マレー作戦

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マレー作戦

クアラルンプールに突入する日本軍部隊
戦争太平洋戦争/大東亜戦争
年月日1941年12月8日 - 1942年1月31日
場所マレー半島
結果:日本軍の勝利
交戦勢力
日本軍 イギリス軍
英印軍
オーストラリア軍
指揮官
山下奉文中将 アーサー・パーシヴァル中将
戦力
35,000[1] 88,600[2]
損害
戦死1,793、戦傷2,772 損害約25,000
うち遺棄死体約5,000、捕虜約8,000[3]

マレー作戦(まれーさくせん, Battle of Malaya, 日本側作戦名「E作戦」)は、太平洋戦争大東亜戦争)序盤における日本軍イギリスマレーおよびシンガポールへの進攻作戦である。日本の対英米開戦後の最初の作戦である。

1941年12月8日マレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入した。これは世界の戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。

目次

[編集] 背景

大東亜戦争開戦時における日本軍の戦略目標は、オランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかるイギリスの植民地であるシンガポールを攻略する必要があった。シンガポールは戦艦プリンス・オブ・ウェールズレパルスを基幹とするイギリス東洋艦隊の根拠地であり、またイギリスの東南アジアにおける植民地支配の中心拠点として、イギリスの抵抗に手を焼くドイツも日本軍による攻略を切望するところであった。

シンガポールは日英同盟の破棄以降、イギリスによって防御設備の強化が進められ、「東洋のジブラルタル」とも称されていた。海に面した南側には戦艦の主砲並みの15インチ(38センチ)砲をはじめとする重砲群とトーチカ群が構築され難攻不落の要塞となっていた。北側のジョホール海峡側の防備は手薄であったが、マレー半島が天然の防壁となると考えられていた。

上陸可能地点であるタイ領内のシンゴラ(ソンクラ)からシンガポールまでは1,100キロの距離があり、半島を縦断する道路は一本道で、両側には鬱蒼たるジャングルゴム林が広がっていた。さらに半島には大小250本の河川が流れ、橋梁を破壊すれば容易に軍隊の進撃を阻止できると考えられた。その間にイギリス軍はシンガポール北側の防備を強化することができると考えていた。

日本軍が持つことのできる時間的余裕は長くはなかった。大本営は、「マレー半島を70日以内で縦断してシンガポールを攻略する」という目標を立て、作戦準備を開始した。

[編集] 参加兵力

[編集] 日本軍

山下奉文中将

大本営は南方作戦の中でもマレーを最重要視し精鋭部隊をこれに当てた。第5師団(広島)は建軍以来の精鋭師団であり、1941年初頭に馬匹編成から自動車編成に改編された虎の子の機械化師団であった。近衛師団(東京)は宮城警護を任務としており日露戦争以来一部の部隊を除き実戦経験がないという不安はあったが、やはり数少ない機械化師団の1つであり本作戦には不可欠と考えられた。

第18師団(久留米)は馬匹編成であり機動力では劣っていたが、精鋭師団の一つとして期待されていた。また、イギリス軍は橋梁を破壊して遅滞を図ると予想されたため、橋梁修理のために独立工兵連隊が増強された。参謀陣にも鈴木中将、辻中佐ら大本営の逸材が参画し、資材も最良のものが割り当てられた。

1941年3月に第5師団はマレー戦を想定して佐世保で大演習を行い、ジャングルやゴム林での戦闘の演習も進めていた。さらに辻中佐らは6月から海南島で作戦研究を行っていた。海南島一周は1,000キロでマレー作戦の進撃路の長さに匹敵し、熱帯性気候や一本道の地形も共通する。日本軍はこうした万全の準備をもって作戦に臨んだのである。

[編集] イギリス軍

アーサー・パーシヴァル中将
シンガポール要塞の15インチ沿岸砲

イギリス軍は国際情勢の悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点であるマレー及びシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600、インド兵37,000、オーストラリア兵15,200、その他16,800の合計88,600に達していた。兵力数は日本軍の開戦時兵力の2倍であったが、訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。軍の中核となるべきイギリス第18師団はいまだ輸送途上であった。

また、兵士は世界各地のイギリスの植民地から集めた異なる民族の寄せ集めであり、統帥には苦心があった。特に多数を占めたインド兵たちは、祖国を抑圧するイギリス人のために、祖国から遠く離れたマレーの地で命を投げ出す理由など持ち合わせていなかった。

