ポル・ポト

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カンボジアの政治家
ポル・ポト
Pol Pot
ポル・ポト
生年月日 1928年5月19日
出生地 仏領インドシナ
没年月日 1998年4月15日(満69歳没)
死没地 カンボジア
所属政党 クメール・ルージュ

内閣 ポル・ポト内閣
任期 1975年5月13日 - 1979年1月7日
退任理由 ベトナム軍によるプノンペン侵攻のため
国家幹部会議長 キュー・サムファン
  
ポル・ポトの胸像(プノンペントゥール・スレン収容所

ポル・ポトPol Pot、本名:サロット・サルSaloth Sar1928年5月19日[1][2] - 1998年4月15日)は、カンボジア政治家民主カンプチア首相、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)書記長。

通称は「一の同志」、「コード87」、「バン・ポー(年長者)」などがある[3]

目次

[編集] 生い立ち

サロット・サル(以下、断りなくポル・ポト)は、仏領インドシナの一部Prek Sbauv(現在のカンボジア・コンポントム州)で裕福な農家の9人兄弟の8番目として生まれ育った。6歳の頃に、親元を離れて僧院生活を体験し、後に全寮制の小中学校へ進んだ。

1949年に無線工学を研究するため奨学金を受けパリ留学した。留学中に彼は共産主義者になり、新生のクメール共産主義グループに参加した。このグループは当初、フランス共産党内部に形成された。彼は1953年にカンボジアへ帰国し、フランス語教師として働いた。また、1956年、パリで知り合った夫人キュー・ポナリーと結婚した。

[編集] カンボジア共産党

クメール・ルージュ を参照。

当時、フランスのインドシナ支配に対して共産主義者主導の反仏活動が起こっていた。この活動の中心はベトナムにあったが、さらにカンボジアラオスに波及した。サロット・サルはベトミンに参加したが、ベトミンがベトナムのみを重視し、ラオスおよびカンボジアに関心がないことを知った。1954年にはフランスが仏領インドシナを去ったが、ベトミンはジュネーヴ協定により北緯17度線以北の北ベトナムへ集結した。

1955年3月3日シアヌークは国王を退位し、後に政党を組織する。彼はその人気と威嚇を使用して共産主義の反対勢力を一掃し、1955年9月11日の選挙で議席をすべて獲得した。しかし政界では左派・右派の対立が絶えず、シアヌークが必要に応じて左派の重用と弾圧を繰り返したため、ポル・ポトやイエン・サリキュー・サムファンといった左派の指導者はジャングルに逃れる。

ポル・ポトはシアヌークの秘密警察を避け、12年を地下活動で費やした。その間、彼は教師の肩書きを持つことから無学な農民出身者の多い党の中では重用され、次第に党幹部として頭角を表した。1960年カンボジア共産党中央常任委員を経て、1963年の第3回党大会で書記に就任した。1967年にポル・ポトは中華人民共和国に支援されて政府に対する武装蜂起を始めた。カンボジア共産党は後にクメール・ルージュとして知られ、同党の武装組織はポル・ポト派と呼ばれた。ポル・ポトはその思想に毛沢東思想の変形を採用した。クメール・ルージュは完全な平等主義の土地均分論を考え社会主義の中間段階を回避し、原始共産主義の達成を目指した。

[編集] シアヌークとの蜜月

シアヌーク南ベトナム解放民族戦線に支援されていると見なしていたアメリカ合衆国ロン・ノル将軍を支援、1970年3月18日にクーデターを起こし、シアヌークを政権から退けた。国外に追放されたシアヌークは、挽回を図りポル・ポトと接触した。元々クメール・ルージュとシアヌークは不倶戴天の敵であったが、ここに共闘関係が生まれた。ポル・ポトは元国王の支持を取り付けることで、自らの正当性を主張できると考えた。

同年アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンは、南ベトナムと隣接する解放戦線の拠点を攻撃するためにカンボジア国内への侵攻を命じた。以後アメリカ軍とカンボジア軍はカンボジア農村部に激しい空爆を行い、農村は荒廃し数十万人が犠牲となり、クメール・ルージュへの加入者は激増しその勢力は拡大した。

