メキシコ出兵
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| メキシコ出兵 | |
|---|---|
![]() プエブラの会戦 |
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| 戦争:メキシコ出兵 | |
| 年月日:1861年12月8日 - 1867年6月21日 | |
| 場所:メキシコ | |
| 結果:メキシコ共和制側の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
ラテンアメリカ諸国から若干の参加 |
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| 指揮官 | |
| フランソワ・アシル・バゼーヌ |
ベニート・フアレス ポルフィリオ・ディアス |
| 戦力 | |
| フランス軍 38,493 オーストリア=ハンガリー志願兵 7,000 ベルギー志願兵 2,000 |
~80,000 |
| 損害 | |
| フランス軍死傷 6,654 | 死傷 12,000 |
メキシコ出兵(メキシコしゅっぺい)は、1861年から1867年にかけてフランスなどがメキシコに対して行った内政干渉及び武力侵攻。内政干渉を始めた1861年を開始年とするほか、フランスがメキシコ市を陥落させた1863年を開始年とする考えがある。
目次 |
[編集] フランスの出兵
1861年、ベニート・フアレス政権が誕生、国内の経済的混乱を鎮めるために債権の利払いの一時停止を発表した。債権国のフランス、スペイン、イギリスは武力制裁をすることで一致、翌年共同出兵を行った。この時期、メキシコに対して米墨戦争を仕掛けるなど内政干渉を続けていたアメリカが南北戦争に突入し、中米地域のパワーバランスが崩れていたことも背景にあった。
大きな利権が伴わないスペイン、イギリスは、個別に債権の利払いに関する交渉を進め、1862年中に撤兵したが、フランスはカトリックの布教という宗教的な関心を持つウジェニー・ド・モンティジョ(ナポレオン3世皇后)の影響と台頭するアメリカに対する牽制としてラテンアメリカに親欧州の帝国を築きたいナポレオン3世の意向もあって出兵を継続。プエブラの会戦ではフランス側が敗北を喫するものの、フランス外人部隊などを含め派兵数を3万人に増強。1863年6月にメキシコ市を陥落させ、翌年にはオーストリア皇弟フェルディナント・ヨーゼフ・マクシミリアン大公を皇帝に据えた傀儡政権(第2次メキシコ帝国)を成立させた。
[編集] メキシコ帝国の崩壊
帝国は誕生したものの、皇帝の権限は絶対的なものではなかった。また第2次メキシコ帝国が地主層やカトリック教会などの保守層を基盤として成立したにもかかわらず、皇帝マクシミリアン1世は自由主義的政策を断行したことでその支持すら失い、結果経済政策でも極めて保守的な富裕層との間で軋轢が生じ離反されることになった。マクシミリアン1世はフアレスを首相として招聘して自由主義者を味方につけようとするがフアレスの拒絶によって失敗。結局保守派からも自由主義派からも支持を得られず、フランスの軍事力のみが辛うじて帝国を支えていた。しかしそのフランス軍司令官のバゼーヌはメキシコ貴族の娘と結婚したことからあろうことか自ら皇帝に即位しようと考え、ひそかにフアレス派と内通する始末であった。やがて南北戦争の混乱から脱したアメリカもフランスに対して撤兵を要求するとともに、政権を追われたフアレスに軍事支援を行いゲリラ戦を助けたことから国内情勢は混乱を極めた。
1866年、ナポレオン3世は、高まる隣国プロイセンの脅威論を背景に撤退を決断。皇帝マクシミリアンに対し引き上げを通告するものの、皇帝は提案を拒否。1867年3月、フランスは皇帝の説得をあきらめ、メキシコからの撤退を開始した。
[編集] その後のメキシコ
皇帝側は、フランスの撤退後も独自に抗戦を続けるもののわずか2ヶ月でゲリラ側に逮捕、同年6月19日に銃殺された。翌月、フアレスは共和制の復活を宣言、総選挙を経て再び政権の首班に返り咲いた。
メキシコ出兵以前は、領土問題からアメリカとの抗争が続いていたメキシコであるが、メキシコ出兵への抵抗運動にアメリカが支援したことから、メキシコに対するアメリカの発言力は増すこととなった。以降、地域のパワーバランスはアメリカ優位のまま、21世紀に至るまで固定化されている。
[編集] その後のフランス
皇帝が銃殺されるという結果は、傀儡というただし書きがつくとはいえ、フランス本国にもセンセーショナルな扱いで伝えられた。実態はどうであれ、国民からは「フランスはメキシコ皇帝を見殺しにした」と評価され、ナポレオン3世及び皇后は非難の対象となり、第二帝政終焉の遠因となった。
[編集] 参考文献
- 鹿島茂『怪帝ナポレオンIII世 第二帝政全史』(講談社、2004年) ISBN 978-4-06-212590-1
最終更新 2009年9月5日 (土) 21:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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