空軍については現地司令部から本国へ幾度も増強の要請がなされたが、ドイツ軍との戦いに手一杯の本国はこれを軽視し旧式機ばかりを送ってよこした。それでもイギリス空軍は「ロールス・ロイスダットサンの戦争だ」と日本航空部隊を見くびっていたという。しかし、イギリス空軍の旧式機は支那事変日中戦争)で実戦経験を積んだ零戦を相手に完全に圧倒されることとなった。

[編集] 作戦開始時刻

大本営はマレー上陸とアメリカハワイに対する真珠湾攻撃との関係に考慮を要した。陸軍はマレー上陸が長途の海上移動の危険を伴うことから奇襲を絶対条件とし、海軍も真珠湾での奇襲に期待をかけていた。しかし、一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。マレーとハワイとでは約6時間の時差がある。双方を両立させるのがマレーの深夜、ハワイの早朝という作戦開始のタイミングであった。

1941年12月8日午前1時30分(日本時間)、佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊がマレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分、太平洋戦争はこの時間に開始されたのである。この上陸作戦自体は宣戦布告予定時間より前に開始されており、駐米日本大使館の失態による遅延が原因の宣戦布告の遅れが無くても、日本軍が宣戦布告無しで開戦することは予定通りであった。この時の日本軍の開戦日の暗号は「ヒノデハヤマガタ」である。

[編集] 経過

[編集] コタバル強襲上陸

マレー作戦の推移

マレー半島東岸は断崖地形が続き、上陸作戦が可能な海浜はイギリス領東北端のコタ・バルか、タイ王国領内のみであった。イギリス軍はコタバルに1個旅団を配置しトーチカ陣地を構築していた。コタバルへの上陸作戦の方法としては、制空権を奪取した上で敵陣へ準備砲爆撃を加えるという正攻法も検討されたが、マレー作戦全体の所要日数を考えればそのような時間の余裕はなかった。かくして準備砲爆撃なしにいきなり敵前への上陸を敢行するという強襲上陸が決行された。

第18師団歩兵第56連隊を基幹とする佗美支隊5,300名は、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内基幹の第3水雷戦隊)に分乗し、12月8日未明(日本時間)にコタバルへ接近した。波高は2メートルを超え上陸用舟艇への移乗は困難を極めた。午前1時30分、コタバルの海岸線で英印軍第8旅団6,000名との交戦が始まった。

第1次上陸部隊の松岡大隊、数井大隊と那須連隊長は予想外の激しい抵抗を受け両大隊長とも負傷し、中隊長以下多数の死傷者を出した。第2次上陸部隊の中村大隊と佗美支隊長は運悪くトーチカ正面に突き当たり中村大隊長は上陸と同時に戦死した。イギリス空軍も出撃し、淡路山丸は多数の命中弾を受け炎上沈没、太平洋戦争に於ける被撃沈第1号となった。綾戸山丸、佐倉丸も被弾し、船団は一時退避を余儀なくされた。

佗美支隊は苦戦しながらも8日正午までに橋頭堡を確保し、8日夜には大雷雨を衝いて夜襲により飛行場を制圧。9日昼にコタバル市内を占領した。上陸作戦による戦死320、負傷者538、舟艇も多数を失ったものの作戦は成功した。佗美支隊はその後、1月3日までに東海岸の要衝クアンタンを制圧し、第25軍主力と合流した。

[編集] マレー沖海戦

マレー沖海戦
スクランブルを受けてF2A バッファローに乗り込むパイロット

詳細は「マレー沖海戦」を参照

イギリス海軍プリンス・オブ・ウェールズレパルスは12月2日にシンガポールのセレター軍港に到着したばかりであった。12月8日、日本軍侵攻の報を受け、両戦艦は上陸部隊を撃滅すべくシンガポールを出撃した。しかし、イギリス海軍は日本航空部隊を甘く見て直掩機をつけなかったため、両戦艦は10日にマレー半島東方沖で航空攻撃によってあえなく撃沈されてしまった。これによりマレー半島東岸の制海権は日本軍の手に帰した。

