ポーランド総督府

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ポーランド総督府(Generalgouvernement für die besetzten polnischen Gebiete)とは、1939年9月のポーランド戦役ドイツ軍が占領したポーランド領のうちドイツ領に併合されなかった旧ポーランド領を指す。

目次

[編集] ポーランド総督府の創設

帝国大管区(緑色)と1941年のポーランド総督府(右端)


ヒトラー1939年10月8日10月12日付の指令でドイツに隣接する旧ポーランド領をドイツに併合、次の行政区画を設けた。一部に帝国大管区の名称を付与した。(旧ポーランドの行政区画のVoivodship をと訳し、ナチス・ドイツの Regierungsbezirk をと訳す。Regierungsbezirk はプロイセン王国に端を発する行政区画の名称で、ナチス・ドイツ時代に全国に広められた。日本語訳としては県が定訳として認知されている。) 

  • ヴァルテラント帝国大管区 (当初はポーゼン帝国大管区):旧ポーランドのポズナン県 (Poznań Voivodship) 全体と、ほとんどのウッチ県 (Lodz Voivodship) と、ポモージェ県 (Pomeranian voivodship) の5つの郡 (country) と、ワルシャワ県 (Warsaw voivodship) の1つの郡を含む。
  • ポモージュ県の残りはダンツィヒ・西プロイセン帝国大管区(当初は西プロイセン帝国大管区)に併合される。
  • ワルシャワ県の北部に位置する5つの郡 プウォツク (Płock)、 プウォンスク (Płońsk)、 シェルラン(Sierpc), チェハヌフ (Ciechanów)、ムワヴァ (Mława)は、ナチスドイツの東プロシア州のツヘナウ県 (Regierungsbezirk Zichenau) となる。
  • ソスノヴィエツ (Sosnowiec)、ベンジン (Będzin), フシャヌフ (Chrzanów)、ザヴィエルチェ (Zawiercie)郡とオルクシュ (Olkusz)とジヴィェツ (Żywiec)郡の一部は、 ナチス・ドイツのカトヴィツ県 (Regierungsbezirk Kattowitz) となる。非公式に東オーバーシュレジエンと呼ばれる。

これらの領域は9万4千平方kmあり、人口は約1千万であった。

ドイツに併合されなかった旧ポーランド領は、ポーランド総督府と呼ばれる統治機関の下に置かれた。1939年10月26日ハンス・フランクが総督に任命された。首都はクラクフ(Kraków)で、行政区画はワルシャワ (Warsaw), ルブリン (Lublin), ラドム (Radom)とクラクフの4つに分けられる。1941年6月のソビエト侵攻後、ウクライナSSRの一部であった東ハルィーチナがポーランド総督府の5つ目の領域となった。

ポーランド総督府は、純粋にドイツの統治機関で、ポーランド人から構成される傀儡政権ではなかった。これはドイツ支配下のヨーロッパに新たなポーランド人州を作ろうとするものではなかった。1941年3月ヒトラーは、「ここを15~20年で完全なドイツ人居住地にする」と決定していた。ヒトラーは、「4~5百万人のドイツ人に対して、1千2百万人ものポーランド人がいる。ポーランド総督府領はラインラントと同じくドイツ人のものになるべきだ」と述べている[1]

1939年秋、ドイツに併合された旧ポーランド領からポーランド人がポーランド総督府領に強制移住させられ、ポーランド人にとって巨大な強制収容所の様なものとなった。そこでは、ポーランド人の男女はドイツ第三帝国の工場や農場で強制労働を強いられた。

[編集] 総督府の人口構成

ポーランド総督府領の人口は最初1千2百万人であったが、ドイツに併合された旧領土から、86万人のポーランド人とユダヤ人が、ポーランド総督府に「強制移住」させられた。これと相殺する形で、ドイツはポーランド人の知識階級や抵抗分子の殺害を開始した。1941年の疫病の蔓延や飢餓が人口を減少させた。また、多くのポーランド人がドイツ本国に外国人労働者として送られ、農場や工場で強制労働を強いられた。最終的に約百万人が送られ、多くがドイツで死亡した。

1940年当時、総督府には複数の民族集団が居住していた。所属する民族集団の種類に応じて権利、食糧配給、公共交通機関や食堂の利用について待遇の差があった。優遇された順に並べると、次のようになる:

  • ドイツ本国からやってきたドイツ国籍の住民(Reichsdeutche)。
  • ポーランド生まれであるが、ドイツ人として民族意識のドイツ系住民(ナチス・ドイツの民族リストの範疇1あるいは2:Volksdeutsche)。
  • ポーランド人と結婚して、家族のあるドイツ系住民(民族リストの範疇3あるいは4)。
  • 隣国ウクライナとの国境地帯に居住するウクライナ人。
  • 山地に居住する高地人(ゴーラル民族)。
  • ポーランド人。
  • ユダヤ人。

