ボローニャ

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ボローニャ
Bologna
ボローニャの風景
ボローニャ の紋章
イタリア
エミリア=ロマーニャ
ボローニャ
測地系 北緯: 44°30′27″ 東経: 11°21′5″
標高 海抜 54 m
面積 140.73 km²
人口 374,460 2008年 
人口密度 2,656 人/km²
分離集落
隣接コムーネ アンツォーラ・デッレミーリアカルデラーラ・ディ・レーノカザレッキオ・ディ・レーノカステル・マッジョーレカステナーゾグラナローロ・デッレミーリアピアノーロサン・ラッザロ・ディ・サーヴェナサッソ・マルコーニゾーラ・プレドーザ
CAP(郵便番号) 40100
市外局番 051
ISTATコード 037006
IDコード A944
住民の呼称 bolognesi
守護聖人 San Petronio
祝祭日 10月4日
Comune
Posizione del comune nell'Italia
公式サイト

ボローニャ (イタリア語:Bolognaラテン語:Bononia、イタリア語ボローニャ方言:Bulåggna)は、イタリアエミリア=ロマーニャ州都市。ボローニャ自治県の県庁所在地でもある。アペニン山脈ポー川の間にあるポー川谷に位置する。1088年創立と、西欧最古の大学ボローニャ大学(ラテン語名アルマ・マタル・ストゥディオルム)がある。また、ボローニャはイタリア有数の発展した都市である。ボローニャのイタリア国内での生活の質の高さは常に10位以内に入る[1]。これは強力な工業都市としての伝統と、都市の位置によるものである。ボローニャは国で最も重要な高速道と鉄道が交差する地点にある。同様に、高度に発展した社会サービスが広範囲に行われている。

目次

[編集] 歴史

[編集] 古代

ボローニャはエトルリア人によってフェルシナ(Felsina)という名でつくられた(およそ紀元前534年頃)。一帯に以前に住んでいたのは、農夫や羊飼いをしていたヴィッラノヴァン人(enだった。エトルリア人都市は丘の上に建てられた聖地周辺で成長し、それはネクロポリスで囲まれていた。

紀元前4世紀、市はガリア人の一部族ボイイ族によって征服された。彼らは紀元前189年頃につくられたローマ植民地のボノニア(Bononia)からやってきた。移住者の中には、コンスルのルキウス・ウァレリウス・フラックス、マルクス・アティリウス・セラヌス、ルキウス・ウァレリウス・タッポに率いられた3000人のラテン系世帯が含まれていた。紀元前187年に建設されたエミリア街道はボローニャを道路のハブ地とし、フラミニア街道を通ってアレッツォと、別のエミリア街道を経由してアクイレイアとつながっていた。

紀元前88年、市はムニキピウム(municipium)となった。市は、6つのカルディ(cardi)と8つのデクマニ(decmani、交差する道路)のある、直線の通りがある設計であった。これらは今も見分けられる。ローマ帝国時代、都市の人口は12,000人から30,000人の間だった。最盛期には、イタリア第2の都市であり、帝国内で最も重要な都市の一つであり、多種多様な神殿、公共浴場、劇場、アリーナがあった。地理学者ポンポニウス・メラ(en)は、ボロニアをイタリア内の裕福な(opulentissimae)5都市の1つに含めた。クラウディウス帝時代に市は火事で損傷したが、ネロが紀元1世紀に再建した。

[編集] 中世

長い衰退の後、ボローニャは司教である聖ペトロニウス時代の5世紀に生まれ変わった。ペトロニウスは聖ステファノ教会を建てた。ローマ帝国衰退後、ボローニャはポー平野にあるラヴェンナ総督府の辺境要塞となり、城壁の列で守られていた。しかし古代ローマ都市の廃墟は囲まれなかった。728年、市はロンゴバルド族の王リウトプランドによって攻略され、ロンゴバルド王国の一部となった。ゲルマン人征服者たちは聖ステファノの教会複合施設近郊で、アッディツィオーネ・ロンゴバルダと呼ばれる地区をつくった。この地区には786年にカール大帝が滞在した。

