなぜ撃ったのか、すべては謎に包まれたままだったが、人々はむしろ誰が暗殺を指示したのかということに思いをめぐらせた。CIAやフィリピン共産党からイメルダ夫人まで疑いの目は向けられた。そのころ、マルコス大統領本人は腎不全を起こして透析を受けており、危険な状態をようやく脱したところであった。のちに、暗殺に使われた銃はガルマンが持っていたとされるリボルバーではなく、軍人だけが携帯するコルト・ガバメントであった事が日本音響研究所の鈴木松美の発砲音鑑定により確認されている。さらに、鈴木の分析により、ニノイに同行した兵士たちが「俺がやる」「撃て!」と発砲の直前に叫んでいたことが判明した。

この事件が起こった頃、マルコスは部下に指示を下せる状況ではなかった。10日前に腎臓の移植手術を受けたが、術後の状態が思わしくなかったのである。病床にあってこのニュースを聞いたマルコスは翌日、体調がすぐれぬままテレビカメラの前で記者会見を行い、調査委員会の設置を指示した。調査委員会は軍の高官を含む多くの人々を共謀の疑いで告発したが、彼らはすぐに無罪釈放となった。滑走路の警備にあたっていた兵士たちは無期懲役を宣告され、投獄された。兵士たちは後に恩赦で懲役22年に減刑されているが、ある兵士は黒幕はマルコスの親友でコリーのいとこにあたるエドアルド・"ダンディン"・コファンコであったと証言している。

1983年8月31日に行われたニノイの葬儀は盛大なものとなった。式は朝9時に始まったが、あまりに多くの群集が集まったため、棺が墓地に収められたのは12時間後の夜9時になった。葬儀ミサはフィリピンのカトリック教会のトップであるハイメ・シン枢機卿が司式し、サント・ドミンゴ教会で行われた。200万人の人々が街頭に出てニノイの棺を見送った。さらに数百万人の人々がラジオで葬儀の実況を聞いていた。ほとんどのマスコミは政権の不興をかうことを恐れて放送を見送ったが、カトリック教会が後援するラジオ・ヴェリタスただ一局が葬儀の模様を実況中継した。この葬儀では人々はマルコス政権への怒りを表立って示すことはなかった。民衆はむしろ冷静だったが、唯一の例外は棺がフィリピンの英雄ホセ・リサールを記念したリサール公園の中を通ったとき、記念碑のところにあった国旗が民衆によって力ずくで弔旗にされたことであった。

[編集] マルコス政権の終焉

ニノイの暗殺は反マルコスの機運を爆発させることになった。それまで散発的な行動でしかなかった反マルコス運動が一夜にして全土を覆うようになっていた。首都メトロ・マニラでは貧富の差を越えて多くの人々が立ち上がった。貧窮にあえぐ民衆だけでなく実業家たちもいまやマルコスの政治に限界を感じていたのである。さらに、暗殺現場に居合わせたカメラマンの映像を基にしたTBSの検証番組が海賊版としてフィリピンで上映されたことも拍車をかけた。

皮肉なことに、最大の政敵が殺害されたことが逆にマルコスが政権内を完全にコントロールしきれていないことの証左となり、マルコスの弱さを露呈することになった。フィリピン全土に波及し始めた政情不安はアメリカ合衆国の注目をひいた。やがて世界がフィリピンの動向に注目し始めると、イメルダ夫人の豪勢な生活スタイルやマルコス大統領の独裁体制に非難が集中するようになった。

フィリピン全土が内乱状態に陥るような事態は、フィリピンに権益を持ち、軍事上の拠点としても重要視していたアメリカとしては絶対に避けたいものだった。ロナルド・レーガン大統領もマルコス大統領に対し、ニノイ暗殺の責任があるといって非難するようになったが、西側諸国の盟友だったマルコスを見捨てるほど冷酷でもなく、後に国外へ逃れたマルコスをハワイに迎え入れている。

コラソン・「コリー」・アキノ

ニノイが暗殺されると、その遺志をつぐことになった未亡人のコラソン・「コリー」・アキノがにわかに注目の人となった。1986年にマルコスは国民の不満を解消するため、大統領選挙を行わざるを得なくなっていたが、そこに立候補したコリーは徹底して反マルコスキャンペーンを行い、国民の大多数の支持を得た。選挙期間中、コリーはフィリピン全土を回って支持を訴えた。

1986年2月7日、ついに投票が行われた。選挙管理委員会はマルコスが勝利したと発表したが、コリーと支持者達(監視委員会「NAMFREL」)は明らかな不正が行われたとしてこれを受け入れず、抗議した。結果的にこの抗議を支持した民衆が立ち上がり、軍の高官たちもマルコスを見放した(エンリレ国防相とフィデル・ラモス副参謀総長が「マルコスをもう大統領とは認めない」と声明し国防省のあるアギナルド空軍基地に篭城、ラジオ・ベリタス・アジアも市民に二人の支援を呼びかけた事は有名)ことでマルコスとその一族はフィリピンを追い出されてハワイに向かった。これをエドゥサ革命という。コリーは新大統領に就任し、フィリピンの新時代が到来した。

時代が彼を殉教者にしたともいえる男、ニノイ・アキノは今でも根強い人気を誇っている。500ペソ札にはニノイの肖像が印刷されており、ニノイが凶弾に倒れたマニラ国際空港は後にニノイ・アキノ国際空港(NAIA)と改称された。ニノイの息子ベニグノ・アキノ3世はタルラック選出の上院議員となり、娘のクリス・アキノは女優としてテレビや映画で活躍している。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月25日 (水) 05:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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