シアヌークの人気とアメリカ軍のカンボジア爆撃は、ポル・ポト側に有利に働いた。また、ロン・ノル政権は汚職が蔓延し都市部しかコントロールできなかった。

ベトナム戦争の不安定化、特に「ベトナムの聖域を浄化する」アメリカ軍のカンボジア猛爆がなければクメール・ルージュが政権を獲ることもなかったであろうという議論もある(ウィリアム・シャウクロスの1979年の著書『Sideshow』がこの点に触れている)。

[編集] 全権掌握

[編集] 民主カンプチア

1973年、アメリカがベトナムから撤退。それと同時に、南ベトナム解放民族戦線はカンボジアを去ったが、クメール・ルージュは戦いを続けた。国土に対する管理が維持できずロン・ノル政権はすぐに崩壊し、1975年4月17日にクメール・ルージュはプノンペンを占領した。当初、都市部の住民はクメール・ルージュを歓迎したが、数日のうちに彼らは銃剣を突き立てられて農村部への強制移住を強いられることとなる。クメール・ルージュは全権掌握後、国名を「民主カンプチア」に改名。またポルポトもこの間に、自身の名前を「サロト・サル」から「ポル・ポト」へ改めたという。しかし、ポル・ポトはほとんどジャングルから出ず、表向きはシアヌークやその部下を中心とした政権を前面に出し、彼らを傀儡として操ろうとしていたという。

ロン・ノルはアメリカへ亡命したが、逃げ遅れた一族のロン・ノン、ロン・ボレトら閣僚は首都陥落直後に「敵軍掃討委員会」に身柄を拘束され、全員処刑された。他にも政治家・高官・警察官・軍人ら700人余りが殺害され遺体は共同墓地に投げ込まれた。ポル・ポトはシアヌークと「売国奴」としてリストに名をあげた少数の人物のみを処刑するとしていたが、その約束は反故にされた。

なお5月12日にカンボジア領海でクメール・ルージュ軍がアメリカ商船マヤグエース号を拿捕するというマヤグエース号事件が発生している。

ノロドム・シアヌークは1975年に復権したが、すぐに自身が急進的な共産主義の同僚と同列にされていることを理解した。彼らは君主制を回復するシアヌークの計画に興味をほとんど持たなかった。クメール・ルージュ強硬派はシアヌークの計画を許容できず、1976年4月2日、彼を自宅監禁。既存の政府は崩壊し国家元首としてのシアヌーク王子はその地位を追われ、キュー・サムファンが初代大統領(正式には「国家幹部会議長」)になった。

1976年5月13日に、ポル・ポトは民主カンプチアの首相に正式に就任し、地方で大粛清を始め、徹底的な国家の改造を行った。ポル・ポトが目指したのは中国の毛沢東主義を基盤にした「原始共産主義社会」であり、資本主義の要素を全て否定することであった。また、カンボジア仏教からも自我の否定、戒律、転生などいくつかの観念が援用されていた。

内戦中、アメリカ軍の農村部への爆撃により農村人口は難民として都市に流入した。1976年直前にプノンペンの人口は100万以上までに増加した。クメール・ルージュは権力を獲得後、「米軍の空爆があるので2、3日だけ首都から退去するよう」都市居住者に命じ地方の集団農場へ強制移住させた。生存者の証言によると、病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても全く配慮はなく、中には点滴を引きながら歩く病人、路上で出産する妊婦など地獄絵図であったという。別の証言では、家族が行方不明になり、「家族が戻るまで家にいさせて欲しい」と訴えた住人は、「そんなに家にいたいのなら死ぬまでいろ」と門に鎖で縛られ、食べ物はおろか水も飲めずに死ぬまで放置されたという。

