マルクス・アウレリウス・アントニヌス
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| マルクス・アウレリウス・アントニウス Marcus Aurelius Antoninus |
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マルクス・アウレリウス胸像(大英博物館所蔵)
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| 全名 | マルクス・アウレリウス・アントニヌス |
| 出生 | 121年4月26日 ローマ |
| 死去 | 180年3月17日(満58歳没) ウィンドボナ・軍営地 |
| 配偶者 | 小ファウスティナ |
| 子女 | コンモドゥス(第17代ローマ帝国皇帝) |
マルクス・アウレリウス・アントニヌス(古典ラテン語:Marcus Aurelius Antoninus、マールクス・アウレーリウス・アントーニーヌス、121年4月26日 - 180年3月17日)は、第16代ローマ帝国皇帝。五賢帝の最後の1人。ストア派哲学に精通し、晩年には自らの体験を『自省録』に遺したことから、後世「哲人皇帝」と称された。対外的にはパルティアやゲルマン人の侵入、国内ではキリスト教勢力の拡大や飢饉、叛乱の発生など、その治世は多難な時代の始まりであった。これらの難題に対して果敢に対処し、晩年も自ら陣頭指揮をとって叛乱を鎮圧するなど、内憂外患の苦境に陥るローマ帝国の安定化に奔走した。一方、後継者指名に禍根を残したことにより、五賢帝の時代は彼の治世をもって終わりを告げた。
目次 |
[編集] 治世・歴史的評価
[編集] 生い立ち
マルクス・アウレリウスは、121年4月26日、首都ローマで生まれた。当時の名はマルクス・アンニウス・ウェルスといい、彼の祖先ウェルス家はヒスパニアに出自を持ち、曽祖父の代に当時の皇帝ウェスパシアヌスに功績を認められ、貴族階級への仲間入りを果たした家柄であった。
マルクス・アウレリウス自身も、幼少期より当時の皇帝ハドリアヌスにその才能を認められ、皇帝として必要な内政経験等の政治キャリアと教養を積んでいった。その後ハドリアヌス帝が先帝アントニヌス・ピウスを養子に指名した際にマルクス自身もピウスの養子に指名され、将来の皇帝候補と目されるようになる。そしてアントニヌス・ピウスの娘小ファウスティナと結婚したくさんの子供をもうけるが、成人したのは1男5女であった。
アントニヌス・ピウスの下で執政官就任など皇帝になるための準備を積むが、それは文官キャリアに偏ったもので軍での経験はなかった。行動範囲はローマからナポリ付近までで、北イタリアにさえも行くことがなかった。そのため、皇帝就任後の対ゲルマン人等の蛮族対策に十分な効果を得られない要因となり、彼の治世下で影を落とすことになる。一方マルクス自身、元々強くない体ではあったが、日常の公務に加え哲学等の勉学を精力的に励み、後世哲人皇帝とよばれる素地を自ら育んでいった。
161年、アントニヌス・ピウスが死去。マルクスは後継皇帝に就任するが、その際にルキウス・ウェルスとともに前例のない共同皇帝となることを要請する。共同統治を経て、ルキウスが没した169年、単独皇帝となった。
[編集] 業績
マルクス・アウレリウスの治世は、内憂外患の多難な時代の幕開けであった。皇帝就任直後には、首都ローマの中央部を流れるティベリス川が決壊するという自然災害に見舞われ、食糧危機が発生していた。一方、隣国パルティアとの間にアルメニア問題が再燃、第六次パルティア戦争が勃発した。162年にはシリアに侵攻されるも、その後ローマ軍は反撃に転じ、164年にはパルティアの首都クテシフォンの奪取に成功した。しかし、この時ローマ軍内部に天然痘が蔓延したため、クテシフォンからの撤退を余儀なくされる。パルティア側はこの隙に乗じてクテシフォンの再奪取に成功し、さらにアルメニアを占領するが、その後はローマ軍の巻き返しもあり、166年、パルティアがローマ帝国に北メソポタミアを割譲することで、一応の終結をみた。
