ボブ・ディラン
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| ボブ・ディラン Bob Dylan |
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ボブ・ディランのステージ(1996年)
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| 基本情報 | |
| 出生名 | ロバート・アレン・ジマーマン Robert Allen Zimmerman |
| 出生 | 1941年5月24日(68歳) |
| 学歴 | ミネソタ大学中退 |
| 出身地 | ダルース |
| ジャンル | フォーク、ロック、 フォークロック、ブルース、 カントリー |
| 職業 | シンガー・ソングライター |
| 担当楽器 | ギター、キーボード、 ハーモニカ |
| 活動期間 | 1959年 - |
| レーベル | コロムビア、アサイラム |
| 共同作業者 | ザ・バンド |
| 公式サイト | www.bobdylan.com |
ボブ・ディラン(英: Bob Dylan、1941年5月24日 - )は、アメリカ合衆国のシンガー・ソングライター、ミュージシャン、詩人。親がつけた名前は、ロバート・アレン[1]・ジマーマン(Robert Allen Zimmerman)だったが、のちにみずから法律上改名して本名もボブ・ディランである[2]。
「風に吹かれて」、「時代は変る」、「ミスター・タンブリン・マン」、「ライク・ア・ローリング・ストーン」、「見張塔からずっと」、「天国への扉」他多数の楽曲により、アメリカを代表するシンガー・ソングライターとして、デビュー以来半世紀にわたり多大なる影響を人々に与えてきた。現在でも、「ネヴァー・エンディング・ツアー」と呼ばれる年間100公演ほどのライブ活動を中心にして第一線で活躍している。アルバムやシングルについてはボブ・ディランの作品を参照。
グラミー賞やアカデミー賞をはじめ数々を受賞し、ロックの殿堂入りも果たしている。詩人としてノーベル文学賞にノミネートされ[3]、2008年には「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に大きな影響与えた」としてピューリッツァー賞特別賞を受賞した[4]。受賞各賞についてはボブ・ディランの受賞リストを参照。
2009年4月にリリースされたスタジオ・アルバム33枚目となる『トゥゲザー・スルー・ライフ』は、全米ビルボード200と全英アルバム・チャートの両チャートで初登場1位を記録している[5][6]。
目次 |
[編集] 人物
しばしば「世代の代弁者」と崇められ、メッセージソングやプロテストソングの旗手と評される(たとえば、ライオネル・リッチーは「時事的な歌に運命を開いた人」とボブを紹介している)。しかしながら、このようなことを本人は迷惑に感じており、同世代については「ほとんど共通するものも無いし、知らない」と述べ、自分の詩が勝手に解釈され、運動の象徴として扱われることに辟易していると明かす。自身の関心事は「平凡な家庭を築く」「自分の子供の少年野球と誕生日パーティー」と述べている[7]。
英セント・アンドリューズ大学や、米プリンストン大学は、彼に名誉博士号を与えている。「現行の音楽をすべて忘れて、ジョン・キーツやメルヴィルを読んだり、ウディ・ガスリー、ロバート・ジョンソンを聴くべき」と後進のアーティストに提言するなどの啓蒙によっても、アメリカ文化を体現している。
[編集] 経歴
[編集] デビューまで
1941年5月24日[8][9][注 1]、ミネソタ州ダルースに生まれる[10]。父方と母方の祖父母はそれぞれ、ロシアのオデッサ[11](現ウクライナ)やリトアニア[12]からの移民である。父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティー)は、小規模だが絆の固いダルースのユダヤ系の一員だった[13]。1947年[14]、一家はヒビングに転居する[15]。
幼少時より家にあったピアノを独学で習得[16]。「ラジオを頻繁に聴いていた。レコード店に入り浸り、ギターをかき鳴らし、ピアノを弾いて、自分の周りにはない別の世界からの歌を覚え」[17]て育つ。初めてのアイドルはハンク・ウィリアムズ[18][19]。ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ディランもまたエルヴィス・プレスリーにあこがれた少年としてロック・バンドを組み、音楽活動を始める。ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記したりもしている[20]。
1959年9月[21]、州の奨学金を得てミネソタ大学に入学するも、半年後には授業に出席しなくなる[22]。持っていたエレキ・ギターを同額でアコースティック・ギターに交換[23]。ミネアポリスでフォーク・シンガーとして活動し出し[24]、ボブ・ディランと名のり始めていた[25]。ボブはロバートの愛称ボビーから、ディランは詩人のディラン・トーマスから取った[26]とも、また叔父の名前であるディリオンから取ったとも述べている[注 2]。アメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深めていたこのころ[27]、ウディ・ガスリーのレコードを聴くと大きな衝撃を受ける[28]。
1961年冬、大学を中退してニュー・ヨークに出てきた彼は、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りをしていた[29][30]が、やがてハリー・ベラフォンテ[31]やキャロリン・ヘスター[32]のレコーディングに参加したことや、タイムズ紙で好意的に論評されたこと[33]をきっかけに[34]、コロムビア・レコードのジョン・ハモンドにその才能を見出され[35][36]、1962年3月に自身のアルバム『ボブ・ディラン』でレコード・デビューする。しかし、その年の売上は5,000枚程にとどまり、コロムビアの期待していた3分の1というセールスであった[37]。
[編集] 1960年代
当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っており自作曲は少なかったが、ニュー・ヨークで出会った人達[38]、絵画[39]、ミュージカル[40]、レコード[41]、ランボー[42]、ヴェルレーヌ、ブレイクといった象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、さまざまなものに創作上の影響を受け、急速に多くの新しい歌を書くようになる[43][44]。「オンリー・ア・ホーボー~トーキン・デビル」、「ジョン・ブラウン」、「エメット・ティルのバラッド」など初期作品の一部は、トピカルソングを紹介する『ブロードサイド』誌に掲載され[45]、録音は同レーベル(後にフォークェイズ)からブラインド・ボーイ・グラント(Blind Boy Grunt)なる変名でリリースされた[46][47]。