11世紀、ボローニャは自由中世コムーネとして再成長を始め、1164年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に対抗するロンバルディア同盟へ加わった。1088年、ストゥディオと呼ばれるボローニャ大学が創立された。これが今やヨーロッパ最古の大学となり、イルネリウスのような名の知られた中世の学者、ダンテ・アリギエーリジョヴァンニ・ボッカッチョフランチェスコ・ペトラルカといった学生らを誇る。12世紀、市の拡大は新たな城壁一列を必要とし、別の物は14世紀に完成した。

1256年、ボローニャは天国法(Legge del Paradiso )を宣伝した。この法律は、公共の資金を利用して封建的農奴廃止と奴隷の解放を訴えていた。当時の市中心部はおよそ180という塔で埋まっていた。この塔は有力者家族によって建てられ、他には有名な公共の大邸宅、教会、修道院・寺院があった。1270年代のボローニャの政治は、ポデスタ(en、官職名)として仕えていたルケット・ガッティルシオ(enジェノヴァ出身の政治家・外交官)によって支配されていた。当時のイタリア都市の大半同様、ボローニャは教皇派と皇帝派に関係した内部抗争によって引き裂かれていた。この内部抗争は、1274年、皇帝派のランベルタッツィ家の追放が引き金となった。

1294年、人口の多い順に、コルドバパリヴェネツィアフィレンツェミラノに次いで、ボローニャは欧州で第5か第6の大都市で、6万人か7万人の人口があった。1325年のモデナによるザッポリーノの戦いでの激突後、ボローニャは衰退を始め、14世紀初頭にはローマ教皇の保護を依頼していた。1348年、黒死病大流行の最中、市の人口およそ3万人が死んだ。

15世紀のベンティヴォーリョ家のグロシュ
有名なボローニャの塔
アシネッリ塔

[編集] ルネサンス

タッデオ・ペポリ(治世:1337年-1347年)による幸福な支配の後、ボローニャはミラノのヴィスコンティ家のものになった。しかし、1360年に枢機卿ジル・デ・アルボルノスの勢力圏であった教皇領へと返還された。続く年月には1377年のような共和制政権の交替が見られた。ボローニャの有力貴族らが互いに血なまぐさい戦いを続けるのに忙しい間、この政権はサン・ペトロニオ大聖堂の建設、メルカンティのロッジア、そして教皇庁またはヴィスコンティ家復古主義者らへの処置に責任を負った。15世紀半ばに、ベンティヴォーリョ家がボローニャ支配権を獲得し、サンテ・ベンティヴォーリョ(治世:1445年-1462年)、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリョ(治世:1462年-1506年)が支配した。この時代は、著名な建築家や画家が存在し、彼らがボローニャを真の芸術都市にした、繁栄の時代であった。ルネサンス時代、ボローニャは、秀でた女性であればどんな専門的職業にも就けた唯一のイタリア都市であった。ボローニャの女性はイタリア他都市の女性よりもさらに大きな自由を持っていた。一部の女性は、大学で単位を得る機会すら持っていたのだ。

ジョヴァンニ2世の治世が1506年で終わると、ローマ教皇ユリウス2世軍はボローニャを包囲し、自分の宮殿用にと芸術作品を略奪した。この頃から、ボローニャは教皇領の一部になり、枢機卿に支配され、毎回2ヶ月間選出されるゴンファロニエーレ(gonfaloniere、裁判官)が議員となり、8人の長老コンスルがそれを補助した。1530年、サン・ペトロニオ大聖堂正面で、神聖ローマ皇帝カール5世が教皇クレメンス7世によって戴冠した。

