マツダ・787

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マツダ・787/787B
マツダ・787B
(モータースポーツジャパン2007フェスティバル イン お台場)
乗車定員 1名
ボディタイプ 2ドアクーペ
エンジン R26B型直列4ローター 2616cc(654×4)(700ps/9000rpm)
変速機 5速MT
駆動方式 MR
全長 4782mm
全幅 1994mm
全高 1003mm
ホイールベース 2662mm
車両重量 830kg
最高速度 372km/h
先代 マツダ・767B
後継 マツダ・RX-792P
-このスペック表は試行運用中です-

マツダ・787IMSA-GTP規定、マツダ・787BグループC・カテゴリー2規定に則り、ル・マン24時間レースのために作られたマツダプロトタイプレーシングカー

目次

[編集] 概要

イギリス人のナイジェル・ストラウド(Nigel Stroud )により設計されたマツダ・757を起源にし、マツダ・767を経てマツダ・787へと発展した。順番から考えるとマツダ・777であるが日本語として言い難いと言うことから787となっている。750馬力以上を発生する4ローターのR26Bロータリーエンジンを、剛結ではなくサブフレームを介して搭載している。1991年ル・マン24時間レースで日本メーカー初(かつ2008年現在は唯一)、及びロータリーエンジン車初(レシプロエンジン以外で初の快挙)の総合優勝という快挙を挙げた。また、あまり知られていない事実だが、カーボンブレーキ装着車として初めてル・マンを制した車種でもある。 ブレーキシステムサプライヤーのブレンボからは、「仕様書通りの開口面積を確保したブレーキ冷却ダクトを装備したのはマツダだけだった」と評価される。

[編集] シャーシ

マツダ787
シャーシは、767のアルミモノコックカーボンモノコックに変更した形状となっている。ラジエターが767のサイドラジエターからフロント+サイドの配置となり、フロントで冷却水、右サイドをエンジンエアインレットとマフラー冷却、左サイドをオイルラジエターに使用して、マツダ767Bより冷却能力を向上させると同時にフロント荷重を増大させている。サスペンションは、マツダ767Bの発展型のフロントにスプリングダンパーユニットをフローティングタイプとしたインボードタイプのダブルウイッシュボーン、リアにベルクランク式ダブルウイッシュボーンを採用した。また、走行中のマシンのエンジン稼動状況/サスペンション状況/車両挙動等をリアルタイムに情報収集するマツダ独自のマネージメントシステムを採用して、燃費マネージメントやトラブルの未然防止を行った。ボディは、ストレート重視のため車幅を狭くしてドラッグを減少させるデザインを採用した。二台が製造されている(うち一台は現在787Bのレプリカに改修)。
マツダ787B
1991年用のマツダ787の改造版。ストレート重視からコーナリング重視にマシンコンセプトを方向転換し、トレッドの拡張(メカニカルグリップ向上)/リアカウル形状変更/カーボンディスクブレーキの採用/タイヤ径の18インチ化/リアシャーシにエンジンストラットロアを追加/サスペンションアームの形状変更/駆動系の補強/冷却性能の強化/ハーネス配置の最適化/光学式車高センサの搭載等の約200項目に関する改善を実施した。その結果ベンチレーション/居住性/ハンドリング特性が向上してドライバー負荷の軽減が可能となった。三台が生産された。

[編集] エンジン

形式名はR26B。1990年からマツダは、REの形式呼称を変更。Rはレース用/26は4ロータの総排気量の2600cc(654x4)/Bは基本となった13Bから命名。レース専用エンジン。

  • 1990年
    マツダ767Bの13J改改の630psから800psを目標に開発。目標の800psを出すためには回転数を10000rpmにする必要があったが、10000rpm/24時間に耐えられるミッションがないので最高回転数を9000rpmにし700psを達成した。主な採用技術は、連続可変吸気機構/1ロータ3プラグ/ペリフェラルポートインジェクション/セラミック・アペックスシール/ハウジング摺動面全てをサーメットコーディング等。この結果、767Bの13J改改より有効トルクレンジを太くかつ大幅に拡大し、燃焼効率の改善によるトルクアップ(出力向上)と燃費改善と実用域のレスポンス向上を達成し、他のグループCマシンと同等のポテンシャルを得ることが可能となった。このうちペリフェラルポートインジェクションは、のちにRX-8に搭載されたRENESISへ流用されている。
  • 1991年
    1990年のR26Bをベースに、マキシマムパワーよりレスポンス重視とし、中・低回転域のトルクの向上、燃費向上、信頼性アップを図った。主要な改善内容は、エンジン制御コンピュータのきめ細かな調整と可変吸気機構の改善。マツダがルマンで優勝した55号車をレース終了後そのままの状態で日本に持ち帰って分解したところ、まだ500km程度の耐久レースならこなせるほどの内部状態だった。

