ポンド危機
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ポンド危機(ポンドきき、pound crisis)とは、1992年秋に発生したイギリスの通貨であるポンドの為替レートが急落した出来事である。
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[編集] 経緯
[編集] 発端
もともとポンドは世界の基軸通貨であったが、第二次世界大戦後その地位は失われた。また、イギリス経済はストップゴー政策と呼ばれる経済政策の迷走の結果、「英国病」といわれるほどの経済的低迷状態にあった。
イギリスの経常収支は1960年代から北海油田の採掘が始まり80年代には純原油輸出国であったことから原油価格高騰時は黒字であったが、基本的に赤字基調となりつつあった。
そのなかで、EC(欧州共同体)では域内通貨の統合に向けて域内通貨間の為替レートを事実上固定するEMS(欧州通貨制度)とERM(欧州為替相場メカニズム)を進めていた。
1990年10月に東西ドイツが統一されて以来、旧西ドイツ政府による旧東ドイツへの投資が増加し、欧州の金利は高目に推移していた。高めの金利は欧州通貨の増価をもたらした。連動してポンドは次第に過大評価されていくことになり、持続可能性を喪失していった。
これに目をつけたのがジョージ・ソロスである。ソロスは「相場は必ず間違っている」が持論であり、このときもポンド相場が実勢に合わないほど高止まりしていると考えた。そして、ポンドを売り浴びせ、安くなったところで買い戻すという取引を実行することになる。
[編集] 展開
1992年9月になり、ポンドへの売り浴びせは激しさを増した。
9月15日には激しいポンド売りにより変動制限ライン(上下2.25%)を超えた。
9月16日にはイングランド銀行が公定歩合を10%から12%へ引き上げ、さらにその日のうちにもう一度引き上げ15%とした。しかし、それでも売り浴びせはとまらなかった。事実上のERM脱退となったこの日はブラックウェンズデー(暗黒の水曜日)と呼ばれている。
9月17日、イギリスポンドは正式にERMを脱退し、変動相場制へ移行した。
[編集] 結果
ポンドはその後も1995年まで減価を続けた。
ジョージ・ソロス率いるヘッジファンドは10億〜20億ドル程度の利益を得たといわれる。
翌年の1993年には欧州各国に通貨危機が飛び火し、ERMは大幅な再編を迫られることとなった。1992年9月のERM離脱によりイングランド銀行および大蔵省は不名誉な敗北を喫した格好に見えたが、1992年の下半期からイギリス経済は他の西欧諸国に先がけて景気回復に向かい、1993〜1994年と順調な拡大を続けた。
その原動力になったのが1992年9月・ERM離脱以降の金融緩和による家計部門の耐久消費財支出の伸張であり、ERM離脱以降、ポンドが主要国通貨に対して大幅に減価したことによりイギリス製品の価格競争力が高まったことなどから輸出は大きく拡大した[1]。
ERMはポンド危機による再編後、1999年には統一通貨ユーロへと結実している。なお、イギリスはこのユーロに2009年現在も参加していないが、大陸欧州との通貨統合の試みにより不名誉をこうむったポンド危機の記憶と無関係ではない。
1997年には同様にヘッジファンドによる通貨空売りが東南アジアで発生しアジア通貨危機となった。
[編集] 脚注
- ^ 経済企画庁 (1995-12-15). "平成7年 年次世界経済報告". 内閣府. 2008-09-13 閲覧。
[編集] 関連項目
最終更新 2009年8月17日 (月) 10:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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