ベニート・ムッソリーニ
ベニート・ムッソリーニの最新ニュースをまとめて検索!
|
Benito Amilcare Andrea Mussolini
|
|
|---|---|
![]() |
|
| 生年月日 | 1883年7月29日 |
| 出生地 | ドーヴィア・ディ・プレダッピオ |
| 没年月日 | 1945年4月28日(満61歳没) |
| 死没地 | ジュリーノ・ディ・メッゼグラ |
| 所属政党 | ファシスト党 |
| 配偶者 | ラケーレ・グイーディ |
|
|
|
| 任期 | 1922年10月31日 - 1943年7月25日 |
| 国王 | ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 |
|
|
|
| 任期 | 1925年 - 1943年7月25日 |
| 退任理由 | 国王による罷免のため |
| 国王 | ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 |
|
|
|
| 任期 | 1943年9月23日 - 1945年4月26日 |
| 退任理由 | 国家消滅のため |
ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ( Benito Amilcare Andrea Mussolini、1883年7月29日 - 1945年4月28日)は、イタリア王国の政治家である。
ファシスト党党首であり、ファシズムの創始者でもある。「ローマ帝国の復活」を掲げて、アドルフ・ヒトラーと共に第二次世界大戦を戦うが敗れて処刑された。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
1883年7月29日、イタリアのフォルリ近郊のプレダッピオという小村に、鍛冶屋の父アレッサンドロと小学校教師の母ローザ・マルトーニの長男として生まれた。父アレッサンドロは熱心な社会主義者で、息子にメキシコ合衆国の初代大統領で独立の英雄のベニート・フアレスにちなんでベニート、親しい間柄にして尊敬する国際主義的な革命家であったアミルカレ・チプリアニにちなんでアミルカレ、バクーニンの腹心でもあり、後にイタリア社会党に参加するアンドレア・コスタにちなみアンドレアと名付けた。ムッソリーニもこうした父の政治思想から強い影響を受けたという。
父アレッサンドロは教養高い人物であったが商売人としての才能に欠け、家計は苦しかった。ムッソリーニは粗食であったと言われるが、それはこの貧しい少年時代に身についた習慣である。洗礼は受けていなかったが(洗礼を受けたのは44歳になった1927年のことである)、9歳の時に厳格なカトリック寄宿学校に入学する。この学校では生徒の身分ごとに待遇が異なっていたらしく、ムッソリーニはここで初めて「社会の不公平さ」を実感したという(後の教会の焼き討ちはこの経験が動機になっていると考えられる)。
ムッソリーニは学校の規則をよく破る問題児で、学校で暴力事件を起こして危うく退学になりかけた事すらあったがどうにか卒業できた。卒業後は教師を目指して師範学校に入学するが、ここでもまた暴力沙汰をおこしている。しかし学業成績は非常に良く、小柄な体格ながらスポーツにも長けていたという。
[編集] 青年時代 - 社会主義者時代
1901年に師範学校を卒業。臨時教師の職に就くが、狭い地方に閉じこもるのに嫌気が差したらしく、早々に切り上げてスイスへ出稼ぎに行ってしまった。だがスイスでの生活も上手くいかず浮浪者の罪で国外追放にされてしまうが、その後も何度もスイスへ入国している。その際、奇しくもスイスに亡命していたウラジーミル・レーニンやレーニンの秘書アンジェリカ・バラバーノフらと知り合う機会を得て、[1]レーニンからドイツ語やフランス語を学び、さらに知見を広める(この交流を通じて、ムッソリーニはレーニンからは「イタリアで唯一革命を指導できる人物」と政治家としての才能を賞賛され、後年のムッソリーニもレーニンを「優れたオーケストラの指揮者」と高く評価した)。
