ホー・チ・ミン

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ホー・チ・ミン
Hồ Chí Minh
ホー・チ・ミン

任期: 1945年9月2日1969年9月2日
副大統領: トン・ドゥック・タン1960年7月15日 - 1969年9月3日

出生: 1890年5月19日
フランス領インドシナ
ゲアン省ナムダン県アンチュ村(※現在のキムリエン村)
死去: 1969年9月2日(満79歳没)
ベトナム ハノイ市
(廟:ホー・チ・ミン廟)
政党: ベトナム労働党

ホー・チ・ミンベトナム語Hồ Chí Minh漢字胡 志明1890年5月19日(異説在り)- 1969年9月2日)は、ベトナム革命家

幼名はグエン・シン・クンベトナム語: Nguyễn Sinh Cung漢字: 阮 生恭)、字はタト・タインベトナム語: Tất Thành漢字: 必成)で、第二次世界大戦までに使用していた変名のグエン・アイ・クォックベトナム語: Nguyễn Ái Quốc漢字:阮 愛國)でも広く知られる。植民地時代からベトナム戦争まで、ベトナム革命を指導した。ベトナム労働党主席。ベトナム民主共和国初代大統領(国家主席)。

目次

[編集] 経歴

[編集] 誕生から第二次世界大戦前まで

ホー・チ・ミンは、フランスの植民地であったベトナム中部のゲアン省の、貧しい儒学者の子として生まれた。彼は初め、ベトナム人官吏を養成する仏越学校に入学したが、在学中に反仏の民族主義的思想を持ったため退学。その後、船員としてフランスアルジェリアチュニジアコンゴなどのフランスの植民地アメリカヨーロッパ諸国を回った。

なおこの頃にロンドンのカールトン・ホテルの厨房に勤務しており、ペーストリー・シェフの見習いとして世界的に著名な名シェフであるオーギュスト・エスコフィエの薫陶を受けている。1917年パリに移ったが、この年に起こったロシア革命は彼の思想に大きな影響を与えた。

ホー・チ・ミンはマルクス主義を学び、フランス共産党に入党し、在仏ベトナム人愛国者団を組織して活動をおこなった。この頃は「グエン・アイ・クオック(阮愛國)」の名で活動していたが、彼の名を一躍有名にしたのは、ヴェルサイユ会議に愛国者団を代表して出席し、8項目からなる「ベトナム人民の要求書」を提出したことであった(しかし、ヴェルサイユ会議ではこの要求書は採択されなかった)。

1923年モスクワに移り、コミンテルン第5回大会でアジア担当の常任委員に選出された。中華民国で第1次国共合作が成立し北伐が開始されると、彼も広東に赴き、ベトナム青年革命同志会を創立した。1930年イギリス香港でそれまでに組織されていた3つの共産主義組織の代表を集めて、それらを統一してベトナム共産党(間もなくインドシナ共産党と改称)を創立した。

[編集] 第二次世界大戦

1939年には第二次世界大戦が勃発し、ナチスドイツがフランスを占領したため、フランスの植民地であるフランス領インドシナ(仏印)には新局面が訪れた。ドイツ政府と手を結んだ大日本帝国政府は、南方進出の一環として1940年には仏印北部に、1941年には仏印南部に進駐した(仏印進駐)が、親独的なヴィシー政権との関係を維持するため、在来のフランス・インドシナ政庁との共同統治体制を布いた。

ホー・チ・ミンは、香港、モスクワソビエト連邦)、延安中華民国)、雲南省などで活動を展開していたが、インドシナ情勢の急展開で、1941年、雲南省から国境を越えて祖国ベトナムのカオバン省に入った。彼はここで、ベトナム独立のための統一戦線組織「ベトナム独立同盟」(通称ベトミン)を組織して、直ちに日本軍に対する武装闘争の準備に着手した。しかし、軍事的にはあまりにも弱体であったため、1942年中国国民党軍の支援を求めようと中華民国に入ったが、共産党の勢力拡大を嫌う国民党の地方軍閥政権によって逆に逮捕され、13ヶ月間も各地の牢獄をたらい回しされたあと釈放、1944年にようやく根拠地に帰った。

