マルティン・ボルマン

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マルティン・ボルマン
Martin Ludwig Bormann
マルティン・ボルマン
1939年
生年月日 1900年6月17日
出生地 ヴェーゲレーベン
没年月日 1945年5月2日
死没地 ベルリン
前職 党官房長
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党
配偶者 ゲルダ・ボルマン

ナチス・ドイツの旗 ナチス党担当大臣
内閣 ゲッベルス内閣
任期 1945年4月30日 - 1945年5月2日
  

マルティン・ルートヴィヒ・ボルマンMartin Ludwig Bormann, 1900年6月17日 - 1945年5月2日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党官房長。アドルフ・ヒトラーの個人秘書を長らく務めた。最終階級は親衛隊大将。総統地下壕脱出の際に自殺した。

目次

[編集] 略歴

[編集] 生いたち

ドイツ中部のザクセン=アンハルト州のハルバーシュタット(Halberstadt)近郊のヴェーゲレーベン(Wegeleben)で、元陸軍軍楽隊隊員で郵便職員の息子として生まれたとされるが疑わしい。実際の所ボルマンは自分の経歴を大部分偽っていることがわかっており、この他にもレンガ職人、鉱山経営者の子という説がある。メクレンブルク州の農場で働くために学校を中退した。

第一次世界大戦では砲兵連隊に従軍。敗戦後、右翼の義勇軍に参加し、1923年3月フランス占領軍に対する抵抗の英雄であるアルベルト・レオ・シュラゲター (Albert Leo Schlageter) を裏切ったヴァルター・カドー殺害で、ルドルフ・フェルディナンド・ヘスと共に懲役一年を宣告される。釈放後の1925年にナチ党に入党し、財務面で功績を認められる。1928年にはチューリンゲン管区指導者に任命され、ナチス党幹部への道を歩み始めた。同年には党財務責任者にも選任され、救済金庫(共産党などとの殴り合いで負傷したが、治療費を出すことが出来ない同志のための金庫)の管理を任せられた。この任務をへて突撃隊財政支援の専門家と化したボルマンは裏方の事務に徹して確実に勢力を拡大させていく。ベルヒテスガーデンのヒトラーの山荘の改築も請負、ヒトラーに認められる。

[編集] ヒトラーの個人秘書

1933年、ヒトラーの政権掌握と同時に副総統(総統代理)ルドルフ・ヘスの副官としてナチ党副官房長に就任。1938年にはハインリヒ・ヒムラーより親衛隊名誉中将に叙され、1940年には親衛隊大将に昇進した。第二次世界大戦勃発前後はまだ地位を固め始めたばかりで国家政策や党の方針決定に影響を持ってはいなかったが、1941年5月10日に副総統ヘスが独断で和平交渉のためにイギリスへ飛び去った後にその地位が変わってくる。ヘス単独飛行の際には副官ボルマンも「共犯者」と疑われたが、ボルマンはすぐにヘスを批判して「無実」であることを証明し、逆に自分がその後釜に座ろうとしたが、ヘルマン・ゲーリングら古参党員がヒトラーに直談判してボルマンの副総統就任に反対し、結局、副総統の事務所は党官房と名を変えられ、ボルマンはその責任者である党官房長に就任することとなった。副総統にはなれなかったものの党官房長・全国指導者に任命されたボルマンは大きな影響力を得るに至る。以後ヒトラーの秘書として公私に渉り密接な関係を結ぶ。

上司には媚びへつらう一方で部下には冷酷な態度を取ったため、党幹部や国防軍上層部からも疎まれた。ヘルマン・ゲーリングは、ニュルンベルク裁判において「ヒトラーがもっと早く死んで、私が総統になっていたら真っ先にボルマンを消していただろう」と発言している。

ドイツの敗色が濃くなってくるとボルマンは次第に権力欲を顕にし、1945年3月には和平交渉に走ったヒムラーから指揮権を剥奪させた。4月22日、ゲーリングに「総統はかなり精神が衰弱しているので代りに指揮をとるように」と打電[要出典]。それを受けて翌23日にゲーリングはヒトラーに指揮権の委譲を要求する。結果、ゲーリングは失脚した。これはボルマンの意図した通りであった。

[編集] 最期

4月30日、ヒトラーは遺言でボルマンを遺言執行人、そしてナチ党担当大臣(ナチ党の党首)に任命して自殺した。深夜になってボルマンはヒトラーの主治医であるルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガーと共に総統地下壕を脱出したが、両名とも生き延びることはできなかった。

戦後、総統官邸から北に数キロのヴァイデンダム橋で両名の遺体を目撃したという証言が複数発表された。発掘が行われたが、それらしき遺体は発見できなかった。ニュルンベルク裁判では欠席裁判のまま1946年10月1日に死刑判決が下された。1954年10月にはベルヒテスガーデン地方裁判所はボルマンの死亡を宣言した。しかし、遺体が見つからなかったので、ブラジルへ逃亡しナチス残党を集めてナチスの再建を図っているという噂がまことしやかに語られるようになった。

1972年12月、ヴァイデンダム橋から遠くないレアター駅近くの工事現場で2体の人骨が偶然発見された。法医学者・歯科医・形質人類学者が鑑定した結果、シュトゥンプフエッガーとボルマンのものであることが確認された。遺体の口にはカプセルのガラス片と青酸の痕跡が認められた。また、1998年には家族の要請でDNA鑑定が行われ、人骨がボルマンのものであることが再確認された。その後遺骨は荼毘に付され、バルト海に散骨された。

しかし、現在でも遺骨の真贋を疑う者は多い。根拠として、ベルリンの戦いでは何十万もの犠牲者が出たため遺骨を捜そうと思えばすぐに捜すことができ、その中からボルマンの遺骨を発見することは到底不可能に近いこと、ボルマンの遺骨とされる頭蓋骨に確認されたアマルガムなどの歯の治療は戦後にも行われていた形跡があることから遺骨は別人ではないかという説もある。また、アドルフ・アイヒマンは裁判中に「彼は南米で生きている」と証言している。

[編集] 家族

ナチスの幹部についてしばしば評される「職場では冷酷残忍、家庭では良き夫」という言葉のとおり、ボルマンもまた家庭では良き夫、優しい父親だった。ボルマンはゲルダ・ブーフと結婚し、10人の子供がいた。ただ、ボルマンは妻の他にも愛人を持っていた上に、その事実を妻に隠そうとはしなかった。敗戦直前、秘書ヘルムート・フォン・フンメルの機転で一家は南チロルへ脱出。ゲルダは1946年に癌で死亡。子供たちは孤児院で養育される。

また、弟のアルベルト・ボルマン(Albert Bormann1902年-1989年)もヒトラーの秘書として仕えている。ボルマン兄弟はヒトラーの信任を巡って絶えず暗闘を繰り返していた。

[編集] 文献

ボルマン生存説をテーマにした小説。
  • ラディスラス・ファラゴ 寺村誠一訳『追及 マルチン・ボルマンとナチの逃亡者』早川書房上・下  1977年
  • 檜山良昭 『ナチス副総統ボルマンを追え』 東京書籍、1993年、ISBN 4-487-79152-9
  • ジェームス・マクガバン(西城信訳) 『ヒトラーを操った男―マルチン・ボルマン』 新人物往来社、1974年
  • 『ヒトラーの遺言 1945年2月4日-4月2日』篠原正瑛訳・解説、原書房 1991年

[編集] 登場する作品

[編集] 関連項目


最終更新 2009年9月18日 (金) 02:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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