レーニンから直接教えを受けたムッソリーニは本格的に政治運動へのめり込んでいき、1904年にイタリア社会党に入党する。農民扇動者として度々当局に拘束されながらも活動を続け、やがて党内で頭角を現して行く。
1910年に『階級の闘争』紙La Lotta di Classeで働いた後、1911年~12年のイタリア・トルコ戦争に対する反戦活動や改良主義者の排除が認められて、党中央の日刊紙『アヴァンティ!』(前進)の編集長に抜擢された。この時期からすでに地域の新聞などで「ドゥーチェ」の渾名で呼ばれた。
ムッソリーニは「我々共通の永遠の教師」としてカール・マルクスの思想に心酔しており、「危機の時代にあっては、中間的諸階級はその利益と思想にもとづいて、基本的階級のどちらか一方に引きつけられる」(1914年)と階級闘争を肯定する主張をしていた。だが次第にムッソリーニの階級論は「階級の破壊」から「民族的な団結が社会に階層を越えた繁栄を齎す」と考えるようになり、民族主義的な社会主義へとその思想が変化し始める。
[編集] 第一次世界大戦
ムッソリーニは戦争がイタリア人の民族意識を高めると考え、第一次世界大戦が勃発すると当初は党の方針に従って中立論を支持したものの、やがて戦争への参戦を強く主張するようになった。その流れでイタリアへの参戦工作を行っていたフランス政府の資金援助を受け、独自に日刊紙『ポポロ=ディタリア』を発行して協商国側への参戦熱を高めるキャンペーンを展開したため、遂に社会党を追放されてしまう。ムッソリーニを除名した社会党に対しレーニンは「あの男を追放するなんて、君らはバカだ」と呟いたという[要出典]。
ムッソリーニは社会党を除名された後も、自身の基本的な政治的立場は左翼であるという立場を維持し、「革命的参戦運動ファッショ」「国際主義参戦ファッショ」と革命や国際主義という名を冠した組織で参戦運動を展開(ファッショという言葉は社会主義者時代にも団結の意味合いで使っていた)する。これが戦後の「戦闘者ファッショ」の土台となる。
イタリアが秘密協定によって参戦を宣言すると、ムッソリーニも他の参戦論者達の例に習い志願兵として従軍した。彼は自分から望んで最前線に配属され、勇敢な戦いぶりで軍曹まで昇進したが、手榴弾の爆発に巻き込まれ重傷を負い(ムッソリーニはこの怪我の後遺症に一生悩まされる事になった)、戦場を離れた。
[編集] ローマ進軍まで
大戦後のイタリア国内の混乱と社会主義運動の高揚に危機感を抱き、復員軍人や旧参戦論者を結集し、1919年3月23日にミラノで「戦闘者ファッショ」を組織し社会党や共産党と対立し武力をともなった衝突を繰り返した。1920年9月の革命勢力の退潮に乗じたムッソリーニは「黒シャツ隊」と呼ばれる行動隊を駆使して勢力を伸ばし、1921年までにイタリア北部および中部で勢力を拡大し組織は25万人の規模に膨張し選挙に参加して議会で35議席を獲得するまでになった。
1921年11月のローマ大会で国家ファシスタ党にファッショを改組して統領に就任した。ついで1922年10月28日に始まる数万人のファシスト武装隊の「ローマ進軍」を背景として、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王はムッソリーニに組閣を命じ、以後イタリア王国は1943年までの約20年にわたるファシスト政権時代に入る。スペインでは失敗した「ファシストによる立憲君主制維持」は、ここイタリアでは成功したのである。
[編集] 首相時代
[編集] 独裁体制
1923年の選挙法改正で、「選挙で25%以上の得票率を得た第一党が議会の議席の3分の2を獲得する」として権力を集中し強化した。1925年に労働組合の解散・言論出版取締令を制定した。1926年にムッソリーニ暗殺未遂事件が多発したため首相の暗殺には未遂でも死刑を適用するようになった。