16世紀終わりにペスト流行があり人口を72,000人から59,000人へ減らし、1630年には47,000人であったものの、市の繁栄は続いた。人口はのちに回復し、6万人から65,000人で固定された。1564年、大学の所在地であるアルキジンナシオに沿ってネットゥーノ広場とバンキ広場が建設された。教皇領時代の支配は多くの教会やその他の宗教施設が建設され、古いものが修繕された。ボローニャには96箇所の修道院があり、これはどのイタリア他都市よりも多かった。この時代にボローニャで活躍した芸術家らは、アンニーバレ・カラッチドメニキーノグエルチーノといったヨーロッパに高名をとどろかせた者らを含むボローニャ派を形成した。

エンツォ王の宮殿
ネットゥーノ広場、背後にマッジョーレ広場
ボローニャで有名なポルチコの1つ

[編集] 近代から現代へ

ナポレオンが台頭すると、ボローニャはチスパダーナ共和国の首都となり、続くチサルピナ共和国イタリア王国時代には、ミラノに次ぐ第2の都市となった。ナポレオン没落後、ボローニャでは教皇庁支配が復活したが、1831年と1849年には、1860年まで市を支配したオーストリア帝国の駐留兵が一時的に追放されるほどの反乱が起こった。1857年に教皇ピウス9世はボローニャを訪問したが、市は1859年6月12日にサルデーニャ王国への併合に賛成し、イタリア統一運動に合流した。

新たな政治状況の下、ボローニャはその文化的重要性を高め、商業、産業、通信の重要拠点となっていった。人口は再び増え始め、20世紀初頭には新たに増えた人口に対処するために、古い市壁が一部を残して破壊された。

第二次世界大戦中、ボローニャはドイツ軍の重要な輸送拠点であった。1945年4月21日のアメリカ陸軍第34歩兵師団によるボローニャの攻略は、ポー河谷を開放し、ドイツ軍の北イタリア防衛線の崩壊につながった。

1980年8月2日、強力な爆弾がボローニャ中央駅で爆発し、86人の死者を出した(ボローニャ駅爆破テロ事件)。そのわずか2ヶ月前には、イタヴィア航空870便(en)が、疑わしい状況のもと爆破される事件が起きていた。

[編集] 重要性

ボローニャはイタリア国内の非常に重要な鉄道・自動車道のハブ地である。市内のフィエラ地区は展示区域として知られ、モーターショーであるSaie、Saiedue、Cersaie、美容化粧分野のCosmoprof、Lineapelleといった国際展示会が開催されている。ボローニャとその都市圏には、機械、食品、電機の重要な工場、重要なリテールと卸売り貿易業といった部門を抱える。

ボローニャは厳密にはおよそ40万人の人口を抱え、都市圏にはおよそ1千万人が暮らす。また、11世紀創立の有名なボローニャ大学には10万人を超える学生がいる。

[編集] 見どころ

19世紀初頭まで、大規模な都市再建計画が着手されず、ボローニャは欧州有数の保存状態の良い中世都市に数えられている。今日、歴史的価値において一風変わった存在である。1944年にはかなりの空爆を受けているにもかかわらず、ボローニャ歴史地区はルネサンス、バロック時代の重要な芸術作品の豊かさをとどめている。

ボローニャはエトルリア人都市、そしてローマ植民地として、エミリア街道に沿って発展してきた。エミリア街道は今もストラーダ・マッジョーレ、リッツォーリ、ウーゴ・バッシ、そしてサン・フェリーチェという通り名に変わって市内を真っ直ぐ走っている。そのローマ時代の遺産のため、ボローニャ中心の通りは、ローマ人定住地の碁盤の目模様に従い現在広範囲に敷石が敷かれている。

原型のローマ時代の城壁は、一部が今も見られる高さのある中世の防衛設備によって取って代わられた。そして最後の城壁は13世紀に建てられ、これらの多くの部分が現存する。20以上ある中世の防衛用塔は、一部が危険な状態に傾いており、200年以上たった残りの塔は今世紀に再建され、統合された市政府によってセキュリティーが付けられた。

