ポツダム

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ポツダム
Potsdam
ツィツィーリエンホーフ宮殿
ツィツィーリエンホーフ宮殿
ポツダムの紋章
紋章
ポツダム (ドイツ)
ポツダム
座標: 北緯52度24分0秒 東経13度4分0秒 / 北緯52.4度 東経13.06667度 / 52.4; 13.06667
ドイツ
ブランデンブルク州
郡独立市
行政
 - 市長 ヤン・ヤーコプス (SPD)
面積
 - 計 187.27 km² (72.3 sq mi)
標高 35 m (115 ft)
人口 (2008年12月31日)
 - 計 152,966人
 - 人口密度 817人/km² (2,116人/mi²)
郵便番号 14401 – 14482
市外局番 0331
ナンバープレート P
自治体コード 12 0 54 000
ウェブサイト: potsdam.de
サン・スーシ宮殿

ポツダムPotsdam)はドイツ連邦共和国東北部に位置する郡独立市。ブランデンブルク州の州都である。人口は約13万人。旧東ドイツ領。東ドイツ時代は、ポツダムを県都とするポツダム県が置かれていた。

目次

[編集] 地勢・交通

ベルリンの西南近郊に位置し、ベルリンの中心街から約26kmである。ベルリンからSバーン(S-Bahn、近郊列車)で行くことができる。ハフェル川が流れ、いくつかの互いにつながった湖がある。

[編集] 歴史

ポツダムは"Poztupimi"と呼ばれるスラブ人の村として7世紀に設立された可能性が高い。名前の意味は「樫の木の下」と思われる。993年に最初に文書に記述され、1317年までは小さな町として記述されていた。1345年に都市特権を得た。1573年のポツダムは、人口2000人程度の小さな市場町であった。三十年戦争によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。

ポツダムの命運が劇的に変わったのは、1660年にブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの狩猟館として選ばれてからである。その後、ホーエンツォレルン家の宮殿が置かれるなどプロイセン公国の拠点の一つとして発展した。1685年、フランスでルイ14世ナントの勅令(1598年に定められていた宗教寛容令)を廃止してユグノーの迫害を図ると、プロイセンはポツダム勅令を発表した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、ロシア、オランダ、ボヘミアなどから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。

その後、街はプロシア王家の居住地となった。王家の壮大な建造物は、18世紀半ば、主にフリードリヒ2世の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、庭園とロココ様式の内装で有名なサンスーシー宮殿である。他には、新宮殿オランジェリー宮殿がある。

1945年、第二次世界大戦においてドイツが降伏した後、この都市のツェツィーリエンホーフ宮殿の3首脳が集まり、ドイツの戦後処理および日本の全面降伏を要求するポツダム会談が行われた。

[編集] 政治

[編集] 姉妹都市

[編集] 観光

ハーヘル川に繋がる湖

1745年プロイセン王国フリードリヒ大王が造営した夏の離宮サンスーシ宮殿や、第二次世界大戦末期の1945年ポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿などが、1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」として、ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年10月10日 (土) 17:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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