[編集] ジットラ陣地突破

第5師団はマレー半島北端のタイ王国の領内のシンゴラおよびパタニに上陸した。日本軍は、アジアにおける日本以外で唯一の独立国であり、親日的なタイに対する攻撃意図は全くなく通過を申し入れるのみであったが、中立を守ろうとするタイ軍との間で一部で小競り合いも起きた。12月8日中に協定が締結され、日本軍はタイ領を通過した。第5師団の先頭を突き進むのは佐伯静雄大佐率いる捜索第5連隊(騎兵部隊から改編された機械化部隊)に砲兵・工兵を加えた佐伯挺身隊581名であった。

イギリス軍はタイ経由の日本軍侵攻を警戒しており、開戦直後にタイ領南部へと侵攻し、タイ警察の抵抗を排除して防衛線を築いていた。しかし、進撃してきた佐伯挺身隊により、短時間で突破されてしまった。

イギリス軍はタイとマレーの国境近くのジットラには、ジットラ陣地(ジットラライン)と呼ばれる防御陣地を構築していた。狭隘な地形を利用しており、英印軍第6、第15旅団からなる兵力6,000、装甲車90両が展開、強固さは小マジノ線とも称された。日本の第5師団はジットラ陣地での戦闘を予想して半年にわたって演習を重ねていた。10日、佐伯挺身隊は戦車を先頭にタイ・マレー国境を通過。11日にアースンの国境陣地を突破しさらに進撃の最中、12日未明予期せず砲撃を受ける。佐伯挺身隊は東側の敵陣地に夜襲をかけ一角を占領、夜が明けるとその場所こそがジットラ陣地であった。12日昼間は猛烈な砲撃を受けるが午後には歩兵部隊も到着。その夜の夜襲を決意し準備を進めていたところ、午後5時に英印軍はジットラ陣地から全面退却した。

ジットラ陣地をわずか1日で、しかも581名の佐伯挺身隊が突破するとは大本営ですら驚愕した勝利であった。佐伯挺身隊の戦死27、戦傷83。英印軍の捕虜は1,000名以上。この勝利により山下中将は作戦のスケジュールを繰り上げた。

[編集] マレー半島進撃

マレー半島内の橋梁を破壊するイギリス軍工兵
イギリス軍により交通路を遮断されたジョホール海峡
降伏交渉を行う山下中将とパーシヴァル中将

マレー半島のイギリス軍は軽く抵抗して時間を稼ぎながら、大小250本の河川にかかる橋梁を逐次爆破し後退した。日本軍は、当時のマスコミが「銀輪部隊」と名づけた自転車部隊を有効活用し、進撃を続けた。日本軍の歩兵自転車に乗って完全装備で1日数十キロから100キロ近くを進撃し、浅い川であれば自転車を担いで渡河した。戦前からこの地域には日本製の自転車が輸出されていたため部品の現地調達も容易であった。

馬や自転車を活用した日本軍であったが、重砲や車両の前進には橋梁の修復が不可欠であり、第25軍の進撃速度はすなわち橋梁の修復速度であった。この作業には各師団の工兵隊と独立工兵連隊とが文字通り不眠不休であたった。西海岸では舟艇機動も効果を発揮した。20人乗りの舟艇30隻を用意して運び込み、十数回にわたって海上をつたってイギリス軍の背後を奇襲した。マレー半島西岸の制海権はいまだイギリス側にあったが、イギリス海軍はこれに対して何の手も打たなかった。

年が明けて1月6日、日本軍はスリムでイギリス軍の堅陣にぶつかった。ここで戦車第6連隊の島田豊作少佐は戦史に例のない戦車夜襲を決行する。7日午後11時からの夜襲により1日で全縦深を突破し、逃げ遅れた英印軍1個師団を包囲し壊滅させた。イギリス軍のクアラルンプール防衛計画は崩壊し、12日に同市は放棄された。

1月14日にはイギリス軍を追撃中の向田支隊(戦車第1連隊基幹)がグマスでオーストラリア第8師団の逆襲を受け壊滅するという一戦もあった。1月中旬、近衛師団が前線に到着し、疲労した第5師団に代わって第一線に立った。19日、近衛歩兵第5連隊第2大隊はバクリで英印軍第45旅団と対戦し、大柿大隊長以下6割の死傷者を出しながらも英印軍を殲滅、第45旅団長を戦死させた。