1927年には控訴が認められない国家保護特別裁判所を設置し政敵、特に共産党を弾圧した。こうして独裁政治の基礎が固められ、1928年9月、大評議会が国家の最高機関として認められ、権力がムッソリーニに集中。独裁体制が完成した。
[編集] 経済政策
最初はアルベルト・デ・ステファニに経済政策が任され、民間企業をほとんど国有化することなく、一時過剰であったストライキが衰退し、景気は回復して失業者も減少し、生産力も増した(但し、インフレーションが同時にあった)。治安も改善して、特にマフィアをはじめとする犯罪組織は徹底的な取り締まりを受け、その殆どが壊滅状態に追い込まれたために犯罪件数は減少した。
所有形態を維持しながら一連の成果を挙げたため、イギリスやアメリカなどの民主主義国家の指導者や評論家の中にも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える動きがあり、辛口な論評で知られたイギリスのウィンストン・チャーチルも「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。
しかし、1929年の世界恐慌の影響で失業者が100万人以上に膨れ上がり、次第に財政支出を増やし始め、第二次世界大戦が開戦する1939年までイタリアはソビエト連邦の次に国有企業が最も多い国となった[2]。ドイツに比べイタリアは軍事費より公共事業費が多かった。
[編集] エチオピア戦争
ムッソリーニはつとにヴェルサイユ体制の打破を唱えた。また、古代ローマ帝国の復興を掲げたが、現実味の片鱗も無い話であり、これは単なる士気向上が主目的だった。経済危機を打開するために、膨張主義政策に着手し1935年10月3日にエチオピアへ侵攻した(第二次エチオピア戦争)。
しかし、予想以上の苦戦を強いられたイタリア軍は当時でも禁止されていた毒ガス兵器を使用。このことを国際連盟で追及されると、イタリアは「エチオピア人は文明人と認められない」という無茶な理論で返した。但し、この頃米英独をはじめ生物化学兵器自体は広く一般的に保有されているものであった。
[編集] ドイツとの友好
ドイツのナチス党党首で、その後同国の総統となるアドルフ・ヒトラー総統との関係では、1934年7月25日のドルフース首相暗殺事件を契機とするドイツのオーストリア併合危機の高まりに対して、ムッソリーニはブレンナー峠にイタリア軍を集結して反対意志を示した(ムッソリーニはオーストリア独立派を支援していた時期がある)ことや、ヒトラーと会見した際に「あんな奴は嫌いだ」と述懐していることで明らかなように、最初は決して友好的とはいえなかった。
しかし、ヒトラーがムッソリーニを自らの手本として親しみを持っていたこともあり、エチオピア戦争を契機として、親英派の反対を退けて対ドイツ接近政策に転換。1936年7月18日に発生したスペイン内乱にも介入した。1939年5月22日、ムッソリーニは娘婿のチャーノ外相の反対を無視して鋼鉄協約と呼ばれる独伊軍事同盟を締結し、ドイツへの従属的ともいえる友好関係を深めた。この為ムッソリーニは、ミュンヘンのドイツ人から「イタリア大管区長(ガウライター)」と皮肉られることになる。
[編集] 人種差別政策
ドイツと同じくユダヤ人に対する人種差別的政策も行われた。といっても社会主義時代からファシスト時代までムッソリーニと肉体的関係を持ちながらサポートをしてきたユダヤ系のマルゲリータ・サラファッティが「ファシズムの母」とされ、「ユダヤ人問題はイタリアには存在しない」とムッソリーニも言うように当初から反ユダヤ主義だったわけで無く、専らこれもドイツからの影響によるものである。さらにイタリアの国民性を反映したのか、当時のドイツに比べればその差別はずいぶん緩いものであった。
[編集] 第二次世界大戦
ドイツによる侵攻をうけたフランスの敗北が決定的になった1940年6月10日、イタリアはイギリス、フランスと開戦、同年9月27日に日独伊三国同盟を調印してドイツと日本の密接な関係を確認した。その後の1941年12月には日本とアメリカが戦争状態に入ったことを受けてアメリカにも宣戦布告するなど、日本とドイツと並ぶ枢軸国の一国として本格的に参戦した。