アルバート・グロスマンがマネージメントに乗り出す[48]と、幅広い活動が可能になり、ディランの楽曲を他のアーティストに提供することが考え出される[49]。しかし一方でグロスマンとハモンドが契約をめぐって対立[50]。2枚目のアルバムのレコーディング途中で、プロデューサーはトム・ウィルソンに交代する。1962年12月、ロックンロールそのもののシングル「ゴチャマゼの混乱」を発表しているが、あまりにイメージが違い過ぎたため早々に回収された[注 3]。
1962年12月から1963年1月、初めてイギリスを訪れテレビ・ドラマに出演し[51]、ロンドンのクラブで演奏[52]。4月12日、タウンホールでソロ・コンサート[53]。5月12日、初の全米中継であるテレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演が決まるが、リハーサル後、予定していた「ジョン・バーチ・ソサエティ・ブルース」を省くよう指示されると、検閲的行為に怒ってスタジオを出てしまった[54]。同月、モンタレー・フォーク・フェスティヴァルに出演。『タイム』誌は「新たなるヒーロー」と紹介した[55]。共演したジョーン・バエズは、以後積極的にディランの楽曲を歌い行動を共にすることが多くなる。
1963年5月、2枚目のアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』リリース[注 4]。6月、ミシシッピー州グリーンウッド選挙人登録集会で演奏。7月、ピーター・ポール&マリーがカバーした「風に吹かれて」がビルボード2位のヒットを記録する。同月、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルに出演[注 5]。8月28日、ワシントン大行進で演奏。公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいてディランは次第に「フォークの貴公子」として大きな支持を受け、時代の代弁者とみなされるようになっていった。10月26日、カーネギー・ホールでソロ・コンサート[注 6]。1964年1月、アルバム『時代は変る』リリース。しかし過激化する運動や世間が抱いている大げさな自分のイメージに違和感を持ち、次第にスタイルを変化させ、次のアルバム『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』(1964年)では、プロテストソングと呼べる曲はなくなっている。10月31日、フィルハーモニック・ホール「ハロウィーン・コンサート」。
またこのころから、ディランの楽曲をカバーするアーティストが目立つようになってきた。中でもザ・バーズによる「ミスター・タンブリンマン」はビルボードで1位を獲得している。マンフレッド・マンによる「マイティ・クイン ("Quinn the Eskimo") 」が10位を獲得した。「悲しきベイブ ("It Ain't Me Babe") 」「はげしい雨が降る」「くよくよするなよ ("Don't Think Twice") 」「見張塔からずっと」「イフ・ノット・フォー・ユー ("If Not For You") 」「いつまでも若く ("Forever Young") 」などもよくカバーされている。
1964年頃からマリファナなどのドラッグの影響からか、コンサートやレコーディングでも常に少し酔っ払ったような状態になっていた。ビートルズやローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期で、中期以降のビートルズがドラッグ体験をモチーフにした曲を多く残したのはディランに関わったのがきっかけとされている。なかでも65年頃のジョン・レノンが熱病のごとく傾倒し、作風から精神面、スタイルに至るまでディランに触発された(例:[1]、[2])。またジョージ・ハリスンとは後に生涯に渡る友情を築くこととなる。
一方、ディラン自身もこれらブリティッシュ・インヴェイジョンに刺激を受け、1965年から1966年にかけて『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』、『追憶のハイウェイ61』、『ブロンド・オン・ブロンド』とエレクトリック楽器を取り入れた作品を矢継ぎ早に発表した[注 7]。
従来のフォーク・ソング愛好者、とくに反体制志向のプロテストソングを好むファンなどはこの変化を「フォークに対する裏切り」ととらえ賛否両論を巻き起こした。なかでも65年のニューポート・フォーク・フェスティバルにおけるディランはバック・バンドを従え数曲演奏したが、トーキングブルースなどの弾き語りを要求するファンから手痛いブーイングの洗礼を受けた。そこでやむなくステージを降りた後、アコースティック・ギター一本で再登場し過去の音楽との決別を示唆するかのごとく「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ベイビー・ブルー ("It's All Over Now, Baby Blue") 」を涙ながらに歌いあげた[56]、という逸話が有名である(しかし、これはあくまでサイ&バーバラ・リバコブの伝記に記述された、ややドラマティックな脚色がもたらした風説であり、実際には歓声もあって、ブーイングはひどい音響とあまりに短い演奏だったためで[57]バンドで用意した曲だけでは時間が余ったため、アコースティック・ギターで再度ステージに戻って数曲を披露したに過ぎないという証言も存在する)。
このようなトラブルにもかかわらず、これら3枚のアルバムでディランは従来以上に新しいファン層を獲得した。内省的で作家性の強い原曲を、アメリカ社会のさまざまなルーツミュージックやリズム&ブルースなどのバンドアレンジに乗せたこの時期の作品が、ロック史の大きなターニングポイントとして位置づけられている。また、この頃の歌詞はアレン・ギンズバーグらの文学者からも絶賛されるようになっており、ロックの歌詞が初めて文学的評価を獲得したものとして重要である。
中でもアル・クーパー、マイク・ブルームフィールドらの参加でバンド演奏を全面的に取り入れた『追憶のハイウェイ61』からのカット、「ライク・ア・ローリング・ストーン」が、キャッシュボックス誌ではじめて(そして唯一の)シングルチャートNo.1となった(ビルボードでは2位。1位はビートルズの「ヘルプ!」)。その他「寂しき4番街」が7位、「雨の日の女 (Single Edit.) 」がビルボード、キャッシュボックス誌で共に最高2位、[注 8]。"「アイ・ウォント・ユー」が20位、「女の如く」が33位を獲得するなど、次々チャートアクションを記録した。しかしその記録だけでなく、今日のミュージックシーンにおいていわゆる「ディランズ・チルドレン」を自認してきた大御所ミュージシャンに、更に多くのフォロワーが枝分かれしている事実からも「シンガー・ソングライター」という系統を確立した役割は遥かに大きいといえる。
