マリアナ沖海戦

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マリアナ沖海戦

米軍の攻撃を受ける空母瑞鶴と駆逐艦2隻
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1944年6月19日~20日
場所マリアナ諸島周辺海域
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指揮官
小沢治三郎
栗田健男
角田覚治
レイモンド・スプルーアンス
マーク・ミッチャー
戦力
航空母艦9
戦艦5
重巡洋艦11
軽巡洋艦2
駆逐艦20
航空母艦15
戦艦7
重巡洋艦8
軽巡洋艦12
駆逐艦67
損害
航空母艦3沈没
油槽船2沈没
航空母艦1中破
航空母艦3小破
戦艦1小破
重巡洋艦1小破
艦載機378機
航空母艦2小破
戦艦2小破
重巡洋艦2小破
艦載機123機

マリアナ沖海戦(マリアナおきかいせん)は、第二次世界大戦中の1944年6月19日から6月20日にかけてマリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行われたアメリカ海軍空母機動部隊日本海軍空母機動部隊の海戦。

アメリカ軍側の呼称はフィリピン海海戦(Battle of the Philippine Sea)である。日本側の作戦名称はあ号作戦はあめりかの“あ”よりきている。

目次

[編集] 概要

アメリカ軍がマリアナ諸島に進攻、それを日本軍が迎撃したことにより本海戦は発生した。日本海軍がアメリカ軍との決戦を意図したものであり、両軍の空母同士の航空決戦となった。この海戦で、日本機動部隊の航空隊は強力な米機動部隊の前に“マリアナの七面鳥撃ち”と揶揄される一方的且つ壊滅的な大敗を喫し、海上航空戦力としての能力を失った。海戦後、マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなった。

[編集] 海戦前

1943年後半からアメリカ軍は中部太平洋での攻勢を本格化させ、11月にはギルバート諸島タラワ環礁マキン環礁を占領、1944年2月にはトラックを空襲すると共にマーシャル諸島へ侵攻し占領した。さらに3月にはパラオを空襲し在泊艦艇および基地施設に多大な損害を与えた。そして4月にはニューギニア島のホーランジア、アイタペに上陸した。

この状況を受けて連合艦隊司令部では、5月から6月にマリアナ西カロリン方面への侵攻が行われると判断した。しかし、タンカー不足によりマリアナ方面での決戦は無理があり、パラオ近海において決戦を行うこととした。そのためにグアムサイパンテニアンの兵力を強化して敵をパラオ方面へ誘い込み、機動部隊と基地航空隊によって撃破するという作戦を立てた。この作戦を「あ号作戦」という。

しかしながら、3月31日に起こった海軍乙事件により、「あ号作戦」の元になる「新Z号作戦」計画書を米軍が入手し、その暗号を解読していた。米軍は把握した日本海軍の兵力、航空機や艦船の数、補給能力等の重要情報をもとに約1ヶ月で作戦を立案した。生存する当事者が公にしなかったため、日本海軍は「新Z号作戦」計画書が米軍に渡った事を知らなかった。海軍は作戦名を「あ号作戦」と改めるなど多少の作戦変更を行ったが、最も重要な情報がアメリカに漏れた以上、もはや何の効果もなさなかった。

5月16日、リンガ泊地にあった小沢治三郎中将麾下の第一機動艦隊はタウィタウィ泊地へ進出した。タウィタウィではアメリカ潜水艦の跳梁により、駆逐艦4隻(6月6日水無月、6月7日早波、6月8日風雲、6月9日谷風)が撃沈された。このため十分な洋上訓練が行えず、航空機搭乗員の練度不足はあ号作戦に影響を及ぼした。

5月20日、豊田副武連合艦隊司令長官は「あ号作戦」開始を発令した。同日、小沢治三郎中将は旗艦大鳳で訓辞を行った。

  1. 今次の艦隊決戦に当たっては、我が方の損害を省みず、戦闘を続行する。
  2. 大局上必要と認めた時は、一部の部隊の犠牲としこれを死地に投じても、作戦を強行する。
  3. 旗艦の事故、その他通信連絡思わしからざるときは、各級司令官は宜しく独断専行すべきである[1]
  4. もし、今次の決戦でその目的を達成出来なければ、たとえ水上艦艇が残ったにしても、その存在の意義はない。

