ペレ

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ペレ
名前
本名 エジソン・アランチス・ドゥ・ナシメント
愛称 ペレ、王様 (O Rei)
ラテン文字 Pelé
基本情報
国籍 ブラジル
生年月日 1940年10月23日(69歳)
出身地 トレス・コラソンエス
身長 171cm
体重 73kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ App (G)
1956-1974
1975-1977
サントス
ニューヨーク・コスモス
438 (474)
64 (17)
代表歴
1956-1971 ブラジル 92 (77)
1. 国内リーグ戦に限る。現在。
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

ペレ、本名エジソン・アランチス・ドゥ・ナシメント(Pelé, 本名Edison Arantes do Nascimento, 1940年10月23日 - )は、ブラジルミナス・ジェライス州トレス・コラソンエス出身の元サッカー選手アフリカ系ブラジル人。

目次

[編集] 人物

[編集] サッカーの王様

生涯で1281ゴールを記録するというその実績から、「20世紀最高」、あるいは「サッカー史上最高」と評される選手。「サッカーの神様」、「サッカーの王様」と称される。

171センチと小柄であるが身体能力が抜群で、バランス感覚に優れ自身より大柄な相手ディフェンダーの激しいタックルにも当たり負けしなかった。ペレのプレースタイルは、「パーフェクトバランス」という言葉に集約される。

また、小柄ながら並外れた跳躍力で打点の高いヘディングも得意としており、さらに100メートルを10秒台で走る俊足を持ち合わせているなど、サッカー選手に必要な全ての才能を持ち合わせていた。その一方で、自分勝手で傲慢なプレーに走ることは決してなく、自らのゴールを減らしてでも周りの選手の能力を最大限に引き出す献身的なプレイヤーでもあった。

しかし、ペレの出来がチームに与える影響は計り知れないものがあり、そのため相手チームに「ペレさえ止めれば」が「ファウルでしか止められない」という脅威と重なって現役を通じて悪質なファウルに悩まされることになった。

[編集] 海外の評価

華麗かつ献身的なプレースタイルとその輝かしい実績により、現在も世界的に賞賛と尊敬を集めている。自らの実力に絶対の自信を持つヨハン・クライフは「マラドーナミシェル・プラティニといった過去の偉大な名選手たちですらをも上回る」と自らを評するが、ペレについては「彼は理論を越えている」と唯一賞賛を惜しまない。

[編集] 経歴

[編集] ユース時代

サッカー選手であった父親の元にトレス・コラソンエスで生まれた。なお、「ペレ」の愛称の由来はペレの父親の所属していたサッカークラブのGKの「ベレ」の大ファンであったが、そのころのペレは幼かったので「B」の発音が出来なくて「P」と言っていたので「Pelé」が愛称になった。本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、友人と喧嘩になったこともある。

多くのブラジル人と同じく幼少時からサッカーに親しむ中で、その天賦の才能を現し、1954年にバウルーのユースでデビューした。当時からそのバランスがとれたプレーが全国的注目を浴びることとなる。

[編集] プロ時代

[編集] サントス

ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴの誕生会に出席したペレ

1956年には、サンパウロ州の強豪クラブであるサントスでプロデビューした。その後1975年までの19年間は同クラブのみに所属し、この間に多くのゴール記録を樹立する。

また在籍中は、同クラブがコパ・リベルタドーレスインターコンチネンタルカップサンパウロ州選手権を数度に渡り獲得するなど同クラブの黄金期を作ることに大きく貢献した。

[編集] ニューヨーク・コスモス

その後莫大な契約金を得て北米サッカーリーグ(NASL)に所属するアメリカニューヨーク・コスモスに移籍し、同チームの看板選手となり活躍、1977年には同チームの北米選手権のタイトル獲得に貢献し、同年のシーズン終了とともに引退した。

[編集] ブラジル代表及びFIFAワールドカップ

ブラジル代表デビューは1957年7月7日で、当時まだ16歳であった。ワールドカップには、1958年スウェーデン大会に17歳で初出場。準決勝でジュスト・フォンテーヌを擁するフランスを相手にハットトリックを達成し世界中を驚かせた。

