ホーエンツォレルン家
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ホーエンツォレルン家(ドイツ語:Das Haus Hohenzollern, 英語:House of Hohenzollern)は、南ドイツのシュヴァーベン地方に発祥したヨーロッパの貴族、王家、皇帝家。一族からはルーマニアの国王も出た。家名の由来は居城としていたホーエンツォレルン城から。14世紀にツォレルン家をホーエンツォレルン家に改めた。ちなみに、現代のドイツ語では“ホーエンツォレアン”または“ホーエンツォラーン”と発音する。
1061年にベルトルト・フォン・ライヒェナウの年代記にツォレルン家の名が初めて現れる。シュヴァーベンの一部を支配するツォレルン伯爵であった。
1191年、同郷のホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世によりフリードリヒ1世が、ニュルンベルク城伯に任じられフランケン地方の領地も得た。1218年(または1214年)に領地の分割を行い、長男のコンラート1世がフランケンの領地とニュルンベルク城伯の地位を得てフランケン系の祖となり、次男のフリードリヒ2世はヘヒンゲン近郊のツォレルン城とシュヴァーベンの領地とツォレルン伯爵の地位を得てシュヴァーベン系(ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン家)の祖となった。
フランケン系はフリードリヒ1世の代の1415年からは選帝侯としてブランデンブルク選帝侯領を治めるようになる。1525年に一族の傍流アルブレヒトがドイツ騎士団を廃しプロイセン公国を建て初代プロイセン公となり、その子孫が絶えると1618年には本家のブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントがプロイセン公領を継承し、ブランデンブルク=プロイセンが成立した。三十年戦争の際にはフリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)が指導にあたった。1660年のオリヴァー条約によりポーランド・リトアニア連合からホーエンツォレルン朝プロイセン公国が独立した。選帝侯フリードリヒ3世はスペイン継承戦争でハプスブルク家に味方する見返りに「プロイセンの王」を名乗ることが許されたため、1701年にフリードリヒ1世として戴冠し、ホーエンツォレルン朝プロイセン王国が誕生する。
ヴォルテールと親交の深かったフリードリヒ2世は啓蒙専制君主として君臨、絶対主義下においてプロイセンを強化した。彼は、オーストリア継承戦争や七年戦争に勝ち抜き、着々と領地を広げていった。フリードリヒ2世、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世はロシア帝国・オーストリア帝国とともにポーランド分割を行なった。
1862年、オットー・フォン・ビスマルクが宰相になると、ヴィルヘルム1世の下、プロイセンを中心としたドイツ統一を成し遂げ、ドイツ帝国(正式国名はドイツ国)が誕生、列強の一員となる。第一次世界大戦で敗北後、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が亡命してホーエンツォレルン家のドイツ支配は幕を閉じた。ヴィルヘルム2世の子孫はドイツで生活しており、現在の当主はヴィルヘルムの玄孫ゲオルク・フリードリヒである。
選帝侯時代以前にフランケン系の一門から分家した支流に前述のホーエンツォレルン=ヘヒンゲン家とホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家がある。ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン家はホーエンツォレルン城があるシュヴァーベンの本来の領地を統治し続けた。この家はプロテスタントに改宗せずカトリックのままで通していたが、1869年に断絶した。ホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家からは1866年にカロル1世がルーマニア公に迎えられ、1881年にルーマニア国王に即位した。以後1947年に王制が廃止されるまで、カロル1世の直系がルーマニア王家として続いた(最後の国王ミハイ1世は現在も存命である)。ホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家本流の現在の当主はフリードリヒ・ヴィルヘルムである。
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最終更新 2009年11月16日 (月) 11:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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