マサチューセッツ湾植民地
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| 公用語 | 英語 | ||
| 首都 | ボストン市 チャールズタウン | ||
| 統治者 | 総督 | ||
| 設立 解消 |
1629年 1692年 |
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| 通貨 | ポンド | ||
マサチューセッツ湾植民地(-わんしょくみんち、英: Massachusetts Bay Colony、植民地を作った主体である「マサチューセッツ湾会社」英: Massachusetts Bay Companyと呼ばれることもある)は、17世紀の北アメリカ東海岸にイギリスが創った植民地である。ニューイングランドに属し、今日のセイラムとボストンを中心にしていた。その地域は現在アメリカ合衆国50州の一つマサチューセッツ州となっている。
目次 |
[編集] 初期の開拓
マサチューセッツ湾植民地は、イングランド王や会社から様々な植民者集団が得た土地特許で、しかも一部は重複したものがありながら開拓され、後に13植民地に領土が整理されたこともあって、初期に存在した植民者集団の幾つかはマサチューセッツ湾植民地の歴史に直接引き込まれていくようになった。
イギリスのプリマスにあったバージニア会社は1607年のバージニア勅許の一部として北緯38度線から45度線までの土地を認められていた。現在のメイン州ケネベック川河口に創られた唯一の開拓地ポファム植民地は1608年に放棄された。北緯41度線(ロングアイランド・サウンドの南)から南の土地は、姉妹会社であるロンドンのバージニア会社に与えられており、以前から共同でこの領土の領有権を主張していた。
1607年、「プリマス会社」の領土がニューイングランドのプリマス委員会の指導で再構成された。イングランド王ジェームズ1世は北緯40度線から48度線までの「全本土を海から海まで」勅許を認めた。これには、南は現在のニュージャージー州中央部から北はニューブランズウィック州やノバスコシア州までが含まれていた。
その後の1620年、イングランド国教会からの分離を望んだ開拓者の一団、現在ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる者たちがメイフラワー号でイングランドから渡ってきて、プリマス委員会に所有される土地に独自にプリマス植民地を創った。ピルグリムは元々バージニアに行くつもりであったが、激しい嵐のためにプリマスで旅を諦めた。最初に定着した場所が現在のプリマス市となっている。
メイフラワー盟約を作ったこととプリマス植民地を創ったことは、アメリカ合衆国の歴史で独創的な出来事と教えられている。しかし、ニューイングランド地域で人口でも経済力でも支配的になったのは、マサチューセッツ湾植民地であり、セイラムとボストン周辺の後継者であった。また、1691年から1692年にプリマス植民地とその他の近隣植民地を合併して、マサチューセッツ植民地が出来たとき、その名前の元になったのもマサチューセッツ湾植民地であった。
[編集] 先行した会社
1623年のシェフィールド特許でケープ・アンがロバート・クッシュマン、エドワード・ウィンスローとその仲間に割り当てられた。1623年から1624年にかけての冬、ジョン・ホワイトと「ドーチェスター会社」がこの土地のステージポイント(現在のマサチューセッツ州グロースター)に入った。1625年、彼らはロジャーコナンを招いて漁業植民地を運営させた[1]。これにはプリマス植民地からも何人かが加わった[2]。1626年までに、この試みは失敗した。ほとんどの植民者がイギリスに戻ったが、コナンはノームキーグ[3](1629年にセイラムと改称された[4])に約20名の開拓者を連れて移り、交易拠点とした。
1627年頃にドーチェスター会社が破産したので、事業は「ニューイングランド会社」に要員も含めて引き継がれた[5]。この会社がプリマスの委員会から、メリマック川からチャールズ川までとその両側3マイル (5 km)のニューイングランドについて土地特許を受けた[6]。
ジョン・エンデコットがピューリタンの開拓者集団を連れてセイラムに入り、到着した1628年9月6日からその知事を務めた。
ピューリタンがその特許を1628年3月4日の王室勅許に変換できたときに、これらの地域の管轄が「マサチューセッツ湾会社」に置き換わり、「ニューイングランドにおけるマサチューセッツ湾の会社」と呼ばれた[7]。1628年3月18日、マシュー・クラドックがこの会社の初代知事になった。2代目知事はジョン・ウィンスロップであった。
[編集] ピューリタンの植民地
この新しい勅許の元に1629年4月、最初の400人の開拓者が出発したが、同行したメンバー全てがピューリタンという訳ではなかった。1629年の春から夏にかけての出来事で、多くの者が植民地に惹き付けられていることが分かった。
この植民地は1629年7月8日に最初の感謝祭を祝った。その後、大移住の時期となり、植民地は成長を続けた。多くの牧師達がイギリスの新しい宗教抑圧政策に反応してその会衆とともにアメリカに渡り、ジョン・コットン、ロジャー・ウィリアムズ、トマス・フッカーなどがマサチューセッツにおけるピューリタン宗派の指導者になった。
植民地の勅許は、マサチューセッツ議会に役人を選抜し植民地の法を定めることを認めていた。アメリカでの最初の会合は1630年10月に開催されたが、わずか8人の自由人が出席しただけだった。彼らは知事の補助を勤める「委員会」の全ての代議員、執行役および判事を選んだが、すべてその8人であった。続いて町の境界を定め、税を設定し、役人を選んだ。この限定された人々によって起こされた動揺を鎮めるために、8人に加えて118人の開拓者が自由人として議会に参加したが、権限は委員会に残された。1632年に全植民地に対して税が課されたときに、このやり方に対する不平の声が上がったが、ウィンスロップがそれを鎮めることができた。