1965年から66年にかけて、後にザ・バンドとなるバックバンド、レヴォン&ザ・ホークスを従えワールドツアーをこなす。既述のように、ここでも初期の弾き語りを求めるファンやメッセージ性の強いラディカルな曲を好む観客からのブーイング、リズムを乱すようにしむける不規則な手拍子、足踏みなどの妨害行為は収まらず、それに対し挑戦的にバンド演奏を繰り広げるディランの姿は『ロイヤル・アルバート・ホール』(1998年)[注 9]、映画『イート・ザ・ドキュメント(Eat the Document)』などに収録されている[注 10]。『ロイヤル・アルバート・ホール』では、バンドが次曲の準備をしている最中に観客の一人が「ユダ(裏切り者)!」と叫ぶと、場内に賛同するような拍手やブーイング、更には逆にそれを諌める声などが起こった場面が収められている。その中でディランは「I don't believe you... You're a liar!」と言い放つと、怒涛の迫力で「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏をはじめた。嵐のような演奏が終わると、放心状態だった会場からは惜しみない拍手が巻き起こったが、ディランはぶっきらぼうに「Thank you」と言い残し、そのままステージをあとにした。[注 11]
またこの頃にはLSDも使用するようになっており、ビートルズやザ・ビーチ・ボーイズらと同様、作風にも大きな影響を受け、特にディランは声が大きく変化した。
この時期のアルバム未収録曲としては、「ビュイック6型の想い出 ("From a Buick 6") 」のハーモニカバージョン、「窓からはい出せ」のアル・クーパー、マイク・ブルームフィールドによるセッション(当初、「Positively 4th Street」と誤記されたシングル盤が出回ったため回収。再発売され、後に『バイオグラフ』(1985年)に収録された公式バージョンはザ・ホークスとの再録音)などがある。
こうして最初の絶頂期を迎えていた[58]1966年7月29日に、ニューヨーク州ウッドストック近郊で[59]オートバイ事故を起こす[60]。重傷が報じられ[61][注 12]、すべてのスケジュールをキャンセルして[62]隠遁。再起不能説や死亡説などの噂が流布した[注 13]。しかし当時、ドラッグ[63]とコンサートツアーに明け暮れ、「競争ばかりの社会から抜け出したかった」[64]ディランにとってはかえってよい休養となった[65][66]。事故の三週間程前、秘密裏に結婚していたサラ・ラウンズとの間に子供が生まれ、家族以外のことには興味を持てなくなっていたディラン[67]の大きな転機である[68][69]。
翌1967年からは、ウッドストックにこもってザ・バンドのメンバーとともにレコード会社向けデモテープの制作に打ち込む。やがてディランとザ・バンドによる膨大な未発表のデモテープがディラン宅の地下室に眠っているという噂が口コミで広がったが、その後大きな問題が生じた。このセッション音源をもとにしたアセテート盤が配布されるうちに、「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「ジス・ホイールズ・オン・ファイアー ("This Wheel's on Fire") 」などの楽曲が様々なミュージシャンにカバーされて紹介されたものの、副作用として『グレート・ホワイト・ワンダー (Great White Wonder) 』などの海賊盤が出回り始め、闇の一大市場となってしまったのである。なおこのデモ音源の一部は1975年にロビー・ロバートソンの手により、新たにオーバーダブを加えた改良版として『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』の題で公式発表された。
1967年にはベネルックス三国のみで独自にコーラスをオーバーダビングされた「出ていくのなら ("If You Gotta Go, Go Now") 」がシングルリリースされた。1991年リリースの『ブートレッグ・シリーズ1 - 3集』に収録されたバージョンとは全く違う、ハーモニカなしのバージョンであった。
1968年にディランは前作に引き続き、ナッシュヴィル録音による『ジョン・ウェズリー・ハーディング』で復帰するが、弾き語り中心で徐々にダウン・トゥ・アースのような傾向が見られ始める。
1969年に映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌の依頼があったが、レコーディングが間に合わず、ハリー・ニルソンの「うわさの男Everybody's Talkin'」に差し替えられるということがあった。その幻の主題歌「レイ、レディ、レイ ("Lay Lady Lay") 」は結局ノン・タイアップでリリースされたが、澄んだ声と奥行きのあるサウンドのこのシングルは全米8位のヒットとなった。ディランにとって、2009年現在では最後のトップ10シングルである。この曲が収録された『ナッシュヴィル・スカイライン』はまさにカントリーといっていいアルバムである。このアルバムでの澄んだ歌声についてディランは、煙草を止めたら声質が変わったと述べてはいるが、次アルバムに収録された「ザ・ボクサー」では、しゃがれ声と澄んだ声の多重録音一人二重唱をやっている。
[編集] 1970年代
1970年6月、『セルフ・ポートレイト』を発表。カントリー、MOR、インストを含む様々なジャンルの曲を無作為に並べた実験精神溢れるアルバムで、評価をとまどう声もあった[70]がセールスは好調であった。その直後、レコーディング拠点をナッシュヴィルからニューヨークに戻し、10月『新しい夜明け』を発表する。
その後、ディランはオリジナルアルバムの制作を中断。それ以降は「バングラデシュ・コンサート」への出演、ジョージ・ハリスン[71]、レオン・ラッセル[72][73]、ハッピー・トラウム[74][75]、アール・スクラッグス[76]、デヴィッド・ブロンバーグ、ロジャー・マッギン[77]、ダグ・サム[78]等とセッションしたこと以外は沈黙を守る。
1971年発表の『グレーテスト・ヒッツ第2集』にはディラン自身のリリース条件としてレオン・ラッセル、デラニー&ボニー&フレンズとのセッションから2曲、ハッピー・トラウムとのセッションから3曲、そして未発表初期音源としてタウンホールでのライブから「明日は遠く ("Tomorrow Is A Long Time") 」を一切の手を加えない状態で収録。ベスト盤にボーナス・トラックを加える先例となる。また、同年末には久々のプロテストソングである「ジョージ・ジャクソン」を発表。A面にはレオン・ラッセルとのセッションからのビッグ・バンド・バージョン、B面にはアコースティック・バージョンを収録。当時のアメリカの放送局では歌詞に問題がある曲の場合は、そのシングルのB面をかけてお茶を濁すのが慣例であったが、このシングルはB面の方が歌詞がより鮮明に聴こえて逆に効果大であった。