[編集] 戦歴

[編集] 1990年

世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)に関しては、マツダはル・マン24時間のみの参戦。 当初は全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)にて実戦テストを行う予定だったが、マシンの完成が遅れた事に加え、5月のJSPC・インターチャレンジ富士1000kmが濃霧のため中止となり、実戦を経験することなくル・マン24時間レースに参戦。ジャッキー・イクスとコンサルタント契約を実施。レースには、常時2台の787が参戦。バックアップカーとして767Bをル・マンと富士1000kmに使用した。

1990年のル・マンでは787を2台、767Bを1台投入したが、この年からサルト・サーキットのユノディエールにシケインが設置されたことに対応したマシン開発をしていなかったため、ストレート重視のマシン設計により予選・決勝ともに結果が振るわず、787は2台ともリタイアして完走することができず、前年型の767Bが20位に終わるという残念な結果に終わった。

  • 6月 ル・マン24時間 リタイヤ(2台とも)
    • 201号車 エンジントラブル(トロコイド面のセラミック溶射層の剥離)
    • 202号車 ワイヤーハーネスの溶断
  • 7月 JSPC・富士500マイル 10位/失格
  • 8月 JSPC・鈴鹿1000km  10位/リタイヤ
  • 9月 JSPC・SUGO500km 11位/リタイヤ
  • 10月 JSPC・富士1000km 7位/リタイヤ

[編集] 1991年

WSPCがスポーツカー世界選手権(SWC)へ名称が変更。同時にレギュレーション変更が実施され、ル・マン24時間参戦にはSWCへの全戦参加が義務付けられた。マツダは、フランスのオレカレーシングに787を1台供与しSWCへ参戦させて、ル・マン24時間レースへの参戦権を確保。(日本で開催されたSWCの鈴鹿オートポリスは、マツダから2台が参戦)トヨタ/日産はSWCへの参戦を実施しなかったので、ル・マンへの参戦が不可能になった。また湾岸戦争勃発のため、当初参加を予定していたデイトナ24時間レースへの参戦が見送られた。

前年の経験からストレート重視からコーナリングスピード重視のマシンにするためにトレッドの拡張(メカニカルグリップ向上)などの変更を加えた改良型787Bが2台(55号車、18号車)、前年型の787が1台(56号車)参加。55号車はレナウン・チャージカラー、18号車と56号車はマツダワークスカラーだった。結果、55号車が優勝、18号車が6位、56号車が8位に入った。

  • 3月 JSPC・富士500km マツダ787 12位/リタイヤ
  • 4月 SWC・鈴鹿 マツダ787B:6位/マツダ787:リタイヤ
  • 5月 SWC・モンツァ マツダ787:7位
  • 5月 SWC・シルバーストン500km マツダ787:11位
  • 6月 SWC・ル・マン24時間 マツダ787B:1位、6位/マツダ787:8位
    55号車は、フォルカー・バイドラージョニー・ハーバートベルトラン・ガショーにより運転され、362周・走行距離にして4923.2kmを走った。順調なドライブで2位にまで順位を上げ、しばらくこの状態が続いた。しかしレース終了約3時間前の12時54分に長らくトップを走っていたメルセデスベンツ・C11がトラブル(ラジエーターからの漏れによるオーバーヒート、燃料切れ―当時で2,550Lの総使用燃料規制があった—の説もある[1])で緊急ピットイン。後にリタイア。1時4分、787Bはトップに上がり、ジャガー・XJR-12の追撃を振り切りレース終了まで首位を守り抜いた(レース中に消費するロータリーエンジンの潤滑用のオイルは燃料の一部ではないかと他チームにクレームを付けられるハプニングもあったが退けられる)。最後のドライバーはベルトラン・ガショーの予定だったが、コース状況を良く知っているジョニー・ハーバートが引き続き運転した。長い時間運転したため、マツダピットに戻ってきたとき、ハーバートは脱水症状で倒れ、表彰台にあがれなかった。
    この逆転劇はマツダの作戦が一因との見方もある。2位に上がった時点でチームスタッフは順位キープを狙おうとしたが、監督の大橋孝至は逆に1周あたり1秒のペースアップを指示。追い上げられていると見たメルセデス陣営はさらなるペースアップを指示したが、それが裏目に出てエンジントラブルを引き起こした、というものである。このエピソードはNHK「プロジェクトX」にて大橋本人が明かしている。
    レース雑誌「レーシングオン」の取材で大橋は、ペースアップはアドバイザーのジャッキー・イクスの提案でイクスがかつてドイツのチームでドライブしていた経験から「ペースを上げよう。ドイツ人は下位とのマージンを必要以上に確保したがる。こちらが2秒ラップタイムを上げれば、メルセデスは3秒から4秒ペースを上げるはずだ。」といったと語っている。
    優勝に貢献したジャッキー・イクスに対し、マツダはル・マン優勝後、ボーナスの提供を申し出たが、イクスは「私はマツダを優勝させるために契約したのだから、優勝したからといってボーナスを貰う理由は無い。」と固辞したエピソードがある。
    優勝車の55号車は、マツダ本社での永久保存されることとなった。
  • 7月 JSPC・富士500マイル マツダ787B:4位、8位
    チャージカラーの55号車は、ル・マン24時間レース総合優勝記念のため永久保存となったため、緑とオレンジの色分け部を逆転したカラーリングの202号車が3台目の787Bとして用意され、以降のレースに使用した。
  • 8月 JSPC・鈴鹿1000km マツダ787B:6位
  • 9月 JSPC・SUGO500km マツダ787B:9位、リタイヤ
  • 9月 SWC・マニ・クール マツダ787:7位
  • 10月 JSPC・富士1000km マツダ787B:3位、4位
    今までの787Bは、ル・マン24時間に的を絞ったマシンであったが、このレースから短距離仕様(1000kmレース仕様)が登場。202号車に対しヘッドライトの撤去やリアタイヤにカバーを行うと同時にラジエター容量を少なくして軽量化を実施した。
  • 10月 SWC・メキシコシティ マツダ787:9位
  • 10月 SWC・オートポリス マツダ787B:9位、10位
  • 11月 JSPC・SUGO500マイル マツダ787B:6位、リタイヤ