ワールドカップでは、「ヨーロッパ大会では南米勢は優勝できない」、というジンクスがあるが、スウェーデン大会で唯一このジンクスを破ったのがペレである(ワールドカップのもう一つのジンクスである「開催国は強い」というジンクスから、スウェーデンが優勝する事が予測されたが、ペレの技がそのジンクスを上回った事になる。その上手さは、ペレがゴールしたとき、スウェーデンのディフェンス陣が、余りにも見事に抜かれたためペレの元へ祝福に駆け寄った、という逸話がある)。

その後1962年チリ大会1966年イングランド大会1970年メキシコ大会の計4大会に出場し、1958年スウェーデン大会と1962年チリ大会、1970年メキシコ大会における3度の優勝に大きく貢献した。歴代最多記録の代表通算77ゴールを記録している。

[編集] 引退後

1995年から3年間はブラジルのスポーツ大臣を務めるなど、多くの名誉職に就任。また世界各国で数々の大企業の広告に出演する他、公演を行うなど引退後も仕事が後を絶たない。実際に、生涯稼いだ金は現役時代よりも引退後の仕事で得た報酬の方が多いといわれている。

なお、サッカーにおける功績と数々のボランティア活動を讃えられ、イギリス政府から大英帝国勲章を授与されるなど、世界各国から多くの勲章を授かる。

2008年に、『ペレ自伝』(伊達淳訳)が、白水社から刊行されている。

[編集] 所属クラブ

ユース
  • 1954年 - 1956年 ブラジルバウルー
プロ契約

1954年に14歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働23年で通算1363試合出場、1281ゴール。公式記録として残っているものの中では、世界最高の記録である(非公式ではアルツール・フリーデンライヒの1329ゴールの記録がある)。1試合5得点が6回、4得点が30回、ハットトリックはなんと92回を数える。1試合最多得点は8点。

[編集] 獲得タイトル

クラブ

代表

個人

[編集] 個人成績

年度 クラブ サンパウロ
州選手権
リオ・
サンパウロ
選手権
トルネオ・
R.G.ペドラサ
全国選手権 タッサ・ブラジル 南米カップ戦 世界カップ戦
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1956年 サントス 0 0 _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
1957年 サントス 29 36 9 5 _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
1958年 サントス 38 58 8 8 _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
1959年 サントス 32 45 7 6 _ _ _ _ 4 2 _ _ _ _
1960年 サントス 30 33 3 0 _ _ _ _ 0 0 _ _ _ _
1961年 サントス 26 47 7 8 _ _ _ _ 5 7 _ _ _ _
1962年 サントス 26 37 0 0 _ _ _ _ 5 2 4 4 2 5
1963年 サントス 19 22 8 14 _ _ _ _ 4 8 4 5 1 2
1964年 サントス 21 34 4 3 _ _ _ _ 6 7 _ _ _ _
1965年 サントス 30 49 7 5 _ _ _ _ 4 2 7 8 _ _
1966年 サントス 14 13 0 0 _ _ _ _ 5 2 _ _ _ _
1967年 サントス 18 17 _ _ 14 9 _ _ 0 0 _ _ _ _
1968年 サントス 21 17 _ _ 17 11 _ _ 0 0 _ _ _ _
1969年 サントス 25 26 _ _ 12 12 _ _ 0 0 _ _ _ _
1970年 サントス 15 7 _ _ 13 4 _ _ 0 0 _ _ _ _
1971年 サントス 19 8 _ _ _ _ 21 1 0 0 _ _ _ _
1972年 サントス 20 9 _ _ _ _ 16 5 0 0 _ _ _ _
1973年 サントス 19 11 _ _ _ _ 30 19 0 0 _ _ _ _
1974年 サントス 10 1 _ _ _ _ 17 9 0 0 _ _ _ _
通算 サントス 412 470 53 49 56 36 84 34 33 30 15 17 3 7
年度 クラブ リーグ 背番号 リーグ戦 その他
出場 得点 出場 得点
1975年 ニューヨーク NASL 10 9 5 14 10
1976年 ニューヨーク NASL 10 24 15 18 11
1977年 ニューヨーク NASL 10 31 17 11 6
通算 NASL 64 37 43 27