1973年に映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』への出演をきっかけに活動を再開。挿入歌「天国への扉」はディランの曲の中でもカバーするアーティストが多い一曲となった[79][注 14]。
この頃CBSソニーから日本独自企画盤として『Mr. D's Collections #1』が特典として配布された。ソニーは以降も#2、#3、『傑作』(1978年)、『武道館』(1978年)、『Dylan Alive!』、『Bob Dylan Live 1961-2000』(2001年)といった企画盤を企画している。なお、『The NeverEnding Tour』『ディランがROCK!』という企画盤については、ディランの許可が下りていない。
またこの年、ディランはアサイラム・レコードへの移籍を決断。CBSコロンビアは報復手段として所有する膨大な過去の音源をリリースすることにし、まずは『セルフ・ポートレイト』のアウトテイク集である『ディラン』を発売する。ディランはアサイラムで2枚のアルバムを発表した後にコロンビアへ戻るが、その要因には過去の音源の権利関係があったためとも云われる。『ディラン』は一度CD化されたが、2009年現在廃盤(iTunes Music Store USではダウンロード可能)。アサイラムの二枚のアルバム『プラネット・ウェイヴス』(1974年)、『偉大なる復活』(1974年)も1977年にコロンビアから再発売となった。
1974年、かつてのバック・バンドだったザ・バンドを従えてレコーディングした『プラネット・ウェイヴス』を発表。初のビルボードNo.1アルバムとなる。引き続き、ザ・バンドと共に全米ツアーを行った。彼等との共演は1968年のウディ・ガスリー追悼コンサート、1969年ワイト島音楽祭、1971年大晦日のザ・バンドコンサートのゲスト以来、5回目である(最後は1976年の『ラスト・ワルツ (The Last Waltz) 』だった)。しかし、今やスターダムにのしあがったザ・バンドとの力関係は対等になり、バンドサウンドとしては完璧で非の打ち所のないものながら、ディラン自身は退屈さをも漏らしていたようである。
翌1975年には、『ブロンド・オン・ブロンド』のサウンドと『ナッシュヴィル・スカイライン』の透明感を併せ持つコロンビア復帰作『血の轍』を発表。内省的で沈鬱な内容にも関わらず、これもNo.1を獲得。ディランは当時、マリー・トラヴァース(ピーター・ポール&マリー)のラジオ番組で「なぜ、このような暗いアルバムが好かれているのか理由がわからない」と述べている。 この作品は、当初ニュー・ヨークで録音されてプレス盤も出回ったが、ディラン本人がリリース直前にストップをかけ、ミネアポリスで半数を取り直した。録音にはミック・ジャガーが立ち会った。ミックはオルガンも弾いたそうだが、採用されたかは不明。2009年現在、ニュー・ヨーク音源からは「リリー、ローズマリーとハートのジャック ("Lily, Rosemary and the Jack of Hearts") 」だけが日の目を見ていない。
また1975年10月 - 12月と1976年4月 - 5月の2つの時期にかけて「ローリング・サンダー・レヴュー」と銘打ったツアーを行なった。これは事前の宣伝を行わず、抜き打ち的にアメリカ各地の都市を訪れて小規模のホールでコンサートを行なうというもので、かつてのフーテナニーのリヴァイヴァルないし、巨大産業化したロック・ミュージックに対する原点回帰の姿勢を提示した。このツアーでは、ディラン自身が監督をつとめた映画『レナルド&クララ』の撮影もあわせて行われた。このツアーの模様は『ローリング・サンダー・レヴュー(ブートレッグ・シリーズ第5集)』(2002年)、『激しい雨』(1976年)、映画『レナルド&クララ』、TV『ハード・レイン』などに収録されている。このツアーメンバーを主として録音されたアルバム『欲望』が1976年初頭に発表され、No.1を獲得するとともに自身最大のセールスを記録した。
1978年には映画『レナルド&クララ ("Renaldo and Clara")』が公開されるが、内容が難解すぎると不評を買い、興行的には失敗。はじめは4時間弱だったが、後に2時間の短縮版が編集され再度公開。だが結局評価は変わらずじまいであった。封切りに先立ち『4 Songs From "Renald & Clara"』というプロモEPが業界内に配布された。サウンド・トラック盤からの抜粋であるが、2009年現在オリジナル盤は公式発表されていない。
この年は12年ぶりにワールド・ツアーを開始し、2月から3月にかけては初の来日公演を行ない、東京公演の模様が『武道館』に収録、リリースされた。1971年のレオン・ラッセル・セッション以来の女性コーラス、ホーンセクションを含むビッグバンド編成である。ディランは1987年のツアーまで女性コーラスを導入していた。
また日本限定で発売された来日記念盤『傑作』には、アルバム未収録の「親指トムのブルースのように ("Just Like Tom Thumb's Blues", Live at Liverpool) 」、「スペイン語は愛の言葉 "Spanish Is The Loving Tongue" (Piano Solo Version) 」、「 ジョージ・ジャクソン (Big Band Version) 」、「リタ・メイ」などが収録された。後にオーストラリアとニュージーランドでCD化されたが、2009年現在は入手困難。
ツアー中、ツアーメンバーとともに『ストリート・リーガル』を制作。日本滞在時に作曲したという「イズ・ユア・ラヴ・イン・ヴェイン ("Is Your Love in Vain?") 」も収録されており、UKなどでマイナー・ヒットとなった。このツアー終了後、ボーン・アゲイン・クリスチャン (Born again Christianity) の洗礼を受けたことが明らかになった。
1979年発表の『スロー・トレイン・カミング』はディラン流のゴスペルで占められていた。このアルバムはマッスルショウルズの専属スタジオミュージシャン達の手により制作された[80]、ディラン初の“プロフェッショナル”なアルバムである。このアルバムは旧来のファン離れを招いた[注 15]ものの、売れに売れてグラミー賞も獲得した。本作収録曲の「ガッタ・サーヴ・サムバディ(Single Edit.)」は2009年現在ディラン最後のトップ40シングルである。シングルB面の "Trouble in Mind" はアルバム未収録。また未発表の "Ain't No Man Righteous, No Not One" もレゲエ・アーティスト、Jah Mallaにカバーされるなど、この時期の曲は比較的人気が高くトリビュート・アルバムも作られている。