[編集] ジョホール・バル到達

1月末、日本軍はマレー半島最南端のジョホール・バルに迫り、イギリス軍はマレー半島内での抗戦をあきらめシンガポール島内へ退却した。1月31日、最後の部隊がジョホール・バルを脱出し、工兵隊がマレー半島とシンガポール島とを結ぶ土手道(コーズウェー)を爆破した。同日、第5師団と近衛師団の先頭部隊は相次いでジョホール・バルに突入、ここにマレー半島での戦闘は終結した。

日本軍は12月8日の上陸から55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復しつつ1,100キロを進撃した。海上機動も650キロに及んだ。日本軍の損害は戦死1,793、戦傷2,772。イギリス軍は遺棄死体5,000、捕虜8,000を数えた。

[編集] シンガポール攻略

詳細は「シンガポールの戦い」を参照

2月8日、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。主要陣地を次々奪取し、11日にブキッ・ティマ高地に突入するが、そこでイギリス軍の砲火を受け動けなくなった。15日、日本軍の砲弾が底をつき、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念した理由であった。

シンガポール攻略戦での日本軍の戦死は1,713名、戦傷3,378名。イギリス軍は10万人が捕虜[5]となった。これはアメリカ独立戦争におけるヨークタウンの戦い以来のイギリス軍史上最大規模の降伏であり、近代のイギリスにおいて歴史的な屈辱であった。

[編集] 影響

日本軍は驚異的な速度でマレー半島を進撃し、イギリス軍を急追して開戦以来70日でシンガポールを陥落させた。日本軍は戦前から周到な準備を重ね、陸軍の進撃を海軍と航空部隊が支援し(ただし第3飛行集団は作戦後半になって蘭印方面へ転用された)、また歩兵、工兵、戦車がよく協力しあった。日本軍の南方作戦は順調なスタートを切り、その後3月にはジャワ島、5月にはビルマを制圧して、太平洋戦争開戦時に於ける作戦目標を達成した。

一方、イギリス軍は敵を軽視して準備不足のまま戦争に突入した。隷属化においた植民地から調達した多民族からなる軍隊はまとまりを欠き、陸海空相互の協力も不十分であった。シンガポールの陥落はイギリスのアジア植民地支配の転換点となり、植民地帝国としてのイギリスの崩壊を決定づけた。アジアでは民族主義が高揚し、太平洋戦争後のアジアにおいて、これまでの様なイギリスの地位は長くは持たなかった。マレーは1957年マラヤ連邦としてイギリスから独立する。

兵站に関しては、日本軍はイギリス軍から鹵獲した食糧、燃料、軽火器等を活用した。糧食は日本軍のものより味も良く兵士たちは「チャーチル給養」と名づけて喜んだという。現地での徴発も円滑であった。当時マレーには500万の人口が居住し、食糧は豊かであった。このようにして日本軍は補給部隊に依存することなく軽快に行動できた(後日、日本軍は人口希薄で食糧生産の乏しいガダルカナルニューギニアでは飢餓に苦しんだ)。

マレー作戦で日本軍は初めて英印軍と対戦した。難なくこれを破ったことで、「中国軍より弱い。果敢な包囲、迂回を行えば必ず退却する」(牟田口中将)[6]という認識を持った。

[編集] 参考

[編集] 文献

  • 防衛庁防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書 マレー進攻作戦』, 1966年
  • 陸戦史研究普及会(編)『マレー作戦 第二次世界大戦史』原書房, 1966年
  • 越知春海『マレー戦記』図書出版社, 1973年
  • 片倉衷『インパール作戦秘史―陸軍崩壊の内側』経済往来社, 1975年
  • 森山康平『マレー・シンガポール作戦』フットワーク出版、1991年
  • 伊藤正徳『帝国陸軍の最後〈1〉進攻篇』(文庫), 光人社, 1998/1, ASIN: 4769821875

[編集] マレー作戦を扱った映画

[編集] 歴史ゲーム(ボードゲーム)

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

  1. ^ 緒戦からの参加兵力。増援兵力を含まない。以下、数値は『マレー作戦 第二次世界大戦史』に従った。
  2. ^ 緒戦からの参加兵力。増援兵力を含まない。
  3. ^ 日本軍部隊の報告による。
  4. ^ 『戦史叢書 マレー進攻作戦』付表は誤植とみられる。
  5. ^ 降伏者の人数には諸説あるが、『マレー作戦 第二次世界大戦史』に従った。
  6. ^ 『インパール作戦秘史―陸軍崩壊の内側』, p.121

[編集] 関連項目

最終更新 2009年10月12日 (月) 06:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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