[編集] 虐殺政策

1942年1月20日のヴァンゼー会議で、ポーランド総督府の次官であるビューラー博士は、総督府領での「最終的解決」の実行にラインハルト・ハイドリヒを推薦した。彼によると、総督府領における最大の問題は官憲の仕事を妨害するブラックマーケットの著しい発達であった。彼は国内の「ユダヤ人問題」を可能な限り速やかに解決したいと考えていた。良い点は輸送の問題がないという点であった。

1942年、ドイツはユダヤ人の組織的な虐殺を開始した。総督府は6つの強制収容所のうち4つを持っており、そこでは、望ましくない「人種」をガス室で虐殺するホロコーストが実行されていた。ポーランドや他の国からのユダヤ人100万人近くが1942年から1944年までの間に処刑された。ポーランド総督府領にいた1939年時点の人口が、1944年の終わりにソビエト軍がその地域を占領した際には、約4百万人減少していた。

他のスラブ人の様に少数の(非ユダヤ人の)ポーランド人は農奴の階級に引き落とすと言うのはドイツの政策であった。その一方で、残りは国外に追放されるか、除去されて「支配人種」であるドイツ人の移住者に置き換えられた。 もともとの人々を将来どうするかと言うことに関しては様々な計画が出された。その1つは、約2千万人のポーランド人を西シベリアへ国外退去にし、4~5百万人をドイツ人化する。

実際には国外退去は、人々をどこかに強制的に移動させるという意味ではなく、同様の他の計画の様に対象の人間全てに死を与えるというものであった[2]。 ポーランド総督府領では、全ての中等教育は廃止され、全てのポーランドの文化的施設は閉鎖された。1943年、ポーランドの人々は野蛮な民族浄化の真っ只中に置かれた。しかし、1944年まで一部のドイツ人しかその地域に移住しなかった。これに関しては Generalplan Ost を参照せよ。

[編集] レジスタンス

ドイツの支配への抵抗は、一度といわず発生した。しかし、ポーランドはゲリラ戦に向いた地形ではなかった。主抵抗戦力は、ロンドンにある亡命ポーランド政府の指示に従う国内軍 (ポーランド語で、Armia Krajowa もしくは AK)であった。 これは、戦前からのポーランド軍の残りとたくさんの義勇兵により編成されていた。他の戦力、例えばソビエト連邦が背後に存在し、ポーランド共産党により指示される共産主義者の人民軍(Armia Ludowa or AL)の様なものも同時に存在した。1944年まで、国内軍は38万人となったが、武装は貧弱であった。占領下では、様々なポーランド人の抵抗組織が15万の枢軸軍を殺害した。人民軍は国内軍の15%の規模であった。

1943年、ドイツは4月19日から5月16日ワルシャワ・ゲットー蜂起に恐れをなし、ワルシャワ・ゲットーから残りのユダヤ人を追放した。これは、ポーランドにおけるドイツへの最初の武装蜂起であった。これに勇気を得たポーランド人は1944年に立ち上がり、ワルシャワ蜂起を起こした。

1944年7月にソビエト軍がワルシャワに近づくと、ワルシャワを自ら解放し、共産主義者に吸収されることを避けるために、亡命政府は蜂起を呼びかけた。タデウシュ・ブル=コモロフスキに率いられた国内軍は、ロンドン亡命政府と、ソビエトと連合国が支援するという約束の下に、8月1日にドイツ軍に対して攻撃を開始するが、ソ連側が支援せずに見殺しにした。

戦闘を63日行った後、蜂起軍指揮官は、ドイツ軍に条件付降伏を行った。国内軍の残り1万5千人は、戦時捕虜の扱いを受けた。(この同意前に捕虜になった反乱軍は射殺された。)そして、残り18万の市民は放免された。

[編集] 終結

1944年の終わりにソビエト軍がポーランド全土をほぼ制圧し、ポーランド総督府は崩壊した。フランクは1945年5月にアメリカ軍に捕虜となった。ニュルンベルク裁判で被告の1人となった。裁判中、フランクはカトリック教会に改宗した。フランクは40冊にものぼる自分の日記を法廷に提出し、自分や他の者への証拠が彼により集められた。フランクは、戦争犯罪と人道に対する罪で有罪となり、1946年10月1日、絞首刑による死刑判決をうけた。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年12月2日 (水) 04:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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