1991年限りで、グループCレギュレーション変更のためロータリーエンジンが参加できなくなったので、ロータリーエンジンが参加できる最後の年に初の総合優勝を果たした(1993年から再びロータリーエンジンは参加可能になった)。ロータリーエンジン搭載車はマツダしかなかったことと、1990年までに目立った成績を残していなかったことが幸いし、他メーカーのグループCカー(カテゴリー2)の最低重量が前年の100kg増しの1000kg(ただしポルシェ・962Cは950kg)になっていたのに対して、ロータリーエンジン搭載車は前年より30kg増しの830kgに抑えられたのが有利に働いたと言える。なおマツダの車重は前年モデルでも車検時には規則上の最低車重800kgより30kg多い830kgであり、レギュレーション変更に伴う重量増は実質的には0であった(そもそも30kg増というレギュレーション変更自体が、このことを踏まえた大橋による巧妙な提案によるものと言われている)。

  1. ^ CAR GRAPHIC 2002年11月号

[編集] その後

マツダミュージアムに展示されている787B

ル・マン優勝車である55号車、並びに202号車はマツダが動態保存している。近年は部品確保や維持コストの問題等もあり、実際に走行する機会は減少しており、今後は走行させる予定も無いといわれる。

ル・マン優勝車は広島県のマツダ本社内にあるマツダミュージアムに展示されている(イベントなど何らかの理由で貸し出されている間は、レプリカもしくは767Bが展示されている)。2000年11月に放送されたNHKのドキュメンタリー番組プロジェクトXや、テレビ朝日系のカーグラフィックTVで実際に走行するシーンを見ることができたのみならず、カーグラフィックTVでは番組出演者田辺憲一と塚原久、自動車ジャーナリストのポール・フレールが試乗していた。その他にも、各地で行われたモータースポーツのイベントにも姿を見せ、走行する勇姿を披露しているが、エンジンの磨耗を防ぐ為にレブリミットは7000回転シフトとされている(本来は8500回転)。またカーグラフィックTVでスチールブレーキディスクに変更されていると紹介されているが実際はカーボンブレーキのままである。ギヤ比はル・マンの時の仕様から変更は施されておらず、旧MINEサーキット黒澤琢弥が走行した際(ベストモータリング2003年11月号※特典映像)もギヤ比がまったく合わない状態での走行であった。

202号車は参戦終了後、マツダR&Dセンター横浜内で静態保存され、さらに一時期は55号車のための部品取りとなっていたが、近年走行可能な状態に復元された。普段はマツダR&Dセンター横浜で展示されている。

マツダは5台のレプリカを製作し1台をル・マンの博物館に寄贈し、その他4台を所有している。

なお、乗車定員は1名となっているが、グループCカー(市販を考慮した試作車)というカテゴリーであるため、レギュレーション上は助手席があり、助手席側に簡易シート(状のパット)を貼り付けて何とか乗車することも可能ではあり、事実ポール・フレールは孫と2人でテストコースを走行している(787Bではなく787)。

[編集] フィクションとしてのマツダロータリー

カーレース小説の「お気に入りがルマンに優勝する時」(1991年刊)でSF作家の高齋正の小説内で読者の選択次第でマツダの4ローターの新型車「マツダ777C」がルマンで日本車初の優勝をする描写がある(メインスポンサーはレナウンではなくニコン)。 まさしく同年のマツダのルマン優勝を予言した小説で、同作家の代表作「ホンダがレースに復帰する時」「ランサーがモンテを目指す時」とともに未来予測小説として当時のカーレースファンから賞賛されている。

最終更新 2009年11月14日 (土) 02:06 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【マツダ・787】変更履歴

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