日本軍の敗北が決定的になった1945年8月13日、ホー・チ・ミンは全国民に総蜂起を呼びかけた。4日後の8月17日には、ベトミンの指導下に全国的な民衆蜂起(ベトナム八月革命)が起こり、ベトミン軍がハノイに入城した。そして、日本政府が降伏文書に調印して第二次世界大戦が終わった同年9月2日には、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国独立を宣言した。

[編集] インドシナ戦争

ボー・グエン・ザップ(左)とホー・チ・ミン
1961年

しかし、フランス政府はベトナム民主共和国を正統政府とは承認せず、軍を増派したため、ホー・チ・ミンは粘り強くフランス政府と交渉を続け、翌1946年3月にハノイ暫定協定を成立させてベトナムの独立を認めさせた。本協定調印のために渡仏した彼は、ここでフランス政府がコーチシナを分離して、そこに親仏政権を樹立したことを知らされ、交渉は妥結直前で決裂した。

フランス軍はハイフォンでベトナム民主共和国軍への攻撃を開始したので、12月19日、ホー・チ・ミンは『全国民に抗戦を訴える』を発表して徹底抗戦に入った。これが7年間にわたる第一次インドシナ戦争の始まりである。民主共和国軍は平野部から撤兵して北部山岳地帯にこもり抵抗を続けながら、装備に勝るフランス軍をやがてボー・グエン・ザップ率いるゲリラ戦で圧倒し、1954年ディエンビエンフーの戦いでフランス軍に決定的な打撃を与えた。その結果、ジュネーヴ協定が締結されて、フランス軍は80年に亘る植民地支配の末に、インドシナから駆逐された[1]

[編集] ベトナム戦争

東ドイツを訪問したホー・チ・ミン(中央)

フランス(第一)、日本(第二)に代わって、ベトナムへの進出を企図していた第三の国家・アメリカは、ジュネーヴ協定に調印せず、南部に親米的なベトナム共和国が成立すると積極的な経済的、軍事的支援を開始した。ベトナム共和国政府がジュネーヴ協定で定められた統一選挙をボイコットし、反対派に厳しい弾圧を加えたため、その独裁政治に対する抵抗運動が広がり、1960年南ベトナム解放民族戦線が結成された。解放戦線はベトナム労働党の支援の下、介入を始めたアメリカ軍と激しく戦った。

この間ホー・チ・ミンは、1951年のベトナム労働党主席就任後、日常的な党務、政務は総書記第一書記)及び政府に任せ、国内外の重要な政治問題に関わる政策指針の策定や、党と国家の顔としての対外的な呼びかけに精力を集中した。

1965年2月7日、アメリカ軍がベトナム民主共和国への爆撃(北爆)を行い、50万もの大軍を投入した事で、ベトナム戦争が本格的に始まった。しかし、南ベトナム解放民族戦線は主要都市と幹線道路を除く農村地帯をほぼ完全にその勢力下に置き、1968年のテト攻勢で国際世論もアメリカに批判的となると、リンドン・ジョンソン大統領は退陣に追い込まれ、翌1969年に就任したリチャード・ニクソン大統領は撤収を模索し始めた。戦争の終結に向けた動きが始まった1969年の9月2日、ホー・チ・ミンは突然の心臓発作によって死去し、79歳の生涯を閉じた。奇しくも、ホー・チ・ミンの命日は、ベトナム民主共和国の「誕生日」でもあり、2番目にベトナムに侵略した大日本帝国の「命日」でもあった。

なお、ベトナム戦争が1975年4月30日のサイゴン陥落によって終わった翌年、ベトナム社会主義共和国が成立した1976年に、南ベトナムの首都だったサイゴンが、ホー・チ・ミンに因んでホーチミン市に改称された。

革命によって権力を握った共産党指導者が独裁的になり、反対派に血の弾圧(粛清)を行う例が多い中にあって、ホー・チ・ミンは、腐敗や汚職に無縁で、禁欲的で無私な指導者であり、自らが個人崇拝の対象になることを嫌っていた。その慈愛に満ちた飄々たる風貌で民衆に愛され、晩年は南北ベトナムの両国民から「ホーおじさん」(Bác Hồ)と呼ばれ親しまれた。一方、反共の南ベトナムからの難民が大多数を占めるベトナム系アメリカ人また他のベトナム系移民からは憎悪の対象と見られ、例えば現ベトナム政府の要人が訪米の際には「ホーチミンは殺人者」などというプラカードを掲げており、これによりベトナムの南北間の対立が浮き彫りとなっている。