5月27日、連合軍はビアク島へ上陸を開始した。日本軍はビアク島救援の作戦、渾作戦を行った。しかし、6月11日、アメリカ軍がマリアナ方面に来襲し、渾作戦は中止された。

5月31日、敵中に孤立していたナウル基地を飛び立った海軍の偵察機彩雲が、メジュロ環礁に停泊するアメリカ軍の大艦隊を確認した。

6月5日、ふたたび彩雲がメジュロ環礁を偵察。アメリカ軍が出撃準備を急いでいることを確認した。大本営は、アメリカ軍はマリアナ諸島を襲わずパラオ諸島に来襲するものと判断した。

6月13日、サイパンにアメリカ軍が来襲。民間人を巻き込んでの壮絶な戦闘が開始される。豊田長官は「あ号作戦」決戦用意を発令した。第一機動艦隊はギマラス泊地に移動後15日に出撃しマリアナ方面へ向かった。渾作戦参加部隊も出撃し、16日に機動艦隊と合流した。

6月15日、アメリカ軍はサイパン島へ上陸を開始した。同日、豊田長官はあ号作戦決戦発動を発令した。だが、基地航空隊はこれまでの戦闘でほぼ壊滅状態になっていた。

[編集] 戦闘経過

[編集] 6月19日の戦闘

戦闘機雲を眺める第58任務部隊の兵士
空母バンカーヒルに急降下爆撃を行う日本の爆撃機(1944年6月19日)

19日、小沢機動部隊は早朝の3時30分から頻繁に索敵機を発進し周囲の捜索を開始した。

6時半頃、サイパン島西部にアメリカ機動部隊を発見し、7時25分に空母千歳千代田瑞鳳から前衛の部隊として64機(零戦14機、零戦爆戦43機、天山7機)と、7時45分に甲部隊(空母大鳳翔鶴瑞鶴)から128機(零戦48機、彗星53機、天山29機)の第一次、第二次攻撃隊を発進させた。甲部隊の攻撃隊は味方の前衛部隊による誤射で被害を受けた。双方の攻撃隊は2時間から3時間をかけて米第58任務部隊に到達。第一次攻撃隊は9時35分にアメリカ艦隊への攻撃を開始したが、レーダーで日本海軍攻撃隊の接近を既に探知しており、万全の防空体勢を敷いていたアメリカ海軍に次々と撃墜され、全体の2/3にあたる41機(零戦8機、零戦爆戦31機、天山2機)を失った。第一次攻撃隊の戦果は戦艦と重巡をそれぞれ1隻ずつ小破させたのみであった。10時45分にアメリカ艦隊への攻撃を開始した第二次攻撃隊も、戦艦サウス・ダコタ、空母バンカーヒル重巡洋艦ミネアポリスを小破させるに留まり、全体の3/4以上にあたる99機(零戦33機、彗星43機、天山23機)もの航空機を失うという大損害を被った。

8時10分、空母大鳳が米潜水艦アルバコアの雷撃を受け、発射された6本の魚雷のうち1本が命中。大鳳の損傷そのものは軽微であったため、当初は戦闘続行可能な状態であった。

9時15分、乙部隊(空母隼鷹飛鷹龍鳳)から第二波の第三次攻撃隊49機(零戦17機、零戦爆戦25機、天山7機)が発進するが、別働隊と誘導機が進路(目標)変更の受信を逃した上、本隊も米第58任務部隊を発見できずに引き返し、7機(零戦1機、零戦爆戦5機、天山1機)が未帰還となった。10時15分には第四次攻撃隊50機(零戦20機、九九式艦爆27機、天山3機)が発進した。第四次攻撃隊は攻撃後にグアム島ロタ島経由でヤップ島へ向かうように指示されたが、米艦隊を発見できずにグアム島付近で戦闘機の迎撃を受け26機(零戦14機、九九式艦爆9機、天山3機)が撃墜された。

大鳳の修理作業の後、10時28分に大鳳、翔鶴、瑞鶴から第五次攻撃隊18機(零戦4機、零戦爆戦10機、天山4機)が発進したものの、米第58任務部隊を発見できず、ほとんどが引き返し、一部は不時着、9機(零戦爆戦8機、天山1機)が未帰還となった。10時30分、乙部隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)から第六次攻撃隊15機(零戦6機、彗星9機)が発進し、本隊8機が13時40分頃に米艦隊を発見、空母を目標に攻撃した。しかし、全く戦果を上げられず、9機(零戦4機、彗星5機)が撃墜された[2]