プノンペンは飢餓と疾病、農村への強制移住によってゴーストシティに変わり、医者や教師なども見つかると「再教育」という名目で呼び出され殺害された。クメール・ルージュの蔑視する知識階級も同様の仕打ちを受け、「眼鏡をかけている」「手がきれい(労働階級ではない)」という理由だけで処刑された事例もあった。この結果知識層は壊滅し、カンボジアの社会基盤は大打撃を受けた。

ポル・ポト政権は、「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱えて、政治的反対者を弾圧した。通貨は廃止され私財は没収され、教育は公立学校で終了した。更に国民は「旧人民」と「新人民」に区分され、長期間クメール・ルージュの構成員だった「旧人民」は共同体で配給を受け自ら食料を栽培できたが、プノンペン陥落後に都市から強制移住された新参者の「新人民」はたえず反革命の嫌疑がかけられ粛清の対象とされた。「新人民」は、「サハコー」と呼ばれる生産共同体へ送り込まれ、劣悪な環境と過酷な強制労働に駆り出された。彼らの監視に当てられたのは「旧人民」であり、密偵という集団はポル・ポトから「敵を探せ」と命じられていた。しかし、当初こそ特権的な暮らしを享受した「旧人民」も農村に人口が流入すると食糧不足により、「新人民」同様働かされるようになったという。このような労働者は、報酬も無く食料も満足に与えられなかった。病気ですら病院に行っても医師は皆粛清されているため、なかなか治らず仮病と疑われた。こうした過酷な労働と、栄養失調、飢餓により多くの者が生命を落とした。

カンボジアでは伝統的に上座仏教が信仰されてきたが、仏教もまた弾圧の対象とされ、多くの僧侶が強制的に還俗させられ、寺院が破壊された。ポル・ポト政権下において、仏教は壊滅的な打撃を受けた。

対外的には、かねてからポル・ポトと関係の深かった中華人民共和国と北朝鮮との関係を強化し、ポル・ポト自身も積極的に外訪した。また、ポル・ポトが「完全な兵士」として賞賛した地雷は、地方に広く埋設された。

ポル・ポト政権下での内戦およびベトナム軍の侵攻による死傷者数は議論されている。ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万とした。(これはのちに下方修正された)ポンチャウド神父は230万とするが、これはクメール・ルージュが政権奪取する以前の死者を含む。イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万、アムネスティ・インターナショナルは140万、アメリカ国務省は120万と概算するがこれらの数字には内戦時代の戦闘や米軍の空爆による死者は含まれない。フィンランド政府の調査団によれば内戦と空爆による死者が60万人・ポルポト政権奪取後の死者が100万人とする。 当事者による推定ではキュー・サムファンは100万人、ポル・ポトは80万人である。

[編集] 没落

伝統的に、カンボジア人の間では、隣の大国であるベトナムに対する反感が強い。それはイデオロギーに関係なく、内戦中はロン・ノル政権、クメール・ルージュともに国内のベトナム人を虐殺・迫害した。シハヌーク時代に50万人いたベトナム人のうち、1970年まで虐殺と迫害を逃れるためにベトナムに帰還したのは20万人以上にのぼる。権力を掌握したポル・ポトたちは、ナショナリズムの姿勢を強め、東部国境でベトナムへの越境攻撃を繰り返し、現地住民を虐殺した。彼はクメール・ルージュのラジオの放送で「ベトナムを排除するのに洗練された武器は必要ない。歴史ある民族の各人が、その手で一人につき10人のベトナム人を殺せば足りる」とはっきり語った。これがベトナムの侵攻を招く要因になる。

1977年、ベトナム軍がカンボジアに侵攻、また親ベトナム軍が1979年1月7日、プノンペン入りを果たした。この時彼らは廃墟からカンボジア人が受けた虐殺を示す、頭蓋骨の山を見つけたという。クメール・ルージュ軍は敗走し、ポル・ポトはタイの国境付近のジャングルへ逃れた。1月にベトナムは、粛清を避けてベトナムへ逃れた元クメール・ルージュ構成員から成るヘン・サムリン政権(カンボジア人民共和国)を成立させた。このことは東部カンボジアでのクメール・ルージュ構成員の広範囲な離脱につながった。離脱者の大部分は、ベトナム側が宣伝した「離脱しなければポル・ポト政権下での残虐行為が告発される」ことへの恐れによって動機づけられた。ポル・ポトは国の西部の小地域を保持し、以後も武装闘争を続けることになる。

