マレンゴの戦い

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マレンゴの戦い

マレンゴの戦い
戦争イタリア戦役 (1799-1800年)フランス革命戦争ナポレオン戦争
年月日1800年6月14日
場所イタリア北部ピエモンテ州アレッサンドリア近郊
結果:フランス軍の勝利
交戦勢力
フランス オーストリア
指揮官
ナポレオン・ボナパルト ミヒャエル・フォン・メラス
戦力
28,000, 野砲24門 31,000, 野砲100門
損害
4,000-7,000 6,000, 捕虜8,000, 野砲鹵獲40門
マレンゴの戦いの配置図。6月14日早朝

マレンゴの戦い(マレンゴのたたかい、: Battle of Marengo: Bataille de Marengo1800年6月14日)は、フランス革命戦争ナポレオン戦争)における戦闘の1つである。イタリア北部ピエモンテ州アレッサンドリア近郊の町マレンゴにおいて、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、ミヒャエル・フォン・メラス率いるオーストリア軍に対して勝利を収めた。

目次

[編集] 背景

1798年にオーストリアは第二次対仏大同盟を結成してフランスへ宣戦し、1800年までに北イタリアの大部分を奪回した。1799年に第一統領に就任してフランスの独裁権を確立したボナパルトは、反撃のためにジュネーヴに軍を集結させた。1800年5月、ボナパルトは37,000を率いてグラン・サン・ベルナール峠を越え北イタリアへ進出した。

その頃、オーストリア軍はジェノヴァに篭城するマッセナ指揮下のフランス軍部隊を攻囲中であった。ボナパルトはオーストリア軍の背後に出てミラノパヴィアを占領するが、ジェノヴァのフランス軍部隊は限界に達し6月4日に開城した。オーストリア軍主力はトリノに集結した。

ボナパルトの機動によってオーストリア軍は退路を遮断される形となったが、司令官のメラスは東進を決意し、アレッサンドリアまで前進した。これに対してフランス軍は、オーストリア軍主力がトリノにとどまっていると誤認し、分散したまま西進した。こうして両軍は、6月14日、アレッサンドリア近郊のマレンゴにおいて遭遇した。

[編集] 経過

6月14日早朝、オーストリア軍31,000はアレッサンドリアからマレンゴへ前進し、午前9時、マレンゴの村にいたヴィクトールのフランス軍部隊を攻撃した。このときボナパルトは戦場から5キロ後方にいた。ボナパルトは攻撃がオーストリア軍主力によるものと認識し、直ちにランヌミュラの部隊を増援に投入した。さらに別働隊へも伝令を送り、自身は午前11時に戦場へ到着した。

この時点で戦場のフランス軍は23,000しかおらず、数で勝るオーストリア軍の攻勢を支えるのに手一杯であった。午後2時にはマレンゴの村がオーストリア軍に奪われ、フランス軍は3キロ余りの後退を強いられた。メラスは勝利を確信し、勝報をウィーンへ送った。

だがボナパルトはまだ敗れていなかった。午後5時、ドセーの別働隊5,000が来着し、フランス軍は逆襲に転じた。ドセーがオーストリア軍の正面へ突撃し、ケレルマンの騎兵部隊がオーストリア軍の背後を襲撃した。オーストリア軍は分断され、アレッサンドリアへ向けて敗走した。

戦いはフランス軍の逆転勝利に終わった。しかし、激闘の最中、勝利に大きな貢献をしたドセーは戦死した。

[編集] 影響

6月15日にメラスは降伏し、北イタリアは再びフランスの手に落ちた。12月3日にモローの率いるフランスのライン方面軍がオーストリア軍を破ったホーエンリンデンの戦いとあわせて、オーストリアは戦意を喪失し、リュネヴィルの和約に応じた。これにより第二次対仏大同盟は崩壊した。

[編集] 逸話

  • マレンゴの戦いの夜、戦場の混乱の中、ボナパルトの料理人はありあわせの材料をもとに鶏料理を考案した。この料理が「鶏のマレンゴ風」であるという。
  • プッチーニのオペラ『トスカ』では、第一幕でボナパルトがマレンゴの戦いに敗れたという誤報がもたらされ、第二幕でボナパルトが勝ったという正しい知らせが届く。
  • ナポレオンの肖像画にも描かれている芦毛の愛馬「マレンゴ」の名はこの戦いが由来とされている。

[編集] 参考文献

  • アントニーノ・ロンコ(著), 谷口勇(訳), 『ナポレオン秘史―マレンゴの戦勝』, 而立書房, 1994/3 ISBN 4880591939
  • 松村劭(著), 『ナポレオン戦争全史』, 原書房, 2005/12 ISBN 4562039531

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月17日 (火) 19:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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