[編集] 1980年代
前述の『スロー・トレイン・カミング』と1980年発表の『セイヴド』、1981年発表の『ショット・オブ・ラブ』は「ゴスペル三部作」と呼ばれる。この時期のコンサートでは当初、これらの作品群からの曲しか演奏せず、批判を浴び動員も伸び悩んだ。その結果を考慮して後期のツアーでは、初期のヒット曲も織り交ぜた折衷版として妥協の姿勢も見せた。ディランはこの当時のサウンドにはかなり誇りを持っていたようで、ライブアルバムの発表を望んだが、コロンビアに拒絶された。『ショット・オブ・ラブ』のアルバム未収録曲としては "Let It Be Me" 、「デッド・マン、デッド・マン ("Dead Man, Dead Man", Live Version) 」がある。後者は1989年「ポリティカル・ワールド ("Political World") 」のカップリングで発表された後、『Live 1961-2000』に再録。
1981年にはそれまでの代表曲、未発表曲を網羅したコンピレーションアルバム『バイオグラフ』の企画が持ち上がる。発売には4年を要したため、1982年以降の曲は収録されていない。
1983年には『スロー・トレイン・カミング』セッションに参加していたダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーをプロデューサーに迎えて製作した『インフィデル』を発表する。この作品は前数作までの福音色が薄れ、従来のファンから大いに歓迎された。しかし、ノップラーは制作途中で自身のワールドツアーに出てしまい[81]、残されたテープをディラン自身がミックスしたこのアルバムにはノップラーも含め、選曲、アレンジなどに不満の声もある。[注 16]このアルバムからのシングル「スウィートハート ("Sweetheart Like You") 」はBillboard 55位。
この頃から時代は多重録音の手法がメインとなり、即興性を重んじるディランもまた時代性との狭間で試行錯誤を繰り返すことになる。そして、1985年、アーサ・ベイカーの手を借り、R&B、ヒップホップを彼流に取り入れた『エンパイア・バーレスク』は「エモーショナリー・ユアーズ ("Emotionally Yours") 」といった名曲を含みながらもセールス、評価ともに同年発売のコンピレーションアルバム『バイオグラフ』の陰に隠れて見過ごされる事態となった。この結果により、ディランはスタジオ・レコーディングに精力を傾けて商業的成功作を作ろうという気持ちを半ば諦めたともいわれる。その後の『ノックト・アウト・ローデッド』(1986年)、『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』(1988年)は消極的なアウトテイク集にすぎないとの批判も一部から寄せられた。『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』には南米のいくつかの国で "Important Words" が収録されている。
1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、ウィ・アー・ザ・ワールドのブリッジ部分でリードボーカルをとった。また同年には大規模チャリティー・コンサートの「ライヴエイド」に、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズ、ロン・ウッドとともにトリで出演。しかしながら「風に吹かれて」の途中でギターの弦が切れロン・ウッドのギターと交換せざるをえなくなるアクシデントが発生(ロン・ウッドはエア・ギターとなった)。さらに、モニタースピーカーを取り払われ、ステージ裏では他の出演者が大トリの「ウィ・アー・ザ・ワールド」を練習しはじめるなど最悪のコンディションで、キースやロンともなかなかかみ合わないなど、彼自身にとってもマスコミの評価の上でも最悪の結果に終わった。
これに危機感を持ったといわれるディランは、次なるチャリティー・コンサート「ファーム・エイド」でトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズにバックを依頼する。このステージを縁として、翌1986年 - 1987年の共演ツアーが実現し、後に大きな話題となるトラベリング・ウィルベリーズ結成にもつながってゆく。ハートブレイカーズとの公式音源はビデオ "Hard To Handle" に収録。また "Bob Dylan with The Heartbreakers" 名義で「バンド・オブ・ザ・ハンド」が発表された。助力を仰いだ理由としては、1980年代はセールスも下降気味でディラン独りでは大きなアリーナ、スタジアムでの公演が難しく、サンタナやグレイトフル・デッド等とパッケージを組むしかなくなっていた当時の窮状、という側面もある。しかしながら、『リアル・ライヴ』(1984年)、『ディラン&ザ・デッド』(1989年)の2枚のライヴアルバムは最低の評価を受けるなど、ディランにとってだけでなく、ディラン流のやり方[注 17]にそぐわない共演者にとっても、不本意な結果に終わることもまた多かったといわれる[要出典]。この当時、ディラン自身もやや自信喪失気味で、グレイトフル・デッドへの加入を打診したこともあったらしい[要出典]が、メンバーの反対により実現しなかった。
ディランはトム・ペティつながりでユーリズミックスのデイヴ・ステュワートに「エモーショナリィ・ユアーズ ("Emotionally Yours") 」 "When The Night Comes Falling From The Sky" のPVディレクションを依頼する。ディランは数年後にジョン・メレンキャンプにも依頼しているが、ミュージシャンに映像ディレクションを依頼する理由は謎である。
また、1987年に公開された出演映画『ハーツ・オブ・ファイヤー(Hearts Of Fire)』も不評と、この時期のディランの活動はことごとく不調であった。なお、『ハーツ・オブ・ファイヤー』のサントラにはディランの曲が3曲収録されたが、2009年現在廃盤となっている。他に、ディズニーの企画盤では "This Old Man" が、ウディ・ガスリーの追悼アルバムには "Pretty Boy Floyd" が収録された。
1987年に、ダニエル・ラノワプロデュースによる『ヨシュア・トゥリー』を発表していたU2のワールド・ツアーのロサンゼルス公演に飛び入り参加。ボノと「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「天国への扉」を歌った。ボノは当時、スタジオ録音に悩んでいたディランに「ラノワならディランを上手くプロデュースできるのでは?」と発言している。