ボローニャは数多くの重要な教会がある。

  • サン・ペトロニオ大聖堂 
  • サン・ピエトロ聖堂
  • サント・ステファノ教会
  • サン・ドメニコ教会
  • サン・フランチェスコ教会
  • サンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会
  • サン・ジャコモ・マッジョーレ教会
  • マドンナ・ディ・サン・ルカ教会
  • サン・ミケーレ・イン・ボスコ教会
  • サン・パオロ教会

都市景観はさらに優雅であり、長く伸びたアーケード(またはポルチコ、屋根付き柱廊)などで市を有名にしている。市の歴史地区にあるアーケードは全長で38kmある[2](厳密には45km以上)。降雨、降雪、または真夏の日差しを避けて長い距離を歩くことが可能である。サン・ルカのポルチコはサラゴッサ門につながっていて(中世に旧市壁に12箇所の門が建設されており、その一つ)、全長7,5kmある。

マドンナ・ディ・サン・ルカ教会は市街の外側であるコッレ・デッラ・グアルディア地区(警備の丘)にある。教会は11世紀に建てられ、14世紀と18世紀にさらに拡張された。内部には数点の傑作が含まれるが、おそらく最も重要なのは聖母子とルカを描いた絵画であろう。この教会へ向かう最適の方法は、徒歩となる。上記のポルチコを歩いていけるのである。

[編集] 文化

数世紀以上、ボローニャは多くのニックネームを獲得してきた。『学問都市』(ラ・ドッタ)は有名な大学にちなみ、『肥満都市』(ラ・グラッサ)はその食文化にちなむ。

『赤い都市』(ラ・ロッサ)とは、元々は歴史地区の屋根の色を指す言葉であった。しかし、このニックネームは第二次世界大戦開戦後の市の政治的状況とつながった別名でもある。1999年に中道右派の市長が選出されるまで、市は社会主義共産主義の牙城として有名だった。中道左派が、現市長セルジオ・コッフェラティを選出した2004年市長選で勢力を再獲得した。ボローニャは、公共交通の自由化構想の経験をした最初の欧州都市の一つである[3]

別のニックネームには、『籠の都市』というものがある。通常のイタリア都市であればサッカーが盛んなところ、これはボローニャがバスケットボールにとりつかれた状況を指す。市の1、2を争うバスケットボール・クラブ・チーム、フォルティトゥド・ボローニャとヴィルトゥス・ボローニャの対戦は激しい[1][2]

サッカーは高い人気を持っており、ボローニャFCは現在セリエAである。

ボローニャは、2006年5月29日、UNESCOによって音楽都市として登録された[4]

[編集] ボローニャ発祥の企業

[編集] 交通

ボローニャには、グリエルモ・マルコーニ国際空港がある。この空港は2004年に拡張され、さらに大きな機体を収容する滑走路が整備された。イタリア有数の繁忙空港である(2007年度は4千万人以上が利用した)。

ボローニャ中央駅は、市の重要な位置に所以してイタリア最重要のハブ駅とみなされている。ボローニャの各駅は、1980年8月に85人もの死者を出した極右爆弾テロ事件(ボローニャ駅爆破テロ事件)の慰霊碑を備えている。

[編集] 統計

2007年、ボローニャには372,256人の人口があった(大ボローニャ都市圏には1千万人)。そのうち46.7%が男性、53.3%が女性であった。若年層は人口の12.86%、年金生活者は27.02%であった。イタリア平均の若年層割合は18.06%、年金生活者割合は19.94%である。ボローニャ市民の平均年齢は51歳であるのに対し、イタリア全土の平均年齢は42歳である。2002年から2007年までの5年間で、ボローニャ人口は0%の伸びであり、イタリア全土の人口増加率は3.56%である[3]。ボローニャの最近の出生率は人口1,000人に対し8.07人、イタリア平均は9.45人である。