11時20分には、日本機動部隊に接近した米潜水艦カヴァラが空母翔鶴に4本の魚雷を命中させた。翔鶴は致命的な損傷を受け、14時10分に沈没した。14時32分には大鳳が突如大爆発を起こし、16時28分に沈没した。この大爆発の原因は魚雷のダメージにより気化した航空燃料が艦内に漏れており、それに引火したためだとされている。

17時10分、虎の子の正規空母を2隻も失い、送り出した攻撃隊の大半が未帰還となったことから、小沢中将は立て直しのために北上を命じた。日本機動部隊はそれまでに6次にわたる攻撃隊を送ったが、その全てが部隊の大半を失う致命的な損害を喫した。一方、米艦隊の艦艇は被害らしい被害を受けずに攻撃隊の大半を撃墜し、空戦で29機の戦闘機損失に留まる。

[編集] 6月20日の戦闘

対空砲火によって撃墜された日本軍の機体

小沢艦隊は20日の夜明け前から活動を再開し、4時40分に索敵機を発進させるが、米機動部隊を発見することはできなかった。12時、小沢中将は旗艦を羽黒から瑞鶴に移した。米第58任務部隊は15時40分に日本機動部隊を発見し、16時過ぎになってその戦力を確認、マーク・ミッチャー中将は日本機動部隊までの距離が米艦載機の航続可能範囲の限界付近であることや、帰還が夜になってしまうことを覚悟の上で216機(F6F戦闘機85機、SB2C急降下爆撃機51機、SBD急降下爆撃機26機、TBF雷撃機54機)の攻撃隊を出撃させた。16時15分には日本軍側も米艦隊を発見し、17時25分に甲部隊、唯一の空母瑞鶴から7機の雷撃機を発進させ、前衛の栗田中将に夜戦のため東進を命じた。17時30分、米第58任務部隊から発進した攻撃隊が来襲し、零戦が迎撃に向かったが23機が撃墜され、空母飛鷹が沈没、他の空母瑞鶴、隼鷹千代田も損傷してしまった。米攻撃隊は20機が撃墜され、帰還した機のうちの80機が着艦に失敗した。小沢中将は残存空母を率いて夜戦のため東進を続けたが、19時40分頃、連合艦隊長官豊田副武大将から離脱が命じられ、21日、小沢中将は「あ号作戦」を中止し撤退した。

[編集] 結果・影響

機動部隊を率いる小沢治三郎中将は、日本海軍の艦載機の特徴である航続距離の長さを活かし、アメリカ軍艦載機の作戦圏外から攻撃部隊を送り出すアウトレンジ戦法を実行した。しかしレーダーに誘導された戦闘機による迎撃、またVTヒューズを使用した対空弾幕の増強により、日本の攻撃隊は大半が阻止され次々と撃墜された。アメリカ軍は日本の攻撃隊がろくに回避運動もせず、容易く撃ち落とされたことを「マリアナの七面鳥撃ち」と呼んだ。また、日本海軍の空母が相手との距離を縮めないように同じ海域に留まっていたため、次々と敵潜水艦の餌食となってしまった。

日本側はこの戦いで大鳳、翔鶴、飛鷹の空母3隻などを失った他、参加航空兵力の3/4以上となる378機もの航空機の損失により第一機動艦隊は事実上壊滅、日本海軍は二度と機動部隊中心の作戦を行う事ができなくなった。又、この後絶対国防圏の要ともいうべきサイパン島を失ったことで、戦局の挽回や有利な条件で講和を結ぶ可能性は完全に失われた。

[編集] 日本海軍航空隊の敗因

これまでの幾多の戦いで消耗を重ねてきた日本海軍機動部隊であったが、マリアナ沖海戦での大敗北は機動部隊としての戦闘能力を喪失するほどのものであった。ここまで一方的な結果となったのには様々な要因が絡んでいるが、ここでは一般に広く流布している通説について紹介する。

日本側搭乗員の技量低下

前述の通り、開戦当初からの様々な戦いによって、卓越した技量と戦闘経験を持った熟練搭乗員を損耗しただけでなく、い号作戦以降、幾度と無く繰り返された母艦搭乗員の陸上基地転用により、編隊を率いる指揮官クラスの搭乗員が激減していた。特に後者の損耗は致命的であり、またこれらの搭乗員は、 容易に補充も急速錬成も出来無いものであった。