その後、パルティアとの抗争によりもたらされた天然痘は、帰国したローマ軍を介してローマ帝国全体に蔓延することとなり、ローマ帝国の人口と兵力の減少をもたらした。ローマのこうした弱体化を目の当たりにしたゲルマン人諸部族は、その後ダキアへの侵入やマルコマンニ戦争などの小競り合いを繰り返し、マルクスは蛮族への対処に多くの歳月を費やすこととなった。マルクス・アウレリウスの時代にゲルマン人との抗争が続発したのは、このようなローマ帝国の弱体化が直接の原因であったが、ゲルマン人口の自然増加に伴い、彼らの居住領域の膨張圧力が強まっていたことも、その根底にあった。
加えて先帝アントニヌス・ピウスの時代、ゲルマニア国境付近に居住するゲルマン人諸部族よりたびたびローマ帝国の庇護を求められ、彼らの居住地域をローマ帝国へ編入するよう申し出がなされているが、ピウスはこれを拒絶しており、ゲルマン人の間でローマ帝国に対する不満が高まっていた。その意味で、マルクス・アウレリウスの直面したゲルマン人との抗争は先帝アントニヌス・ピウスの消極的な対外政策も多分に起因しており、そのツケを払わされた代償としての側面も大きい。
一方、マルクス・アウレリウスは後継者人事に関して、後世に少なからざる禍根を残すこととなった。実子コンモドゥスの次期皇帝候補指名である。それまでの五賢帝時代には、優れた者を後継者として養子にし、帝位を継承させる慣習[1]があり、それがローマ帝国の長きにわたる平和の維持や国内外の安定を支えていた。しかし、マルクス・アウレリウスはネルウァ以来続いていた後継者人事の慣習を破り、政治経験も潜在能力も未知数であるにもかかわらず実子コンモドゥスを次期皇帝候補に指名した。この結果、コンモドゥスを支える人材の不足や陰謀等による人間不信の蔓延等、時代の不運も重なり、コンモドゥスは失政を重ねた後にほどなくして暗殺され、以降のローマ帝国では、皇帝が短期間のうちに次々と暗殺されたり交代を余儀なくされるようになった。また、皇帝自らが長期的ビジョンをもって政治にあたることもなくなる一方、ローマ帝国の安定と秩序維持の要であった軍全体の統制を掌握しきれなくなり、これがさらなる政局と社会の混迷をもたらし、3世紀の危機を迎えるきっかけとなった。
マルクス・アウレリウスの後継者人事について、塩野七生は下記参考文献の中で、コンモドゥスを後継者に据えなければ、それを不満に思ったコンモドゥスにより内乱が起りかねなかったという点を指摘し、彼の実子を皇帝候補とした後継者人事のあり方に一定の理解を示している。[2]また、マルクス生存中の若きコンモドゥス自身、特に愚行を行うこともなく、暴君化するのは姉の陰謀以後であったこと、そしてコンモドゥス以外を後継者とした場合は不平分子にかつがれての内乱という最悪の事態が危惧される状況であったことをふまえると、当時の後継者人事においてコンモドゥスを次期皇帝候補に指名する以外に選択肢はなく、当時の状況において他に望ましい候補が見当たらなかったことも推察される。いずれにせよ、実子コンモドゥスの後継者としたことで、皮肉にも1世紀近く続いた皇帝の長期政権のシステムは崩壊し、それにより享受されたローマ帝国の安定(パクス・ロマーナ)は徐々に失われていった。
マルクス・アウレリウスの治世はキリスト教勢力の台頭しつつある時代でもあったが、マルクス自身はストア派の克己主義に立ち、当時すでに衰えていた伝統の神々の祭祀を復興して、帝国の精神的紐帯とすることを図った。このため、多神教の礼拝を拒んだキリスト教徒は国体の安定を危うくする迷信とみなされ、迫害を受けることとなった。一方、マルクスは、日々の思索と哲学を記した『自省録』と呼ばれる著書を遺している。哲人皇帝とも呼ばれ、後期ストア派の代表的人物に数えられるが、その思想は後期ストア派に顕著な折衷主義でもある。