[編集] エピソード

現役時代には、ペレのプレーを見るためにナイジェリアビアフラの内戦が中断した、ペレの暴言にレッドカードを出した主審が逆に退場を命じられる、ユベントスに至っては、ペレに対し「契約金はあなたの言い値で」と言わんばかりに白紙の小切手を送った、など数々の逸話がある。

ペレ(右)とアメリカのクリントン大統領
  • レアル・マドリードからもユベントス同様に破格の金額でのオファーがあったが、断っている。
  • 1000ゴール達成時には、ブラジル郵政省から記念切手が発行された。
  • 1995年から3年間はブラジルのスポーツ大臣を務め、他にも多くのスポーツ団体への寄付などスポーツ普及のため尽力している。
  • 1999年にブラジルで自動車強盗に遭遇したが、強盗に向かって「ペレだが?」と告げたところ強盗は「すみません」と謝って何も盗らず逃走したという。以前自動車強盗にあったロマーリオを奪われたため、やはり選手としての格が違うと語られることになった。
  • 2008年サントスの郊外で渋滞にあった際に10人程度の自動車強盗団に襲われ、時計ネックレス携帯電話などを奪われかけたものの、強盗団のうち数人がペレであることに気づきその場で返却した。しかしネックレスを奪ったものはペレであることに気づかずにそのまま逃走した。
  • スパイク契約はプーマである(後年プーマのCMにも出演した)。ペレにあやかってプーマのスパイクを愛用したサッカー選手は数多い。
  • バイアグラのCMに出演していたことがあるが、ペレ自身はEDではない。世界CM業界の最大のジョークとして今だにこのジョークを越えるCMはない。
  • 1994年には22歳年下の女性と再婚し、前の夫人との間に1男2女、現在の夫人の間に2女、隠し子で1女の計1男6女がいる。
  • ブラジルの子供番組の司会者アイドルであったシューシャ(Xuxa)と愛人関係だったという噂もあり、一時期はマスコミで騒がれた。なおペレとつきあう前にシューシャがつきあっていたのは同じく国民的英雄のアイルトン・セナであった。
  • ブラジルの国民的英雄ではあるが、ブラジル中に隠し子がいるというスキャンダルもあり、一部のブラジル人からはペレより女性スキャンダルの少ないジーコの方がより英雄視されているという意見もある。
  • 1981年にはミス・ユニバース世界大会(開催地はニューヨークミンスコフ劇場)で、歌手のフリオ・イグレシアス、俳優のリー・メジャース、オペラ歌手のアンナ・モッフォらと共に審査員を務めた。
  • FIFAワールドカップの優勝国予想がことごとく外れ続けることで有名であったが、2006年ドイツ大会のイタリアの優勝で、連敗にピリオドを打った。しかし、その予想が与える影響力とは裏腹に、あまりに予想が外れることからペレの優勝国予想にあげられることをいやがる国は多い。
  • 2002年F-1ブラジルグランプリでゲストに招かれ、チェッカーフラッグを振る役を任された。しかし最終ラップでスタッフと打ち合わせしている間に1位のミハエル・シューマッハ、2位のラルフ・シューマッハが通過してしまい、3位からようやくチェッカーを振るという珍事となった。
  • 北京五輪中に亘崇詞が「日本のファンにメッセージを」と求めた際、最初に発した日本語は「あのね」だったと「Foot!」番組内で紹介された(そのVTRをみた倉敷保雄は「是非、ウィキペディアに書いてほしいですね」と発言した)。

[編集] 映画

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ
ウィキクォート
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最終更新 2009年12月3日 (木) 17:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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