日本海軍は、新規搭乗員の大量養成・母艦搭乗員の急速錬成にもかなりの努力を払い、本海戦に参加した全母艦搭乗員の平均飛行時間は、開戦時~南太平洋海戦までと比べ、あまり遜色ないレベルであったとされている[3]が、その大半が基礎訓練を終えたばかりの実戦の経験も無い新規搭乗員で占められており、更に編隊指揮官の任に堪えうる熟練搭乗員は少数に過ぎなかった。

故にアウトレンジ戦法に必要な技量に引き上げる為の各種訓練が必要であったが、タウイタウイ入泊後は殆どその機会が無かった。例えば一航戦の第601航空隊搭乗員は、リンガ泊地で約一ヶ月程の訓練を行ったが、タウイタウイ入泊後は僅かに二回しか訓練が出来無かった。 更にもっとも訓練が必要だった二航戦の第652航空隊、三航戦の第653航空隊は、内地で満足に訓練が出来無いままタウイタウイに直行した為、入泊後、僅かに回航中に一回、入泊後 05/18・05/31の二回しか訓練を行えなかった。その為、二航戦の奥宮航空参謀は、その著書[4]で「タウイタウイでは”如何に練度を上げるかではなく””如何にしてこれ以上、練度を下げないようにするか”」に腐心したと記している。

このため、もともと技量のある指揮官クラスの搭乗員は列機を率い戦う訓練を行う事が出来ず、また新規搭乗員は訓練不足で技量の維持ができないという結果となった。洋上航法を用いて長距離を編隊飛行で往復するアウトレンジ戦法は、当時の母艦搭乗員の技量を無視して強行された戦法であった。敵艦隊や敵機に遭遇せずとも未帰還(行方不明)となった機体が多かったのは、十分な訓練の機会と時間を与えてやれなかった事が原因であり、敗北の一因となった。[5]

小沢治三郎中将以下、第一機動艦隊司令部の能力不足

前述のように敗因として搭乗員の技量不足が挙げられるが、そうなった責任は艦隊司令部の指揮官にあった。 奥宮航空参謀は、著書[6]で「なお、マリアナ沖海戦での小澤司令長官の戦法(アウトレンジ戦法)は良かったが、飛行機隊の実力がこれに伴わなかったという説があるが、私はこれに賛成出来ない。第一線部隊の指揮官の最大の責務は戦闘に勝つか、払った犠牲にふさわしい戦果を挙げることであるからである」と述べている。 また攻撃隊の前に前路索敵(誘導)機を飛ばしたのは奥宮参謀の発案である。これは長距離飛行のため索敵機が発見した目標位置の誤差が拡大し、未錬成の搭乗員では目標を発見出来無いことを危惧した為で、これは第一機動艦隊司令部要員にもよく説明し対策を講じてはいたが、結果的に未帰還機は多かった。[7]

アウトレンジ戦法における認識の相違

小沢中将がアウトレンジ戦法による作戦を立てていたのに対し、乙部隊の首脳陣、特に奥宮正武参謀はそれを行うには母艦搭乗員の技量から見て自信がもてない、と感じていた。[8] 彼は大鳳艦上で行われた、小澤司令部との打ち合わせにおいて、アウトレンジ作戦についての反対意見を述べているが、敢えて議論はされなかったことについて「本件については既に作戦前から小澤司令部の参謀達とよく話してあったが、彼等は母艦航空戦を理解しておらず、ましては理解も出来無かった…と言うより聞く耳を持たなかった」「そんな経緯もあり、大鳳での打ち合わせという最終段階において、その様な議論をすることは利益よりも害が多いから」と述べている。[9] 奥宮航空参謀はソロモン方面での苛烈な基地航空戦での経験から現状を以上のように認識していたが、 小澤司令部もまたろ号作戦等、ソロモン方面での航空戦を経験しているため、(一航戦小沢司令部と、第二、三航戦司令部)の間には、母艦搭乗員の現状と空母航空戦の認識に相当の隔絶があったことが伺われる。