このように、マルクス・アウレリウスは、国内外を通して多難な状況の中、つねに先頭に立ち、諸課題に対して誠実果敢に取り組む皇帝であった。殊に晩年気候の厳しいドナウ川防衛線に病魔に苦しみながらも留まり続けるマルクスの姿は、将兵たちに大きな尊敬の念を抱かれた。しかし同時に後継者指名に禍根を残すことで、ローマ帝国の安定は失われ、以降の皇帝乱立と暗殺の繰り返される時代を招来したといえる。180年、マルクス・アウレリウスは遠征先のウィンドボナ(現ウィーン)で死去。58歳。遺言に従い、次期皇帝には彼の息子であるコンモドゥスが就任した。
[編集] その他
中国後漢の史書『後漢書』西域列伝の大秦国の記事に桓帝の延熹9年(166年)日南に象牙やタイマイなどをもった「大秦王安敦」の使者がきたと記述されている。この「大秦王安敦」がマルクス・アウレリウス・アントニヌスとされる(先代のアントニヌス・ピウスの可能性もある)。
ローマ市内には、皇帝騎馬像として唯一マルクス・アウレリウスの騎馬像のみが現存している(ローマ時代に他の皇帝騎馬像も製作されたが、全て打ち棄てられたり破壊され、現存していない)。軍馬にまたがり天を仰ぐ威風堂々とした軍装姿で、元々は別の場所に据えられていたが、現在はカピトリーニ美術館内に展示されている。元々は全身を金で覆った黄金像であり、現在でもその断片を通して古来の栄華を偲ぶことができる。
ヨーロッパ文化圏での人名の一つマルクス、マーカスは彼に由来する。
[編集] 年表
- 121年 - 誕生
- 140年 - 初の執政官就任
- 161年 - ルキウス・ウェルスと共に共同皇帝に即位、パルティア戦役勃発
- 168年 - ゲルマン人の侵入に対処すべくドナウ川防衛線に向け出発
- 169年 - ルキウス・ウェルス死去
- 172年 - 第一次ゲルマニア戦争が勃発
- 175年 - シリア属州総督ガイウス・アウィディウス・カッシウスが叛乱を起こす
- 177年 - コンモドゥスを共同皇帝とする
- 177年 - 第二次ゲルマニア戦争勃発
- 180年 - ウィンドボナにおいて病により死去、コンモドゥスが単独の皇帝になる
[編集] 語録
- 「人は自分の魂の動きを観察しないと、必ず不幸になるものだ。」
- 「幸運を与える財宝や境遇は、素直に受け容れよ。ただし、それを手放すことも、素直に受け容れよ。」
[編集] 脚註
- ^ これについては、五賢帝の他の皇帝が実子を後継者としなかったのは、継がせようとも「法律婚に基づく」実子がなかったという事実があるため、そのような慣習は無かったとの説もある。少なくとも皇帝が好き勝手に後継者を選べる訳ではなく、五賢帝は後継者を選ぶにあたって元老院の承認を得ており、アウレリウス帝も実子を後継者にするにあたり同様に元老院の承認を得ている。
- ^ もっとも、実子があるのに実子以外の者を後継者とした場合には、本人の意思に関わらず内乱が起こる可能性がある。内乱は絶対に避けなければならず、この時点でマルクス・アウレリウスにはコンモドゥスを後継者失格とする要因が見当たらなかったのではないか、としているので、コンモドゥスによる内乱との限定、擁護は適切ではない。
[編集] 参考文献
- マルクス・アウレーリアス『自省録』(神谷美恵子訳、〈岩波文庫〉、1956年、改版2007年)
- 荻野弘之 『マルクス・アウレリアス<自省録>』(書物の誕生・岩波書店、2009年7月)
- 塩野七生 『ローマ人の物語XI 終わりの始まり』(新潮社、2002年、ISBN 4103096209、新潮文庫全3冊、2007年)
- クリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』創元社、1998年
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最終更新 2009年9月6日 (日) 11:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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