1988年にはロイ・オービソン、ジョージ・ハリスン、ジェフ・リン、トム・ペティと共に覆面インスタント・ユニット、トラベリング・ウィルベリーズを結成し、アルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol. 1』をリリース。ツアーも予定されていたが、12月6日にロイ・オービソンが心臓発作で亡くなったためツアーは幻に終わった。その後、デル・シャノンを加えた新体制で続行という噂があったが、デル・シャノンは1990年2月8日に拳銃自殺してしまう。この時期のバンドに関しては未だに詳細不明である。結局、残された4人で2枚目のアルバム『トラベリング・ウィルベリーズ Vol. 3』(1990年)をリリースし、バンドは自然消滅した。公式発表のアルバムはVol.1とVol.3で、所在不明になったVol.2の発掘が待たれる。
1989年にはボノの進言で招聘したダニエル・ラノワの好サポートによる『オー・マーシー』を発表。ディラン自身の性来持っている南部志向を存分に引き出し、1980年代の最高傑作と評されるものの、セールスは全盛期には遠く及ばなかった。2005年に発売された自伝には当時のレコーディングのことが詳細に記述されている。収録曲「モスト・オブ・ザ・タイム "Most of the Time" 」のプロモーションビデオには別バージョンが使われた。
[編集] 1990年代
一連のスタジアムコンサートツアーを終えたディランは、1988年6月7日[82]より小さなホールにおいて最小限のメンバーで即興性を全面に押し出したショウをはじめることにした。このツアーは「ネヴァー・エンディング・ツアー (Never Ending Tour) 」と題され、1991年にG・E・スミスのサポートメンバー脱退を持ってひとまず完結となった。これ以降のディランのツアーには、それぞれ別のタイトルがつけられていたのだが、いつしかファンの間ではディランのステージはおしなべて「ネヴァー・エンディング・ツアー」という名称で呼ばれるようになった。
当初はパンキッシュなアプローチも見せたが、次第にアコギとハーモニカという従来のスタイルを捨て、メロディーラインもアンサンブルもかなぐり捨て、ひたすらリードギターを弾きまくるスタイルになり、そのグルーヴ感を全面に押し出すスタイルを一部の評論家(特に小倉エージら旧来のウォッチャー)は「ボディ・ミュージック」とも形容した。ツアーメンバーには、サタデー・ナイト・ライブも手がけたG・E・スミス(後述の30周年コンサートでもハウスバンドのギタリストとして、事実上のコンサートマスターであった)、ウィンストン・ワトソン(ジョン・ボーナムばりのパワフルなドラミングで1990年代半ばのディランサウンドの象徴)、チャーリー・セクストン(元ソロ歌手)などが入れ替わり立ち代わり参加している。
1990年に『アンダー・ザ・レッド・スカイ』を発表後、ディランはその後7年間自作曲のスタジオ・アルバムを作らなくなった[83]。そのことに関してインタヴューで「過去にいっぱい曲を作ったので新曲を作る必要を感じない」と発言している。
その後、1997年までに発表されたものは2枚のトラディショナル・ソングのカバー・アルバム『グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー』と『奇妙な世界に』、未発表曲のコンピレーション、ベスト数枚、MTVライブであった。またウィリー・ネルソンのアルバムへのゲスト参加、映画『ナチュラル・ボーン・キラーズ』への楽曲提供(ポール・アンカのカバー「ユー・ビロング・トゥ・ミー」)、マイケル・ボルトンとの共作「Time, Love And Tenderness」などもあった。
1991年2月、グラミー賞生涯功労賞(Lifetime Achievement)を受賞[84]。授賞式では湾岸戦争開始直後の好戦気分溢れる時期でありながら、「戦争の親玉」をハードロックアレンジで歌い、聴衆の度肝を抜いた。
また、この年にはそれまでの過去の音源からの未発表曲を網羅した『ブートレッグ・シリーズ第1~3集』を発表した。「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「ブラインド・ウィーリー・マクテル ("Blind Willie McTell") 」、「夢のつづき ("Series Of Dreams") 」などの名曲集でディラン再評価の兆しになった。
1992年10月16日にはレコード・デビュー30周年を祝って、マディソン・スクエア・ガーデンで記念コンサートが開催され、多くのアーティストが一堂に会してディランの代表曲を歌った。ディランは当時、過去の人扱いにも似たこの「ボブ・フェスト(ニール・ヤング命名)」にはあまり嬉しそうではなく、ステージ上でも時折ナーバスな表情を見せていた。また、出演者が勢ぞろいして歌った「マイ・バック・ページ」はCDでディランのボーカルが差し替えられていたりと、編集の形跡がみられる。 "Song to Woody" はPAの不備によりアルバム収録はならなかったが、アコギ一本で鬼気迫るリードを弾く「イッツ・オールライト・マ ("It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)") 」は満場の観客を捉えるに充分の一撃であった。
1994年、2月に8年振りに訪日コンサートを行なう。4月には奈良市東大寺境内で行なわれたユネスコ主催の音楽祭「The Great Music Experience〈あおによし〉」のため再訪日。ニュー東京フィルハーモニック・オーケストラをバックに3曲を披露した。そのうちの1曲「はげしい雨が降る」のシンフォニックバージョンがヨーロッパ、オセアニア等でシングルCD「ディグニティ」のカップリング曲として収録されている(国によっては「悲しきベイブ(Renaldo & Clara Version)」に差し替えられている)。
夏には「ウッドストック1994 ("Woodstock '94") 」にも出演。公式アルバムには、ディランの曲からは「追憶のハイウェイ61 ("Highway 61 Revisited") 」だけが収録された。年末にはMTVの公開番組『MTVアンプラグド』に出演。1960年代の曲を中心とした選曲で、評判となる(ディランは当初古いフォーク・ソングをやることに決めていたがソニー側が反対した[85])。翌年『MTVアンプラグド』(1995年)のCD・ビデオがリリース。同時期、自身が設立したとされるレーベルから、ジミー・ロジャースのトリビュートアルバムを発表。 "My Blue Eyed Jane" はエミルウ・ハリス、ダニエル・ラノワとの久々の仕事であった。