以前にポル・ポトを支援した中華人民共和国は「懲罰行為」としてベトナムに侵攻し中越戦争が起こった。

[編集] 余波

ソ連に敵対したポル・ポトはタイおよびアメリカから直接的、間接的に支援された。アメリカと中華人民共和国は、ヘン・サムリン政権をベトナムの傀儡であるとしてカンボジア代表の国連総会への出席を拒否した。ポル・ポトが反ソビエトだったので、アメリカ、タイおよび中国はベトナム支持のヘン・サムリンより好ましいと考えた。

また、ポル・ポトとシアヌークおよびナショナリストのソン・サンの間の反ベトナム同盟を促進することを試みた(1981年9月4日3派合意)。ポル・ポトは、この終了を求めて公式に1985年に辞職したが、同盟内の事実上のカンボジア共産党のリーダーとして支配的影響力を維持した。

1989年ベトナム軍はカンボジアから撤退した。ポル・ポトは和平プロセスへの協力を拒絶し1993年の国連監視下での自由化された総選挙にも参加せず、新しい連立政権と戦い続けた。この選挙により弱体化したクメール・ルージュは1996年まで政府軍を寄せつけなかったが、軍が堕落し規律も崩壊し、数人の重要な指導者も離脱した。

[編集] 死去

アンロン・ベン県に建立されているポル・ポトの墓

1997年に、ポル・ポトは政府との合意を行なうために、彼の長年の側近だったソン・センを殺害した。しかしその後、自身が新政権と結んだクメール・ルージュの軍司令官タ・モクによって「裏切り者」として逮捕され、終身禁固刑(自宅監禁)を宣告された。1998年の4月にタ・モクは新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連れて行った。伝えられるところによれば、1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死んだ。しかし遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺の可能性もある。遺体は古タイヤと一緒に焼かれた後に埋められ、墓は立てられなかった。

[編集] 脚注

  1. ^ Brother Number One, David Chandler, Silkworm Book, 1992 p.7
  2. ^ "Pol Pot Biography". Notablebiographies.com. 2009-02-27 閲覧。
  3. ^ ラルース世界史人物辞典

[編集] 参考文献

  • 『ポル・ポト ある悪夢の歴史』 フィリップ・ショート 山形浩生訳 白水社 2008年
  • 『ポル・ポト「革命」史 虐殺と破壊の四年間』 山田寛 講談社選書メチエ 2004年
  • 『ポル・ポト 死の監獄S21 クメール・ルージュと大量虐殺』 デーヴィッド・チャンドラー 山田寛訳 白揚社 2002年
  • 『ポル・ポト伝』 デービッド・チャンドラー 山田寛訳 めこん 1994年
  • 『なぜ同胞を殺したのか―ポル・ポト 堕ちたユートピアの夢』 井上恭介/藤下超 日本放送出版協会 2001年
  • 『ポル・ポト派の素顔』 クリストフ・ペシュー 友田錫監訳 日本放送出版協会 1994年
  • 『カンボジア大虐殺は裁けるか クメール・ルージュ国際法廷への道』 スティーブ・ヘダー、ブライアン・D. ティットモア 四本健二訳 現代人文社 2005年
  • 『ブラザー・エネミー サイゴン陥落後のインドシナ』 ナヤン・チャンダ 友田錫/滝上広水訳 めこん 1999年
  • カンボジア、いま クメール・ルージュと内戦の大地』 高沢皓司/写真と文 新泉社 1993年
  • キリング・フィールドからの生還 わがカンボジア〈殺戮の地〉』 ハイン・ニョル/ロジャー・ワーナー 吉岡晶子訳 1990年 光文社

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

mwl:Pol_Pot

最終更新 2009年11月27日 (金) 16:23 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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