戦いは地理的な要因から概ねイギリスとその衛星国及び植民地を相手にしたものであったが、工業力に乏しいイタリア王国の軍勢は装備や物資面でイギリス軍に大きく差を付けられていた。イタリアは伝統的に海軍に力を入れていたため、イタリア海軍は世界第4位の戦艦数を誇っていたが、石油などの燃料をほぼイギリスとアメリカに依存していたため、1943年には燃料が枯渇して大型軍艦の行動がほぼ不可能となってしまい、満足な作戦が行えなくなった。
ソマリランドの占領や遣露部隊の活躍など部分的な成果はあったものの、イギリス領ケニア、英・エジプト共同領スーダンヘの侵攻、ギリシャへの侵攻などは不調に終わり、またドイツの要請に応じて行ったエジプト遠征もイギリス軍に敗れて敗北を喫してしまい、ムッソリーニの戦争指導は思うように進まなかった。日増しに拡大する戦局を前にイタリア王国は他の枢軸国同様、ドイツへの従属を深めていく。
振るわない戦局はムッソリーニの国民や政治家に対する威信を失わせていった。その後の1943年7月に行われた、連合国軍のシチリア上陸を契機として支配層内部のムッソリーニ批判が顕在化し、ムッソリーニは軍部のみでなく、ファシストの指導者のなかでも孤立していることが明白になった。
[編集] 失脚
これに対応して、ドイツとの同盟と対イギリス戦争に反対する有力者で、ムッソリーニと血縁関係にある古参ファシストの一人で王党派でもある元駐英大使のディーノ・グランディ伯爵が、ムッソリーニの責任を追及した上でムッソリーニ解任の動議を出し、これを受けた大評議会は7月25日にグランディの動議を可決しムッソリーニは失脚、同日逮捕された。
ファシスト政権は崩壊し、ムッソリーニの後任として、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王が任命したピエトロ・バドリオ元帥が首班をつとめることとなり、新政府は1943年9月8日に連合国に無条件降伏した。
[編集] 救出作戦
その後アペニン山脈の「グラン・サッソホテル」に幽閉されたムッソリーニは、同月12日にムッソリーニへの友情を持ち続けていたヒトラーの命を受けたナチス親衛隊のオットー・スコルツェニー中佐に救出されローマへと連れ出され、その後ヴォルフスシャンツェでヒトラーと落ち合うこととなる。
詳細は「グラン・サッソ襲撃」を参照
なお、失脚前にソ連との単独講和交渉を行ったものの失敗に終わったことや、胃潰瘍による体調不良に悩んでおり意気消沈していたムッソリーニは、このまま政界からの引退を望んだが、ムッソリーニへの友情を感じていただけでなく、ドイツが支配下に置いた北イタリア地域においてムッソリーニの利用価値があると感じていたヒトラーは、ドイツの支援を受けた政権の首班への就任を説得した。
[編集] イタリア社会共和国首班
その後、ドイツが支配下に置いた北イタリアに、ドイツの支援を受けたイタリア社会共和国(RSI)の樹立を宣言し、その首班に就任した。RSI軍は義勇兵と正規兵・民兵が入り混じる状況下でドイツ軍と共に連合国軍に対して勇敢に戦ったが、政府そのものは事実上ドイツの傀儡政権として扱われ、大病を患い消沈していたムッソリーニもドイツ軍の徹底的な監視下に置かれるなど昔日の勢いはなかった。
RSI軍とドイツ軍によるイタリアでの戦いが終焉すると、勝者となったパルチザンが次々とRSI軍兵士やファシスト党員らを虐殺し始め、ムッソリーニの周囲は彼に政治的亡命を薦めた。事実、かつては同盟関係にあった大日本帝国からも内密に亡命の打診があったがこれを丁重に断っている。ムッソリーニは「好意はありがたいが、余はイタリアで人生を終えたい」と返答したという。[3]
[編集] 銃殺
1945年4月、連合国軍の進撃に敗走を続ける枢軸軍とともに中立国のスイスに向かっていた途中、コモ湖畔の小村でレジスタンス運動のパルチザンに捕縛され、同月28日に銃殺された。(またはイタリア国民裁判で「戦争責任者」として死刑にされた。)その死体は同行していた愛人のクラレッタ・ペタッチの死体とともにミラノのロレート広場に逆さ釣りにして晒された。ムッソリーニは死刑の通知をするレジスタンスに対し、「胸を撃て!」と叫んだとされる。