1997年、2月に再び訪日。前回より小さめのホールが主体となったが、今回は迷いのない気迫溢れる演奏で好評を博す[注 18]。5月に心臓発作で倒れ、一時は危ぶまれたものの快癒し、復帰。この時ディランは「もうすぐエルヴィスに会うのかと本気で思った。」[86][87]と発言している。その直後、三度ラノワと組み、7年ぶりにオリジナル・アルバムを発表することが明らかになり、新曲はもう聴けないと思っていたファンを狂喜させた。このアルバム『タイム・アウト・オブ・マインド』は18年振りに全米トップ10に入り、グラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞した。このときにはアメリカのロック・バンド、ザ・ウォールフラワーズ(The Wallflowers) のフロントマンである息子のジェイコブ・ディランも同年にグラミー賞を受賞しており、親子揃っての受賞となった。
1997年9月、イタリア・ボローニャの世界聖体大会で、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の前で演奏。法王は、2万人の聴衆に「風に吹かれて」の歌詞をもとに説教を行った[88]。12月、ホワイトハウスにてケネディ・センター名誉賞を受賞。当時の米国大統領ビル・クリントンは、「ボブほどの衝撃を与えた同世代のクリエイティヴ・アーティストはおそらくほかにいない。」[89][90]と献辞を贈った。1999年6月から10月、ポール・サイモンとアメリカ国内ツアー。ビッグ・ネームふたりの共演に、チケットは高騰した[91]。
[編集] 2000年代
2000年には、映画『ワンダー・ボーイズ』に新曲「シングズ・ハヴ・チェンジド」を提供。2001年ゴールデングローブ賞主題歌賞[92]とアカデミー歌曲賞を受賞した[93]。
2001年2月から3月にかけて、5度目の訪日公演を行う。直後の9月11日には43枚目となるアルバム『ラヴ・アンド・セフト』を発表。奇しくもアメリカ同時多発テロの発生と同日のリリースであった。21年振りのトップ5アルバムである。
2002年ツアーよりディランはほとんどギターを弾かなくなり、もっぱらキーボードに専念するようになった。このことに関してディランは2004年のニューズウィーク誌のインタヴューで、ギターでは彼の望んでいるサウンドを形にしきれないこと、専門のキーボードプレイヤーを頼むことも考えたが、結局自分で弾くことにした、と答えている。
2004年3月17日にデトロイトで行われた公演で、ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトと共演し、ストライプスの曲をデュエット。また、この年の「Bonnaroo Festival」に出演。「入り江にそって ("Down Along The Cove") 」がCDに収録されている。
2004年10月には、ディラン自身が筆をとった自伝第1弾『ボブ・ディラン自伝(Chronicles: Volume One)』が出版された[注 19]。ショーン・ペンによる朗読CDも発売されている。また、同名の2枚組CDも存在し、「ディグニティ」のデモバージョン等が収録されている。
2005年7月16日に、オンライン書店アマゾン(Amazon.com)の創立10周年を記念したイベントで、ステージを披露。インターネットでストリーミング配信された。ノラ・ジョーンズと「アイ・シャル・ビー・リリースト」をデュエット。また同年9月から10月はじめには、マーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー『ノー・ディレクション・ホーム(No Direction Home: Bob Dylan)』がテレビで放映された[94][注 20]。ディラン本人の他、デイヴ・ヴァン・ロンク、スーズ・ロトロ、ジョーン・バエズ、アレン・ギンズバーグ、ピート・シーガーら関係の深い人達がインタビューに出演、サウンドトラックは未発表曲で構成され『ノー・ディレクション・ホーム:ザ・サウンドトラック(ブートレッグ・シリーズ第7集)』としてリリースされた。その後劇場上映され、翌年DVD化、2006年4月ピーボディ賞[95]、2007年1月コロンビア大学デュ・ポン・アワード[96]を受賞している。
2006年3月からは、ラジオ番組『Theme Time Radio Hour』で、初めてDJを務めている(アメリカの衛星ラジオ局、MX・サテライト・ラジオの「ディープ・アルバム・ロック・チャンネル」にて放送)。この番組は、インターネットでも配信されているため、日本での聴取も可能である。
同年8月29日には、通算44枚目となる5年ぶりのアルバム『モダン・タイムズ』を発表。このアルバムは、9月16日付ビルボードアルバムチャートで『欲望』以来、30年半ぶりのNo.1を獲得[97]。しかも自身初の初登場No.1を遂げた。また、このアルバムにも収録されている「サムデイ・ベイビー("Someday Baby")」は、ビルボード98位と23年振りのTop100シングル曲となった。
2007年2月のグラミー賞では、『モダン・タイムズ』と「サムデイ・ベイビー」で2冠を獲得した。
2007年、2008年の二年間をデビュー45周年とし、「DYLAN ICON」キャンペーンを実施全キャリアを総括するベスト盤『DYLAN』発売を皮切りに、「我が道を行く("Most Likely You Go Your Way (And I’ll Go Mine)") 」のリミックスの発表、「ニューポート・フォーク・フェスティバル」完全版DVD化、『オー・マーシー』から『モダン・タイムス』のアウトテイク、ライブ音源等を収録したブートレッグ・シリーズ第8集『テル・テイル・サインズ』の発売等ディラン再評価ムーブメントを象徴する動きが見られている。
[編集] 影響・語録など
- 「ディランは最高だった」 - ジョン・レノン
- 「僕はジマーマンを信じない」- ジョン・レノンの曲「ゴッド」より
- 「ジマーマン」はディランの本名。この曲はディランの人間性を否定したものではなく、キリスト、プレスリー、ディランなどあらゆる権威やそれまで自分が憧れ、精神的支柱、偶像としてきたものへの依存を止め、独立個人として前向きに生きていこうとする決意表明のもの。
- 「自分達が難解な歌詞を曲にできるようになったのは、ボブ・ディランが売れた前例のおかげ」 - スティーリー・ダン
- 「Weird Guitar Guy(怖い曲をギターで歌った変なおじさん)」 - ディランが、孫の通うロサンゼルス郊外の幼稚園で演奏した際、帰宅した子供たちの評[98]。
- 「もしディランのアルバムをどれか一枚聴こうと思うなら、ディランが今の自分と同い歳の時に作ったアルバムを聴け」 - みうらじゅん
[編集] 日本公演
[編集] ディスコグラフィ
詳細は「 ボブ・ディランの作品 」を参照
[編集] 受賞各賞
詳細は「 ボブ・ディランの受賞リスト 」を参照
[編集] 脚注
[編集] 注釈
- ^ リバコブ 『ボブ・ディラン』、p. 19。「5月21日」と記述。
- ^ スーンズ 『ダウン・ザ・ハイウェイ』、p. 47。「実際には、彼の親戚にディリオンはいない。」