1634年、また統治の問題が持ち上がった。トマス・ダドリーを指導者とする集団が自分達には隠されたままとなっていた勅許を見せてくれと要求した。そこには議会がすべての法を制定すべきこと、およびすべての自由人がメンバーとなるべきことが書かれていた。この集団は勅許に書かれている通りにすることを要求したが、結果的にはウィンスロップ知事と妥協することになった。議会は町ごとに二人の代議員を選び、それに知事の諮問委員会と知事自身で構成されることとした。この議会には、「公共の蓄え(税)を徴収すること」と「議会で同意されたことは全ての者を拘束」ことについて権限を与えられた。ウィンスロップが予想していなかったことは、「拘束」の対象が知事の選挙にまで及ぶことであり、次の選挙でダドリーが選ばれた。
最初の改革は完璧であった。貿易会社が典型的な民主政治になった。1641年までに、ジョン・コットンの草案(「ニューイングランドの法の概要、今設立されたものとして」[8])を基にナサニエル・ウォードによって書かれた最初の法典「マサチューセッツ・ボディ・オブ・リバティ」[9]が整備された。これは、聖書に記載されているユダヤ教とキリスト教に共通の社会的制裁に訴えることで、人々の行動と罰を規定するものであった。彼らは自分達の主唱する神政政治と形を取りつつあった民主政治の間の緊張関係を見ていなかったことは注目に値する。その反対に一方の政治が他方を要求するとすら見ていた。例えば、「全ての判事は選ばれるべきこと。第1に自由人によって。第2に自由人の中から。」とされていた。実際に植民地で最初に処刑された者は、魔女であると告発された女医のマーガレット・ジョーンズであった[10]。ジョン・ウィンスロップは、ピューリタンの植民地は「丘の上の町」()であるべき、すなわちその信仰するところが他の植民地から追従されるようになるべきと考えた。
[編集] 開拓の年譜
- ウェイマス(ウェサガセット) - 1622年、プリマス植民地の一部として。1630年、マサチューセッツ湾植民地の一部として
- グロースター - 1623年(ドーチェスター会社)
- チェルシー - 1624年
- セイラム - 1626年(ドーチェスター会社)
- チャールズタウン - 1628年(最初の首都、現在はボストン市の一部)
- リン - 1629年
- マンチェスター・バイザシー(ジェフリーズ・クリーク) - 1629年
- ボストン - 1630年(ショーマットおよびトリマウンテンから)
- メドフォード - 1630年
- ミスティック - 1630年[11]
- イブレット - 1630年
- ウォータータウン - 1630年(現在のケンブリッジの一部)
- ケンブリッジ - 1630年(ハーバード・スクェア近く)
- ロクスベリ - 1630年(現在はボストン市の一部)
- ドーチェスター - 1630年(現在はボストン市の一部)
- イプスウィッチ - 1633年
- ヒンガム - 1633年
- コンコード - 1635年
- ニューベリー - 1635年
- アーリントン(メノトミー、ニュータウンの一部 - 1635年)
- サンドイッチ - 1635年
- サリスベリー - 1635年
- サドベリー - 1635年
- マールボロ - 1635年
- メンドン - 1635年
[編集] その後の歴史
ニューハンプシャー植民地は1641年から1679年までと1688年から1691年までの2度、マサチューセッツ湾植民地の一部だった。
1643年、マサチューセッツ湾植民地は、プリマス植民地、コネチカット植民地およびニューヘイブン植民地と合併しニューイングランド連邦を形成したが、1650年代まで休眠状態だった。連邦は、フィリップ王戦争の起こった1670年代に一時的に復活した。
1686年から、マサチューセッツ湾植民地は、イングランド王ジェームズ2世によって他のニューイングランド植民地と統合され、ニューイングランド自治領の管轄下に入った。1688年、ニューヨーク、ウエスト・ジャージー、およびイースト・ジャージーの各植民地が追加された。1689年、名誉革命によって国王がその座から遂われ、自治領は解消された
1691年から1692年、マサチューセッツ湾植民地は、プリマス植民地、マーサズ・ヴィニヤード、ナンタケット、メイン植民地および現在のノバスコシアを併せて、マサチューセッツ湾直轄植民地となった。
[編集] 脚注
- ^ Salem Witch Museum
- ^ 1911 Encyclopedia
- ^ Infoplease.com
- ^ 1911 Encyclopedia
- ^ IMMIGRATION TO NEW ENGLAND 1620-1640, By Forrest D. King
- ^ 1911 Encyclopedia
- ^ The Charter of the Massachusetts Bay Company
- ^ http://www.mass.gov/lib/guides/body.htm Mass.gov]
- ^ Hanover Historical Texts Project
- ^ Howard W. Haggard, Devils, Drugs, and Doctors: The Story of the Science of Healing from Medecine-Man to Doctor (1929; New York: Pocket Books, 1959, p.73) ISBN 0-7661-3582-9
- ^ http://www.answers.com/topic/1630
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- [1] The history and first seal of the MA Bay Colony depicting a dejected American Indian saying "Come over and help us," with his arrows turned downwards.
最終更新 2009年9月9日 (水) 13:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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