ムッソリーニの死体が民衆の前で晒し者にされた事を聞いたヒトラーは強い衝撃を受け、自決の際に「彼のようになりたくない」と自身の死体を焼却するよう部下に命じたと言われる。
[編集] ムッソリーニ時代の軍事
独裁権を握ったムッソリーニは軍備の拡張を大いに進めた。空中艦隊構想や新型戦艦や空母の建造など国防上の生命線である海軍力の強化、著しく旧式化していた陸軍装備の更新などがその内容である。当時のイタリア王国軍は第一次世界大戦で勇敢に戦う兵士に対して、骨董品じみた装備や乏しい弾薬物資で戦闘に従事させねばならなかった苦い経験があり、ムッソリーニ自身も従軍経験からその事を深く理解していた。
かくしてイタリアの軍備は目まぐるしい増強が図られたが、そもそもイタリアの装備や物資の不足は工業力の脆弱さを遠因としており(第二次世界大戦後までイタリアは農業国であった。工業の北部と農業の南部という概念は戦後復興後の事である。)、経済政策に失敗したムッソリーニにその根本的解決は不可能だった。また経済面で頓挫したムッソリーニは民衆の関心を買う為に乱暴な対外政策を進めたが、これはイタリアを外交的に孤立させ、資源輸入で重要な米英と敵対してしまうという致命的な結果を齎した。
経済・資源・工業力と全ての面で行き詰ったムッソリーニの軍備増強は名前だけのものと化し、軍需大臣ファブグロッサは「早くとも1949年まで大規模な戦争は不可能である」とムッソリーニに通告しており、軍部の上層部も殆どがこの意見に同意していた。しかし当時のムッソリーニに戦争以外の選択肢を取る政治的余裕は無く、結局開戦時の時点で軍備増強は何一つとして成果を挙げられないまま、海軍は旧式戦艦や小型艦艇の運用で急場を凌ぎ、陸軍は師団の半数以上が定員割れを起こした状態で戦地へ向かった。
イタリア軍は装備の旧式化や兵員・物資の不足に加え、人材面でも将軍・参謀の大部分が第一次世界大戦の戦訓を奉じる「古典主義者」と質が悪く、その事実は第二次世界大戦序盤の諸戦闘で示された。事実、エジプト侵攻やギリシャ侵攻では圧倒的多数の兵力にもかかわらずイギリス軍やギリシャ軍に撃退され、ドイツが増援部隊を派遣している(ドイツ軍に関する詳細はドイツアフリカ軍団、ユーゴスラビア侵攻を参照)。その一方で、件のアフリカ戦線をはじめとする各地で戦果を挙げた部隊も存在し、またRSI軍は士気旺盛に戦いドイツ軍から信頼を得ていた。
[編集] 人柄・性格
教育家を目指しただけあって、大変な勉強家で英仏独語をマスターしたほか、ブランキからシュティルナーまで哲学、思想、芸術にも造詣が深く、かなりの教養の持ち主であった。また演説家としても非常に有能で、若い頃はさわやかな演説をする人物として知られた(感情が高ぶるほど激烈な弁が冴えたヒトラーとは対照的)。
また健康にも気を使い、朝起きたら体操をやり、ジュースを飲んだ。その後乗馬をやりシャワーを浴びて朝食をとる。朝食にはパンの他に果物が用意してあり(本人も果物が健康の秘訣だと言っている)、魚もたまに食べるが、肉は食べなかったという。
スポーツでは、特にモータースポーツを愛好し、国威発揚のためにイタリアの自動車メーカーを国際レースの場に出ることを推奨した他「ミッレミリア」などの国内におけるレースへの支援も欠かさなかった。愛車は、当時のイタリアにおける代表的な高級車の1つであるアルファ・ロメオ・スパイダー・コルサであった。
[編集] 家族
ムッソリーニは行動的で粗野な反面、繊細な神経の持ち主で、他人を信用せず、友人も作らず常に孤独であった。その反面女性関係は派手で、関係を持った女性は数百人に上るという。その最期の時も傍らには愛人クラレッタ・ペタッチがいた。