『共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇』(ステファヌ・クルトワ他著、恵雅堂出版、ISBN 4-87430-027-8)に、統一後現在までのベトナムでの粛清などによる死者は100万人に上るという記載があるため、この記述のみを根拠に、ネット上などで、ホー・チ・ミンが大量粛清をしていたとする記述も見られるが、実際には、これはベトナム戦争の死者数であるうえ、この他にも、同書の上げている数値については裏付けのないものが多く、数多くの疑問や批判の声が上がっている。[2]

[編集] 死後の評価

ホー・チ・ミン像

死の数年前からホー・チ・ミンは遺書を書き、遺骸を火葬して北部中部南部に分骨の上埋葬すること、戦争勝利後は1年間農業合作社の税金を免除することを希望したが、死の直後に公開されたテキストからはこの部分が削除され、遺骸はレーニンにならい永久保存されて、南北統一後ハノイのバディン広場に建設されたホー・チ・ミン廟に安置された。

死後20年に当たる1989年ベトナム共産党政治局は遺書の全文を公開、削除部分は死去当時実行できないため公表しなかったこと、全人民、特に生前に直接会うことが出来なかった南部の人民のために遺骸の保存を決定したこと、実際の命日(9月2日)が独立記念日(国慶節)と重なったために1日遅らせて発表したことを説明し、農業税の減免について政府に提議すると発表した。

ホー・チ・ミンはその一生を通じて、ベトナムの民族解放と独立を最大の政治目標としており、その姿勢はときに国際共産主義運動の中で階級闘争を軽視する「右派」的態度と批判されることがあった。インドシナ共産党時代から、党が綱領・規約においてマルクス・レーニン主義以外の基本指針を掲げることはなかった。しかし、1989年東欧革命1991年末のソ連崩壊によって、社会主義が没落し、アメリカナイゼーション反共主義が世界を席巻すると(一極体制)、ベトナム共産党はマルクス・レーニン主義と並ぶ党の指針として「ホー・チ・ミン思想」を掲げるようになり、ホー・チ・ミン個人への依存を強めるようになった。

政治思想や手法には賛否両論が戦わされているが、特筆すべきは、ともすれば汚職がはびこり、権力闘争に陥りがちな共産主義社会において、決してそういった悪事に手を染めなかったとされており、高潔な人柄は政治思想を離れた部分で尊崇を集めている。ホー・チ・ミンの指導下において、政策議事は徹底的な討議を前提とした非公開の全会一致制とされた。またホー・チ・ミンは自伝の類を残さずに死んだため、後継指導者層や軍人達の間でも「ホー・チ・ミンが何も語らずに逝ったのに、我々が何を言えるだろう」として自己の業績について殆ど語らないという伝統が生まれた。

[編集] エピソード

1950年に極秘にソ連を訪問したホー・チ・ミンは、ヨシフ・スターリンに会った。感激したホー・チ・ミンは、フランスでは誰もがそうするように、スターリンにサインを求めた。スターリンは差し出された『ソ連邦の建設』という雑誌にしぶしぶサインをしたものの、人間不信からただちにこれを後悔し、秘密警察に命じて雑誌を秘密裏に回収させた。後にスターリンはよく笑いながら、「ヤツはまだあの雑誌を探しているか。見つけることはできんぞ。」と嘲笑のネタにしていたという。ニキータ・フルシチョフは、自伝記の中で、「純粹で共産主義的な人物に酷い接し方をしたものだ。」と、スターリンの行為を批判している。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注 

  1. ^ 厳密には、第二次世界大戦末期の1945年3月11日に、フランス(連合国)はベトナムの支配権を日本(枢軸国)に奪われていた。その半年後の9月2日に、日本(枢軸国)は降伏文書に調印した事でベトナムの支配権を剥奪され、ベトナムは再びフランス(連合国)の植民地となった。
  2. ^ http://en.wikipedia.org/wiki/The_Black_Book_of_Communism

[編集] 外部リンク

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最終更新 2009年12月1日 (火) 08:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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