2006年の調査では、人口の91.88%がイタリア人であった。最大の移民グループはルーマニア人アルバニア人である。その他フィリピン人の多い東アジア系2.82%、バングラデシュ人の多い南アジア系1.39%である[4]

[編集] 美食

ラグー・アッラ・ボロニェーゼであえたフェットチーネ

ボローニャは美食の都として知られている。スパゲティのソースとして有名なボロニェーゼは、肉をベースとしたパスタ・ソースで、イタリアではラグー・アッラ・ボロニェーゼ(ragù alla bolognese)と呼ばれている。しかし、ボローニャではタリアテッレ・アル・ラグー(Tagliatelle al ragù)のラグーを『ラグー・アッラ・ボロニェーゼ』だとする。

肥沃なポー川谷に位置し、豊富な地元料理は肉とチーズを多用する。エミリア=ロマーニャ州全土で、プロシュートモルタデッラ(いわゆる「ボローニャソーセージ」)、サルーメといった豚肉加工品の生産は地元食品産業の重要な部分となっている。近郊のブドウ畑では、ピニョレット・デイ・コッリ・ボロネージ、ランブルスコ・ディ・モデナ、サニオヴェーゼ・ディ・ロマーニャといったワインが知られる。

タリアテッレ・アル・ラグー、ラザーニャ、スープの中に使われるトルテッリーニ、ボローニャ特産ソーセージのモルタデッラは、地元料理の代表である

[編集] 大学

ジャンボローニャが製作したネットゥーノの泉

ボローニャ大学は1088年創立で、ヨーロッパ最古の大学であり、中世を通じヨーロッパの英知の中心地であり続け、キリスト教国から学者を惹きつけてきた。装飾を施された写本と、13世紀から14世紀にかけ市内で作られた法学者の墓によって中世美術のユニークな遺産の範例となった。これらは有名な中世の研究所に対する文化的背景を提供するものである。ストゥディウムは、どの講師も個々の学生から手当を集めて教育する制度をゆるやかに組織したもので、元々この大学から知られるようになった。初期の大学のストゥディウムの状況は市の至る所に広まって、多様なカレッジが特殊な国籍の学生を支援するため創設された。

ナポレオン時代、大学本部は市中心部から北東部である現在のヴィア・ザンボーニへ移された。今日、大学の23の学部、68の学科、そして93の図書館は市を超えて広がり、チェゼーナフォルリラヴェンナリミニに4つの分校がある。大学に在籍していた学生の中で有名なのは、ダンテ・アリギエーリペトラルカトマス・ベケット、教皇ニコラウス5世エラスムス、ピエトロ・ヴェルミリ、コペルニクスらである。1732年に任命されたラウラ・バッシは、ヨーロッパの大学で公式に講義を命じられた初の女性となった。さらに近世では、ルイージ・ガルヴァーニグリエルモ・マルコーニも大学で活動した。ボローニャ大学はイタリアで最も尊敬され、活動の盛んな高等教育機関の一つにとどまっている。ボローニャ大学ができた日から、ボローニャは今も大学都市であり続け、市の人口は、学期に講義が行われるときには40万人から50万人以上にふくれあがる。

大学の植物園であるオルト・ボタニコ・デッルニヴェルシタ・ディ・ボローニャ(en)は、1568年につくられた。これはヨーロッパで4番目に古いものである。

サン・ペトロニオ教会

[編集] コムーネの行政

  • 代表(Sindaco) : Sergio Gaetano Cofferati(2004年6月選出)
  • コムーネの代表電話 : 051 203111
  • コムーネのe-mail アドレス : Sindaco@comune.bologna.it


[編集] ボローニャ出身の人物

[編集] 姉妹都市


[編集] 脚注


[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
公式
観光

pnb:بولونا

最終更新 2009年11月13日 (金) 21:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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