航空機の性能差

日本海軍の主力戦闘機零戦は、開戦当初こそ無敵の強さを誇ったものの、極限まで軽量化された機体であったため、搭乗員の生命を軽視し防弾装備は殆どされておらず、ひとたび攻撃される側にまわると脆さを露呈することとなった。また大出力エンジンの開発でも欧米に大きく遅れをとっていため、改良型が開発されても大きな性能の向上は望めなかった。次世代機である烈風の開発も遅れたため、この時期でも主力であり続けた零戦だったが、開戦当初のF4F ワイルドキャットに代わり米海軍の主力となっていた2000馬力級のF6F ヘルキャットに比べると機体性能は見劣りしていた。艦上攻撃機である天山は実戦配備が遅く、米軍のTBF アヴェンジャーと比べて速度や航続距離では多少勝っていたが、防弾面では他の海軍機の例に漏れず貧弱であった。このように搭乗員の質のみならず、航空機の性能面でも日本はアメリカに遅れをとっていたのである。なお敵艦載機より航続距離の長いことが前提のアウトレンジ戦法であるが、艦爆に関しては実戦における爆装状態での航続距離は、米軍の方が勝っていた。

VT信管(MARK53型信管)
アメリカ艦隊の防空システムの進化

この時期になると、アメリカ海軍機動部隊はレーダー航空管制を用いた防空システムを構築していた。このため日本海軍機の接近は予め察知され、アメリカ軍戦闘機は最も迎撃に適した場所に誘導された上で日本の攻撃隊を待ち受けることができた。また1943年の末頃から、対空砲弾が外れても目標物が近くにいれば自動的に砲弾が炸裂するVT信管を高角砲弾に導入した。この結果、従来の砲弾に比べて対空砲火の効果は数倍に跳ね上がった[10]

物量の差

そもそも航空戦力に決定的な差があった。日本側428機に対しアメリカ側901機と倍以上、しかも戦闘機だけで445機(数値については諸説あり)もの差があった。また、日本側はこの海戦に持てる航空機動部隊のすべてを投入したが、アメリカ側はなお多数の空母が残っており、また建造中であった。兵器生産能力の差は大きく、日本側は消耗が許されない状況にあった。いずれにせよ、すでに日本側が正面から決戦を挑める状況ではなかった。

[編集] 未帰還機について

NHKで放送された『証言記録 兵士たちの戦争「マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法」』でも言及されていたが、広い太平洋の真っ只中で何の目印もない状況で、出撃した航空部隊が母艦に戻ってくることは、敵を攻撃する以上に難しかったという。特に戦闘爆撃機として出撃した零戦は単座であったため、航法管制をする搭乗員がいないので、独力で戻ってくることはほぼ不可能に近かったといわれる。そのため、アメリカ側に打ち落とされただけでなく、位置がわからず燃料切れで母艦に帰還できなかった航空機も相当数あったようであるが、その実数は不明である。

[編集] 参加兵力

[編集] 日本軍

第一機動艦隊(正規空母3、改造空母6 搭載機零戦225機、彗星艦爆99機、九九艦爆27機、天山艦攻108機、九七式艦上攻撃機二式艦上偵察機、498機との説あり)

第一航空艦隊 第五基地航空部隊 角田覚治中将

  • 第二二航空戦隊
  • 第二三航空戦隊
  • 第二六航空戦隊
  • 第六一航空戦隊
ほとんどヤップ島、グアム島の航空部隊でサイパン島、テニアン島の航空部隊は空襲で壊滅
  • 守備隊30000人

[編集] アメリカ軍

[編集] 第5艦隊

[編集] 海兵隊

[編集] アメリカ陸軍

  • 第27歩兵師団(増援部隊) 司令官:ラルフ・C・スミス陸軍少将 → スタンフォード・ジャーマン陸軍少将 → ジョージ・W・グライナー陸軍少将

[編集] 損害

[編集] 日本側

沈没
  • 空母:大鳳、翔鶴、飛鷹
  • 油槽船:玄洋丸、清洋丸
損傷
  • 戦艦:榛名(小破)
  • 空母:隼鷹(中破[11])、龍鳳(小破)、千代田(小破)、瑞鶴[12]
  • 重巡:摩耶(小破)
  • 油槽艦:速吸(小破)
損失艦載機