- ^ このシングルは1967年にベネルックス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)で公式リリースされているが、このバージョンは『傑作』(1978年)に収録されたものの、日本でCD復刻されていない。ただし『バイオグラフ』(1985年)に別バージョンが収録されている。c/wの「コリーナ、コリーナ(Corrina, Corrina)」もアルバム未収録の別バージョンである。
- ^ 急遽「ジョン・バーチ・ソサイエティ・ブルース」他数曲が差し替えられた。アウトテイクのいくつかは『ブートレッグ・シリーズ第1~3集』(1991年)に収録されたが、 "Rocks And Gravel" は日の目を見ていない。
- ^ 『ニューポート・ブロードサイド』(1964年)では「Ye Playboys And Ye Playgirls」が発表された。日本では中川五郎がカバー。
- ^ タウン・ホールとカーネギー・ホールでのコンサートは、ライブ・アルバム Bob Dylan In Concert としてリリースされる予定だったが見送りとなった。音源の一部は、後に新譜の特典 Live at Carnegie Hall 1963(2005年)として配布された。
- ^ 『ブロンド・オン・ブロンド』の日本版LPはキーボードがフィーチュアされた幻の「定本」ミックスとする説もある。
- ^ これはドラッグソング(もしくは放送倫理規定に抵触するおそれのある曲)のNo.1を避けるための意図的な順位操作と言われている。他の例としてはドノヴァンの「メロー・イエロー (Mellow Yellow)」、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンの「ファイアー (Fire)」、ナポレオン14世の「狂ったナポレオン、ヒヒ、ハハ… (They're Coming To Take Me Away, Ha-Haaa!)」などがいずれも2位止まりである。
- ^ 1998年に発売された『ロイヤル・アルバート・ホール』は、実際にはマンチェスター、フリー・トレード・ホールの公演が収録されている。この公演は会場の表記を間違えたブートレグで発売されて有名になっていたため、正規盤としてリリースされたさいにも引用符を付けて "The "Royal Albert Hall" Concert のタイトルであえて名残を残したのである。ロイヤル・アルバート・ホールの公演の客席にはビートルズ、ローリング・ストーンズ、チャールズ皇太子がいたということから、当時の関心の高さが伺える。なお、会場側の機材の不備により、ミュージシャン側がPAシステムを持ち込むようになったのはこのツアーが初めてである。
- ^ なお、あまりのブーイングの激しさに、途中からレヴォンはツアーメンバーを抜け、ドラムはミッキー・ジョーンズに代わっている。
- ^ ツアーの終盤にはその「ライク・ア・ローリング・ストーン」はより攻撃的な歌詞を持つ「淋しき四番街」に差し替えられた。ザ・バンドのファンサイトではオーストラリア収録の音源が視聴できる。
- ^ ウィリアムズ 『ボブ・ディラン~瞬間の轍 1』、p. 263。「実際は、怪我は軽いものだった。」
- ^ スーンズ 『ダウン・ザ・ハイウェイ』、p. 228。「いったい何が起きたのか正確なことは謎につつまれたままだ。」
- ^ 「天国への扉」をカバーしたアーティストには、エリック・クラプトン、ガンズ・アンド・ローゼズ、グレイトフル・デッド、ボブ・マーリー、U2、テレヴィジョン、ブライアン・フェリー、マーク・ノップラー、ロジャー・ウォーターズ、アヴリル・ラヴィーン、ボン・ジョヴィなどがいる。
- ^ ジョン・レノンは"Serve Yourself"というアンサーソングを録音。ストーンズらとも非難の応酬になった。
- ^ ノップラーはミキシングが一段落した段階で自分の仕事に戻ったのであり、仕事を途中で投げ出したわけではない。そのノップラーミキシングによるバージョンの、ブートレグの評判は高い。後日、ノップラーは「あのアルバムは、自分が最後まで手掛けることができれば、もっといい出来になるはずだった」ということをインタヴューで述懐している。このことにより二人の不仲も心配されたが、数年後、再度同じステージに立つ機会があった。
- ^ エミルウ・ハリス、エリック・クラプトンなど彼のレコーディング、リハーサルに参加した者は異口同音に同じ感想を漏らす。「ディランはメンバーに指示を与えない。楽譜もリードシートもなければ、キーやリズムの指定もない。それで私達は彼の口と手の動きに最大限の注意を払わなくてはいけない。それが後にも先にも一度きりのセッションだからだ」。
- ^ 「ニューミュージックマガジン97年4月号」で菅野ヘッケル氏が、それまでの近年のステージがやや生彩に欠けたものであったことをひとつの意見として匂わせている
- ^ 日本語版は 『ボブ・ディラン自伝』 菅野ヘッケル訳、ソフトバンククリエイティブ、2005年7月19日。ISBN 4-7973-3070-8。
- ^ 日本でのテレビ初公開は2005年11月23日。
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- ポール・ウィリアムズ 『ボブ・ディラン~瞬間の轍 1 1960-1973』 菅野ヘッケル監修、菅野彰子訳、音楽之友社、1992年。ISBN 4-276-23431-X。 - Williams, Paul (1990). Performing Artist: The Music of Bob Dylan, Volume One 1960-1973. Novato, California: Underwood-Miller. ISBN 0-88733-089-4.
- ロバート・サンテリ 『ボブ・ディラン スクラップブック 1956-1966』 菅野ヘッケル訳、ソフトバンククリエイティブ、2005年。ISBN 4-7973-3071-6。 - Santelli, Robert (2005). The Bob Dylan Scrapbook: 1956-1966. New York: Simon & Schuster. ISBN 978-0-7432-2828-2.
[編集] 外部リンク
- BobDylan.com - 公式サイト(英語)
- Sony Music Online Japan : ボブ・ディラン - ソニーミュージック公式サイト
- 映画『ノー・ディレクション・ホーム』 - 公式サイト
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最終更新 2009年11月21日 (土) 06:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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