他にも愛人は数多くいたものの、妻ラケーレとの間には3男2女をもうけた。長女のエッダは友人の息子でもあるガレアッツォ・チャーノと結婚した。長男のヴィットーリオは父健在時からジャーナリストとなった。三男のロマーノは戦後、ジャズピアニスト・ジャズ評論家として活躍し、2006年2月に死去した。
ロマーノはソフィア・ローレンの妹アンナ・マリア・シコローネと結婚して、女優で国会議員となったアレッサンドラをもうけている。
[編集] 評価
アメリカの歴史家A・L・サッチャーは、政治情勢によって、左から右、ハト派からタカ派へコロコロと政治姿勢を変えてきた彼を「首尾一貫した不首尾一貫性」と評し、「カヴールやガリバルディが苦心して作り上げた近代イタリアを台無しにした」とこきおろしている。
国内での評価はヒトラーほど低くなく、独裁者であるという点と戦争に参加したという点などで悪い印象は多々あるものの、マフィアを軍事力で抑えたなど、割と好印象をもって伝えられており、その墓には今でも花が絶えないという。再評価の動きもある。 ローマ進軍記念日前後の10月下旬には、多くの支持者がプレダッピオにあるムッソリーニの墓に詣でる。また、この時期がプレダッピオにとって一番の稼ぎ時でもある。
ファシズムの創始者であることから、「世界で最も優れた写真家三人を挙げよ」「ムッソリーニが現像し、ヒトラーが複写し、ゲッベルスが拡大した」というジョークがある。
俳優・西村晃の父でロボット学者、植物学者の西村真琴は、「保育は天業」、「保育の営みがある限り、人間社会は有機的に発展する」という観点から、ムッソリーニが掲げた独身税・子無税構想を評価・支持している[4]。
[編集] 語録
- 社会主義とは、ペテンであり、喜劇であり、幻想であり、ゆすりである。
- 他人を信じることは良いことだが、信じないのはもっと良いことである。
- 血のみが歴史を前進させる。
- ヒトラーは一流国家における二流の指導者、かたや自分は二流国家における一流の指導者である。
- 人々は自由に飽き飽きしているというのが真実である。
- 私はファシズムを創造したのではなく、イタリア人の奥底から引き出しただけである。
- 正義のためには法律を犯すことも許される。そのとき暴力は武器となり、正義となるのだ。
- 私は満足している。そして復讐も再評価も望まない。
[編集] 脚注
- ^ ローラ・フェルミ(エンリコ・フェルミの妻)『ムッソリーニ』柴田敏夫訳、紀伊国屋書店 社会主義者時代のムッソリーニを描いたバラバーノフの著書が引用されている
- ^ Patricia Knight, Mussolini and Fascism, Routledge (UK), ISBN 0-415-27921-6, p. 65
- ^ 中公叢書「ムッソリーニ 一イタリア人の物語」(ロマノ・ヴルピッタ著)
- ^ 冨森叡児「西村真琴」『日本天才列伝』学習研究社、2005年
[編集] 参考書籍
- ロマノ・ヴルピッタ『ムッソリーニ』(中公叢書:中央公論社)
- マックス・ガロ、木村訳『ムッソリーニの時代』(文藝春秋)
- 木村裕主『ムッソリーニ』 新書版で清水書院
- 同 『ムッソリーニを逮捕せよ』、『ムッソリーニの処刑』 各講談社文庫で再刊。
[編集] 関連項目
- エウル
- チネチッタ
- ファシスト党
- コンコルダート
- イタリア王国
- ナチス
- ファシズム
- 枢軸国
- 第二次世界大戦
- ヨシフ・スターリン
- 独裁者
- ガブリエーレ・ダヌンツィオ
- ロマノ・ヴルピッタ
- 下位春吉
- 笹川良一
- ひまし油(ファシスト党が拷問に使用したといわれている。)
- 外山恒一(ムソリーニのファシズムを土台に、それに外山なりの改良を加えたファシズムを信奉している。)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
pnb:میسولینی
最終更新 2009年11月2日 (月) 15:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【ベニート・ムッソリーニ】変更履歴