378機、航空機搭乗員戦死388名

その他
  • あ号作戦期間中、36隻の潜水艦がこの周辺海域に指向され20隻が未帰還
  • サイパン島における戦闘の損害はサイパンの戦いを参照。

[編集] アメリカ側

損傷
  • 戦艦:サウス・ダコタ、インディアナ
  • 空母:バンカーヒル、ワスプ
  • 重巡:ミネアポリス、ウイチタ
損失艦載機

120機(そのうち、約80機は着艦失敗や不時着などで失われた)、戦死101名

[編集] 参考文献

ISBN 4-05-901078-2、下 ISBN 4-05-901079-0 (新装版)
  • 源田實『海軍航空隊始末記』(文春文庫、1996年) ISBN 4-16-731003-1
  • 江戸雄介『激闘マリアナ沖海戦 日米戦争・最後の大海空戦』(光人社NF文庫、2000年) ISBN 4-7698-2264-2
  • シーパワー編集部 編『海軍機動部隊』(軍事研究1992年7月号別冊) ISSN 0533-6716 雑誌 03242-7
  • 学研編集部 編『歴史群像 太平洋戦史シリーズ8 マリアナ沖海戦』(学習研究社、2001年) ISBN 4-05-401264-7
  • 川崎まなぶ『マリアナ沖海戦 母艦搭乗員 激闘の記録』(大日本絵画、2007年) ISBN 978-4-499-22950-0
  • 佐藤和正『レイテ沖の日米決戦 日本人的発想VS欧米人的発想』(光人社、1988年) ISBN 4-7698-0374-5
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 51人の艦長が語った勝者の条件』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0445-8
  • 写真 太平洋戦争 第四巻』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0416-4
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』(図書出版社、1977年)
  • 海防艦顕彰会『海防艦戦記』(海防艦顕彰会・原書房、1982年)
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』(図書出版社、1983年)
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』(図書出版社、1986年)
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』(図書出版社、1994年)
  • 『証言記録 兵士たちの戦争 第2回 マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法』(NHK番組、2007年8月14日放送)

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ ただし、この訓辞は、各艦隊の司令部要員クラスにだけに行われた可能性もある。理由としては、653/652/601航空隊の中で生き残った搭乗員たちは、戦後NHKのドキュメンタリー取材に際し、その様な訓辞は聞いてもいないし、知りもしないと「証言」していることから。その証言に、信憑性があるか否かは、確かめる術は、もはやない。大戦中、搭乗員の過大な戦果報告を丸呑みせざるを得なかった根本の理由もここにある。
  2. ^ 第六次攻撃隊の彗星隊と第四次攻撃隊の九九艦爆隊の共同攻撃を企図したという証言はあるが、連絡や指示された証拠はない。
  3. ^ 川崎まなぶ著『マリアナ沖海戦 母艦搭乗員 激闘の記録』(308~309頁 飛行時間の計算)
  4. ^ 『日本はいかに敗れたか 上』より
  5. ^ タウイタウイに閉じ込められた原因としては潜水艦の跋扈が上げられる。泊地を出た途端雷撃される事もあり、そのため、護衛の駆逐艦が損耗した。そもそもタウイタウイ島と、その周辺海域は、南シナ海で通商破壊を行なう米潜水艦航路の途中にあった。
  6. ^ 『太平洋戦争と十人の提督』(617頁より)
  7. ^ 『真実の太平洋戦争』(第二章 数多い誤認と誤解 2 夢に終わったアウトレンジ戦法より 157~158頁)
  8. ^ 『戦史叢書 12 マリアナ沖海戦』
  9. ^ 『真実の太平洋戦争』『太平洋戦争と十人の提督』より。
  10. ^ アメリカ軍は概ね3倍程度と評価している。なお、マリアナ沖海戦におけるアメリカ艦隊の対空砲火のスコアは、戦闘機の迎撃を突破して艦隊上空に到達できた日本機が少なかったこともあり、VT砲弾や40mmボフォースなど全てを合計しても19機(米側確認スコア。当然誤認を含むと思われる)に過ぎなかったことを付記しておく。
  11. ^ アイランドの煙突に命中するも、航行に支障無し。
  12. ^ 500ポンド爆弾を艦橋後部のマスト付近に命中したとしているが乗組員の回想では被弾無し、至近弾によるスプリンターを直撃弾と勘違いした可能性有り。

[編集] 外部リンク

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最終更新 2009年11月21日 (土) 23:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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